柴田勝家といえばその武勇から「鬼柴田」と呼ばれており、
ひとたび戦場に出ればその異名通り勇猛果敢に戦う猛将です
彼の肖像を 探してみても体格が良くてがっちりして
威厳のある感じのものが多いですよね~
↑こんな風に↑
でも私の場合、なぜかちょっとかわいいイメージも
持っちゃうんですよね
~と言いますのも・・・
家紋が可愛いからとゆう単純な理由だったんですけどね
いつもながら、着眼点がちょっと他人とは違ってばかげている私です。
でも、織田家に対する忠誠心や最期にお市を開放しようとする優しさとか、
ちょっと不器用だけど一生懸命な感じがしてなんだか憎めない武将さんです。
なので個人的には親しみを込めて『柴田のかっつん』と呼んでますけど
・・・歴史上の人物までよくあだ名で呼ぶので、
他の人が聞いたら誰のこと言っているのかわからないうえに
ちょっと引かれ気味になること間違いなしです
今日4月24日は1583年賤ヶ岳の戦いにて、
柴田勝家が北庄城で自害した日だそうです。
信長の妹お市の命日にでもありますね。
勝家は、信長のお父さんである信秀の頃からの家臣で、
その後も、信秀の子供である信勝から信長へと
ず~っと織田家を支えてきました。
信長に仕えた功臣の名称として「織田四天王」がありますが
勝家はその筆頭であった事からも、いかに古参であり力量があったか
わかってもらえると思います。
(ちなみに、ほかの3名は丹羽長秀、滝川一益、明智光秀です。
秀吉は入ってないんですね~)
信長亡き後、継嗣問題や領地に関する事を取り決めた清州会議で、
秀吉が信長の嫡孫である三法師を後継者に擁立したために、
信長の3男である信孝を押していた勝家の力は徐々に削られてしまいます。
今までの勝家の功績も威厳も、信長を討った明智光秀を中国大返しにより戻り
討伐した秀吉の前では効かなくなってしまっていたんですね
賤ヶ岳の戦いは、徐々に反目しあうようになっていた秀吉との戦いでした。
各地で激しい戦いが繰り広げられましたが、柴田側の佐久間盛政が独走した事で
秀吉軍が一気に佐久間を叩き、戦況は一変。敗走を余儀なくされてしまいます。
本城である北庄城に戻った勝家は秀吉軍が城に迫ってきたことを知ると、
23日の夜に死出の宴を開きました。
死を覚悟しつつも、翌24日には、秀吉軍が天守に迫りくるまで
果敢に闘い続けたそうです。
最期の時は間もなく訪れ、勝家は天守でお市の方を斬った後、
見事な切腹を遂げました。
関ヶ原の戦いを天下分け目の戦いといいますが、
秀吉は、この戦いで信長の後継者の地位をつかみとり、
天下統一を成し遂げたといっても過言ではないので、
ある意味こちらの賤ヶ岳も天下分け目の戦いなんじゃないかなって
思っていしまいました
敗戦濃厚の北庄城で、勝家は逃げる家臣のことも咎めず、
最期までつき従うといった家臣には生き延びよと言い
自分の非力を詫びたそうです。
私はそんな心温かいトコが好きですね
最後にほんとどうでもいいことなんですけど、
勝家の家臣に「毛受」さんという方がいます。
何て読むんだろうとずっと疑問だったのですが、
「めんじょう」と読むことを知ってすっきりです
愛知や福井あたりに今も毛受さん、いらっしゃるんですかね~









