前回の記事では、問題行動の背景にある

「特別であることへのこだわり」について触れ、

「普通であることの勇気」を持て!

というお話でした。

 

今回でやっと最後の要約になります。

長々とお付き合いいただきありがとうございました。

 

今回は、前々回の記事

 

勇気づけ:「感謝の言葉」を伝え「存在」に感謝する

 

を読んで、どのような感想を持たれたでしょうか?

 

 

・・・・・・・・・・

 

子どもの存在そのものを認め、感謝する

ことが大切なのですね。

子どもの向上心を植え付けるには、

「ありがとう」「たすかるわ」などという

親からの言葉がけが大事だったのですね。

 

 

あぁ、子どもが赤ん坊だった頃を思い出しました。

あの頃は、私は子どもが失敗しても、

食べ物を落としても、何をしても可愛かったし、

生まれてきてくれて「ありがとう」って

存在そのものに感謝していたはずなのに・・・

何か持ってきてくれれば、それがたとえ遊びであっても

「ありがとう」って笑顔で受け取っていたのに。

いつの間にか、その気持ちを忘れてましたorz

 

けれど、私の今までの叱ってばかりの子育てが

まずかったなんて言われたら、どうしたらいいか・・・

落ち込みますよ(:_;)

 

でも、うちの子、高三なんです。受験生なんです。

今までさんざん遊んできたつけが

今になって本人もやっとわかったようですが、

もう遅い、自分の未来に希望はないと

夢を持てずにいます。

 

もう一度、子育てをやり直せるものなら

やり直したいです。

私には、後悔という二文字しかありませんよ(:_;)

 

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もしも、このような感想だったとしたら・・・

 

 

ここから要約です。

長いですが、おつきあいください(__)

 

アドラー心理学は、更に、このように語りかけます。

 

 

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いいえ、後悔する必要なんてありません・・・

 

あなた方は、人生を「登山」のように考え、

自らの生を「線」としてとらえています。

 

「登山 フリー写真」の画像検索結果

 

この世に生を受けた瞬間からはじまった線が、

大小さまざまなカーヴを描きなたら頂点に達し、

やがて死という終点を迎えるのだと。

 

しかし、こうして人生を物語のようにとらえる発想は、

フロイト的な原因論にもつながる考えであり、

人生の大半を「途上」としてしまう考え方なのです。

 

では、人生はどんな姿だと言うのですか?!

 

 

【 人生とは、連続する刹那である 】

 

 

人生は線ではなく、点の連続なのだと考えてください。

 

そう、「いま」という刹那の連続です。

 

刹那をダンスして踊る。

踊ること自体が目的であって、

山頂という目的地は存在しないのです。

 

われわれは「いま、ここ」にしか

生きることができない。

われわれの生とは、

刹那の中にしか存在しないのです。

 

それを知らない大人たちは、

若者に「線」の人生を押しつけようとします。

いい大学、大きな企業、安定した家庭、

そんなレールに乗ることが幸福な人生なのだと。

でも、人生に線などありえません。

 

人生設計、あるいはキャリア設計なども必要ないと?

 

もしも人生が線であるのなら、

人生設計も可能でしょう。

しかし、われわれの人生は点の連続でしかない。

計画的な人生など、

それが必要か不必要かという以前に、

不可能なのです。

 

ええい、くだらない!

なんて馬鹿馬鹿しい考えだ!

あなたの議論は人生における計画性を

否定するばかりでなく、

努力までも否定している!

 

たとえば、

幼い頃からバイオリニストを夢見て猛練習に励み、

ついには憧れの楽団で活躍するような人生。

あるいは、

猛勉強の末に司法試験に合格し、

弁護士になるような人生。

これらいずれも、目標と計画なしで

ありえない人生です。

 

つまり彼らは、登山で山頂をめざすように

黙々と歩いてきたと?

 

もちろんですよ!

 

はたしてそうでしょうか?

その方々の人生のどの瞬間も

「いま、ここ」に生きていたのではないでしょうか?

つまり、途上としての人生を生きていたのではなく、

常に「いま、ここ」を生きていた。

たとえば、バイオリニストを夢見た人は、

いつも目の前の楽曲だけを見て、

この一曲、この一小節、この一音だけに

集中していたのではないでしょうか?

 

それで、目標に到達できますか?

 

「ダンス フリー写真」の画像検索結果

 

 

こう考えてください。

人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる

連続する刹那なのです。

そして、ふと周りを見渡したときに

「こんなところまで来ていたのか」と気づかされる。

 

バイオリンというダンスを踊ってきた人の中には、

そのままプロになる人もいるでしょう。

司法試験というダンスを踊ってきた人の中には、

そのまま弁護士になっている人もいるでしょう。

 

しかし勿論、

それぞれ別の場所に行きつくこともあります。

 

でも、いずれの人生も「途上」で終わったわけではない。

ダンスを踊っている「いま、ここ」が充実していれば、それでいい

のです。

 

人生の目的地は存在しないのです。

 

目的地の存在しない人生などあってたまるものか!

そんなふらふらした風まかせの人生、

誰が認めますか!

 

アリストテレスによる説明を引用しましょう。

 

あなたのおっしゃる目的地がある人生観とは、

始点と終点までの「線」ととらえる運動と同じです。

できるだけ効率的かつ速やかに達成されることが望ましい。

特急列車に乗れるのなら、

わざわざ各駅停車の普通列車に乗る必要はないわけです。

 

すなわち、弁護士になるという目的地があったとしたら、

なるべく早く、なるべく効率的にそこに到達したほうがいい。

 

そして、目的地にたどりつくまでの道のりは、

目的に到達していないという意味において不完全である。

道半ばというわけです。

 

 

一方、人生を「点」ととらえる人生観とは、

「過程そのものを結果と見なすような動き」

と考えてもいいでしょう。

そこに目的地はありません。

 

いいですか、あなたは、

原因論を否定されるなかで、

過去を見つめることを否定した。

過去など存在しない。過去に意味はないのだと。

 

そこについては認めます。

たしかに過去は変えられない。

変えられるとしたら、それは未来だけです。

 

しかし、あなたは未来への計画性をも否定し、

つまり自らの意思によって未来を変えることさえ

否定しておられる。

 

あなたは後ろを見ることを否定しながら、

前を見ることまでも否定しているわけです。

そんなものは、まるで道なき道を

目隠ししたまま歩けといっているようなものだ!

 

当然のことではありませんか。

 

過去にどんなことがあったかなど、

あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、

未来がどうであるかなど

「いま、ここ」で考える問題ではない。

 

フロイト的な原因論に立っていると、

人生を因果律に基づく大きな物語として

とらえてしまいます。

いつどこで生まれて、どんな幼少時代を過ごし、

どんな学校を出て、どんな会社に入ったか。

だからいまのわたしがいて、

これからのわたしがいるのだと。

 

たしかに、人生を物語に見立てることは

おもしろい作業でしょう。

 

ところが、物語の先には

「ぼんやりとしたこれから」が見えてしまいます。

しかも、その物語に沿った生を送ろうとするのです。

わたしの人生はこうだから、

そのとおりに生きる以外にない。

悪いのはわたしではなく、過去であり環境なのだと。

 

ここで持ち出される過去は、

まさしく免罪符であり、人生の嘘に他なりません。

 

しかし、人生とは点の連続であり、

連続する刹那である。

 

そのことが理解できれば、

もはや物語は必要なくなるでしょう。

 

あなたにとって、人生が直線に見えているとしたら

あなたが「変えない」という

不断の決心をくり返してきた結果、

直線に映っているだけにすぎません。

 

人生は、点の連続であり、連続する刹那である

と見えているとしたら、

これからの人生は、まったくの白紙であり、

進むべきレールが敷かれているわけではない。

そこに物語はありません。

 

「いま、ここ」にスポットを当てるというのは、

いまできることを真剣かつ丁寧にやっていく

ことです。

 

 

真剣かつ丁寧に生きる?

 

たとえば、大学に進みたいと思いながら、勉強しようとしない。

これは、「いま、ここ」を真剣に生きていない態度でしょう。

 

もちろん、受験はずっと先のことかもしれません。

なにをどの程度勉強すればいいのかわからないし、

面倒に感じるかもしれません。

 

しかし、毎日少しでもいいから、数式を解く。単語を覚える。

つまりは点の刹那を生きる。

 

そうすると、そこには必ず「今日できたこと」

があるはずです。

今日という一日はそのためにあったのです。

決して遠い将来の受験のために

今日があるのではありません。

 

刹那を見る!

 

あなたが、遠い将来に目標を設定して、

いまはその準備期間だと考えているとしましょう。

そうすると

「本当はこれがしたいけれど、やるべき時がきたらやろう」

と人生を先延ばしにする考えに陥ってしまいがちです。

 

しかし、「いま、ここ」を生きているという

人生を点という刹那で考えると、

たとえば遠い将来の受験に向けて勉強している

「いま、ここ」も、すでに本番なのです。

 

   

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ええい、認めましょう!

「いま、ここ」を真剣に生きること、

ありもしない線を設けないこと、

たしかに認めますよ!

 

ですが、わたしには夢や目標も見つかっていません。

わたしの「いま、ここ」には、

まったく無益な刹那しか存在しないのです!

 

目標などなくてもいいのです。

「いま、ここ」を真剣に生きてさえいれば・・・

 

深刻になる必要などないのです。

 

「いま、ここ」を生きていたら、

その刹那はつねに完結しているのです。

 

人生における最大の嘘、それは

「いま、ここ」を生きないことです。

 

さあ、人生の嘘を振り払って、怖れることなく

「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てなさい!

あなたにはそれができます。

決めるのは、昨日でも明日でもありません。

「いま、ここ」です。

 

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【 導きの星:他者貢献 】

 

最後に一つだけ、あなたが迷子にならないように

導きの星を教えてあげましょう。

 

「北極星 フリー写真」の画像検索結果

 

導きの星?

 

そう導きの星です。

あなたは、先ほど目標も夢もないと言いました。

 

それに対し、目標も夢も持たなくていい

と私は先ほどあなたに言いました。

 

そして、最初から何度も

他者から嫌われることを怖れず

他人の目を気にしないで、

他者の人生を生きない生き方こそ

「自由」で「幸福」な人生であると力説してきました。

 

しかし、人が他者の目を気にしない自由を

選ぼうとしたときでも、

あなたのように、

具体的になにをどうしたらいいかわからないというように

人は道に迷うことは当然あるでしょう。

 

その時、なにを指針にしたらよいかというのが、

導きの星です。

 

その導きの星とは、「他者貢献」 です。

 

誰かの為になることを考える。

この、「他者に貢献するのだ」という

導きの星さえ見失わなければ、

迷うことはないし、なにをしてもいい。

嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわないのです。

 

 

どうですか?

世界が変わるのではなく、あなた自身が変われば、

世界が変わって見えてくるでしょう?

 

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ええ、ええ、気が付きましたとも!

世界はシンプルで人生もまた

なんてシンプルなんだということに・・・

 

わたしも今日から、自分の人生を歩いていけそうだ!

 

 

「後ろ姿 イラスト フリー」の画像検索結果

 

 

おわり