ラマダン前は
宗教話がヒートアップをし、気分を盛り上げるのが常だ。

夫は私と子供たちに語りだす。

善悪の判断力は神様によって人間の心に宿っている・・・と。
神様はすべてをお見通しだ・・・と。




それならば、なぜ?
あの日、夫は止まりかけていた車のアクセルを踏んだようだった。

私の中では、
夫と相手の運転者にアイコンタクトがあり、
夫は車を止めようとしていたようだったのに。

だから相手は坂道を下り始め・・・
そして夫はアクセルをゆっくり踏んだように感じられた。


私の乗る助手席後部に相手の車はぶつかった。

私は痛いところを探しても、みつからなかったのに、
運転席の夫は、首が痛い  と繰り返し、
だらだらと通院をし、
日常的に保険詐欺をしているパキスタン男を介し、
パキスタン滞在中にも通院をしたという嘘の通院証明書を入手した。


休業補償書類への書き込みを渋る私に
みんなだってやってるんだから と強要した。

断ったら怒り狂うのがわかっていたから、
憤りを飲み込んだ。

私の臆病心が加担を選んだ。


神様が与えてくれた善悪を判断する気持ちを無にするように、
イスラム教徒の夫は金の取りこぼしをしていないか、
触覚を張り巡らし、頭を回転させ、嘘をついている。


心は苦しくないのだろうか。
モラルも神様も宗教も踏みつけにして。
言われるがまま、書類作成に手をかした私は恥ずかしくて苦しい。



そんな普通に粗悪な集団の面倒をみるなんて、
良識を持った国にできるわけもないじゃない。

ノルウェーのテロはそんな声を事件にしただけだ。