24日日曜の午前は剣と杖の講習会。


ほとんど休みを入れず3時間みっちりやった。


体術しかり、剣杖しかり、本当に奥が深い。


昨夜の稽古では、先ず相手が両腕を両腕で掴んできた時に、自分の手のひらを相手の二の腕に乗せて、そのまま相手を崩すことをやった。力を入れて押しても相手は逆に安定する一方で全く崩れない。


ここでは、自分の体を極限に緩めて、相手と一体化しそのまま自分の力が相手の軸にダイレクトに伝わるイメージができないと崩れない。


お弟子さん達はまだ誰もできないが、五段のお弟子さんは少し感覚を掴んでくれたようだった。投げる意識を完全に捨てないとだめなんだよなあ、なんて言っていた。


さて、昨夜の稽古の帰りに、ご両親が仕事で迎えに来れない中学生がいて、家まで送ってあげた。


その車中で、男の子が、子どもクラスの子達の成長が楽しみだと話してくれた。そして下の子達の成長を支えるためにも稽古に来ているようなことを話してくれた。


これだ。


これが合気道なのだ。


自分だけが上手くなりたい。人はどうでもいい。下手な子の相手はしたくない。下手な子とやっても稽古にならない。基本的なことばかりで難しい技をやらなかったら稽古にならない。


自分さえ良ければいい稽古の仕方をしてても合気道は上手くならない。上になればなるほど下の道友達の面倒を稽古でも、それ以外でも見てあげられるようになる。それが本当の上達であり、先輩である。


昔、大学の合気道部出身の20代の男性で退会した人がいる。その人の辞める理由の中に、稽古時間に中学生の審査の予行があったりして、自分の稽古の時間が取られていると苦情があった。


その審査予行してた子供達の実力は白帯だがその辞めた黒帯の男性の実力と変わらない。そう言う中学生だけ、一般クラスに参加させている。


そして、審査の予行なんてものは、毎週やるわけでなく審査前に何度か、それも10分ほどやるだけ。


その僅かな時間も同じ道場に通う子ども達の時間に使われたら損をしたと思うその気持ち。そんな人は私の道場には全く持って要らない!


上記した下の子達の成長が嬉しいと言う中学生の子とは全く対照的だ。


自分さえと思う自己中の気持ちはどんな事においても決して美しいものではない。


私の道場は皆んながお互いの成長を支え合えるような思いやりのある人達しか要らない。


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