théâtre Paris Kidori で、

シャンソンの伴奏を初めて、

2年がたった、タツユキ。


彼は、

教育大を卒業して、

藝大の作曲4年に在学している。


彼の作品が、

毎月藝大内に行われる、

モーニングコンサートに選ばれた。


私は、

知らなかったのだが、

藝大は、プロのオーケストラを所有している。

藝大フィルハーモニア管弦楽団

その方々に演奏していただけるというので、

楽しみに、

théâtre Paris Kidori に出演している、

藤田宏樹と出かけた。




現代作曲の作品として、

裏切らない素晴らしい作品でした。


7月には、

théâtre Paris Kidori で、

ミュージカル髑髏尼で、

26曲を書き上げたばかり。

彼の振り幅は、

普段、

シャンソン、カンツォーネを

初見伴奏をしている事も

かなり影響しているだろう。


théâtre Paris Kidori のお客様方の姿も

ちらほら、愛されておる。




また、

タツユキの作品と共に、

優秀者による、

ベートーヴェンのピアノコンチェルトの

演奏もあったのだが、

上手い!


たまには、

こういうのを聞くのも良いと

宏樹とうなづいていた。


終了後、

エビ好きの私の念願だった、

ババガンプシュリンプへ

エビ三昧である。



年末行事やら、

来年の周年まで、

宏樹とミーティングだが、



夏を惜しむように、

フローズンダイキリまで。


タツユキゴクロウ。


下村氏の訃報を友人が知らせてくれた。

理解するのに、数日を要してしまった。

ショックで感情が動かなくなってしまっていた。


下村氏との共演は一度もない。


初めて、話をしたのは、

劇団四季アクターズスクール時代、

(ある期間、研究所はそう呼ばれていた。)


突然廊下で、


チョット、あんた!

このままじゃ、劇団に残れないわよ!

と。


話をしたこともない先輩である。

非常に怖かったのを覚えている。


その後、下さんのはからいで、

外で下さんのバトン関係の後輩の方による、

バレエ、ジャズ後期研究所試験対策の

特訓がはじまる。


その甲斐あって、

私は、劇団に入る。


それから、

度々呼び出されて、

いろいろなことに

付き合わされるようになる。

買い物や酒場など。


私のことを

コガネと呼んでいた。


黄金虫のように、

身体が硬いからと。


私が劇団を辞めた後も、

その関係が続いていく。


初めて、私が

帝劇に出演が決まって、

小さな役ではあるが手に入れた時、

楽屋用のガウンを送ってくれた。

それが、嬉しかったので、


私は、

théâtre Paris Kidori から、

劇団四季に行った、

貞松響や辻雄飛、

他にも、

初舞台時

私は、ガウンを送っている。


彼らは、知らないが、

実は、下さんから受け継いでいる事である。



役を手に入れるための執着に、

いつも、尊敬と同時にあきれることも多数。

美女と野獣のルミエールの

オーディションに

どうしても、

私の友人が着ていたシャツを

借りたいと、

それは、失礼なのでと、

断ったら、

あのシャツがないと

オーディションに受からないと

私を脅迫。


しつこい、しつこい、

根負けして、

友人(外人)に頼むと、

何故!と嫌がっているのを

私は説得した。


みごと、役を勝ち取られるのだが。


長い年月、

彼は、年齢を私に隠していたので、

私も気にもせず、聞かなくなっていた。

今回の訃報で、なんと同じ年だったと知る。

いつも5歳くらい上の感覚で接していた。


昔の俳優さんや

歌舞伎役者の生き方に感化されていて、

破天荒で、ドラマッティクなものを

日常に持ち込んで、

ドン引きしたことも多数。

とても書けない。


いつも恋が終わった後に、

私に話すのだが、

自分の身の丈以上のものを

あげてしまったこと、

それでも、後悔してないと。


渦中なら、

私が止めることを

知っているので、

いつも後日談なのだ。


背も高く、

スタイルも良いのに、

コンプレックスがひどかった。


あんたは、

いいわよ!すっぴんで酒場に来れて!

とよく言われた。


今は、私もいけないが。


その頃から

酒場では、源氏名「青」を

名乗っていた。


後に、芸名になるを見て、

妙に納得した。


だから、

スナップを嫌がったし、

取材のときには、

入念に作り込んでいた。

携帯のない時代だし、


下さんとの写真は、

数枚しかない。


下さんが劇団を辞めた後も

ちょくちょく会っていた。


しかし、


私は、

両親の介護などあって、

8年くらい会っていなかった。


憧れてた、

歌舞伎の世界へいって、

良かったなと

遠くから観ていた。


表現の世界に

命をかけた人、

自分の情熱の炎で

燃え尽きたんだと。



どうか、安らかに、安らかに。


沢山、

ありがとうございました。





↓画像は、89.4.17

研究所を卒業して、劇団に入ったばかりの頃、

その当時、しもさんに使えていた女性が

撮ってくれたもの。



















今週も訃報。


大学演劇専攻同期のKだ。


大学に入って、

初めて仲良くなったK。

大阪から出てきた彼が、

東京タワーに行きたいと。


東京育ちの私は、

東京タワーに行ったことがなかった。

2人で、ピンクレディーの蝋人形を

見たのを覚えている。


また、ふたりで、

テレビ番組の素人出し物の予選に

行ったこともあった。

当時、大学同級に在籍していた、

薬師丸ひろ子さんを扱ったお笑いである。

Kが私の姉のワンピースを着た。

もし放送されたら、

大学で呼び出しをくらって、

大目玉をくらうネタであった。

落選して良かった。


Kは、劇団四季のCATSに夢中だった。

そんなわけで、

早朝から自主ストレッチを開始。

バレエ経験のある同期女子を巻き込んで、

カンパニー名をつけプリントした、

タンクトップをお揃いにしたり。


彼の下宿の壁には、

英字で劇団四季と書かれていました。


その前で、

写真をとりあったり、

でも、手元にはKの写真はない。

携帯などない時代、

私があげたにちがいない。


Kは、とってもモテたので、

程なく彼女ができて、

校内ではいつも彼女と一緒に

いるようになり、

一緒に遊ばなくなり、

早朝のストレッチも来なくなった。

ひとりで4年間続けることになるのだが、

私は、少し寂しかったのを

覚えている。


私は、大学1年生から

文学座志望であったが、

私が劇団四季に行き、

Kが、文学座に。


それでも、

彼の初舞台を観たり、

劇団四季の「M.バタフライ」の大阪公演では、

彼のご両親がおいで下すったり。


互いが忙しくなり

いつしか疎遠に、

1回だけ同期の集まりで、

顔をあわせたが、

話さなかった。


昨日から

同期の沢山のメッセージや電話、

このことを耳にしたり、口にしたり、

それに耐える自信がなかった。


ご迷惑を覚悟で早い時間に

葬場に伺った、

初めてお会いするKの息子さん

が案内してくれた、

しっかりしていて、

Kよりずっと好青年である。


Kに会ったら、

立っていられなくなりそうになったので、

すぐにおいとましょうとしたら、


はじめさん?

と、

Kのお母さまである。

よく覚えていてくだすって、

というのが精一杯であった。


彼の息子さんも

大学後輩にあたる奥様も

お母様も

キジョウニふるまって

いらっしゃるのに


1mmも感情を出しては

いけないと、


すばやく、その場を離れたら、


息子さんが

エレベーターで

送ってくださろうとするので、


失礼にも挨拶ソコソコに

ふりきって

階段に逃げて、

嗚咽しそうな口を押さえて、


葬場をあとにした。


K.   安らかにお眠りください。

君の奥様も、お母様も、

素敵な息子さんが守ってくださるから。



Kが彼の下宿の前で撮ってくれた写真↓