圓生は名人であった。

それに意を唱える人はいないと思う。

先代正蔵と揉め、先代小さんと対立した。

文楽をライバルとしてその背を追い、志ん生には道場では自分が勝り、真剣勝負では及ばずと評している。

その圓生が唯一さん付けで呼び、別格に扱った弟子が先代圓楽だった。

圓楽の風貌、声質、センスを評価していた。

更に企画、経営、政治力に関しては自らを遥かに凌ぐと頼りにしていた。

全生から圓楽を襲名させる以前から、さん付けで呼んでいたらしい。

三遊亭圓丈はその様な特別待遇を受けていた兄弟子圓楽に対して、複雑な感情を抱いていた。

それは、川柳川柳以下殆どの弟子の共通した思いであったと著書にある。

 

圓生と圓楽は共に落語協会と対立し、分裂を引き起こした。

名人圓生と言えど、次代の名人小さんには人望遥かに及ばず竜頭蛇尾の離反劇に終わった。

その後、現在に繋がる三遊協会(5代目圓楽一門会)が維持運営され続けたのは先代圓楽の力によるものであり、圓生が頼った圓楽の卓越した政治力が大きかったであろう。

笑点という番組を通じて、日本一知られた落語家にまでのし上がった。

あの状況でそれほどの事が出来たのは圓楽であれば、の事だ。

 

圓生が自ら楽太郎の名を与えたのが6代目円楽。

本来圓楽表記であるが、先代との区別もあり円楽表記を好んだ。

圓楽に成し遂げられなかった5代目圓楽一門会の寄席復帰を自ら成し遂げた。

歌丸との信頼関係あっての事だろうが、円楽の人間性によるところが大きいのではないか。

圓楽と歌丸の信頼と友情。

歌丸から円楽に対する深い愛情と信頼。

円楽から歌丸への深い尊敬と愛情、信頼。

 

圓生は名人であった事は間違いない。

しかし、人間としての心と品格、そして演芸史に残した足跡は弟子、孫弟子は圓生を凌駕したのでは無いか、と思う。

 

圓楽も円楽も悲願とした圓生という名跡の復活はならなかった。

円楽は自身の名誉のために圓生を求めた訳ではあるまい。

三遊派は他派に比べて大名跡の留め名が多いので、始祖なる大名跡圓生を生き返らせたかった筈だ。

 

これを機に、三遊派の発生から調べてみようかと思う。

圓生、圓朝、圓遊、圓右…。

円楽師匠を偲びながら勉強してみたい。