「緊急装備」、、、、。再考!
2024,1,1
石川能登震度⑦地震が発生した。
1日たって被害状況が明らかになってきた。
被害の拡大が懸念されている。
建物倒壊、断水、停電、物資不足、、、57360人の避難、、、
インフラの復旧が急務です。
昨日からの24時間で、震度5弱以上の揺れが10回ほど、、、。
信じられません、、、、、。
余震が続いているので油断できない,、、、、。
国が総力を挙げないと復旧が間に合わない、、、、、。
13年前,東日本大震災があった。当時のことを思い出しながら,普段の取り組みについてあらためて考えさせられた。
今回のボランティア活動のまとめ
↓
詳細な記事
「防災グッズ」の整理が大切である。今月中に準備したい。
⑴ボランティアの登録→登録済→
完了(実施日決定)
⑵災害保険の加入 社会福祉協議会にて
印鑑必要
⑶高速料金の割引登録(済み)
⑷最終日程の決定メールの受信(済み)
⑸準備活動(装備,日程,車の点検)
自転車装備、日焼け止め?
石川県災害ボランティア情報 現地集合型災害ボランティア募集
https://prefvc-ishikawa.jimdofree.com/2024-05-01-volunteer
ーいよいよ、5.19〜26に活動が決定ーーー
テント村へ連泊
9;00〜16;00まで
(30人ほど、リーダー⑴名)
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●出発前に、もう一度確認しましょう!
・活動先の場所(地図)、活動に必要な資機材があるか確認しましょう! ・水・食料・常備薬・適切な服装・保険等、必要な備えができているか確認しましょう!
●活動先に着いたら ・「七尾市災害ボランティアセンターから来ました」と伝えましょう!
・本日の作業内容を確認しましょう!(依頼者との作業内容の確認)
・トイレの利用をお願いしましょう!
●活動中は
・「ごみ」と判断する前に、捨てて良いか依頼者に確認しましょう!
・体調の管理につとめ、適宜休憩を挟みながら作業しましょう!
・不調になったら早めに活動をやめる勇気を持ち、けがなどで受入れ先に負担をかけないよう にしましょう!
・仲間とよく話し合い、一人で仕事を抱えこまないようにしましょう!
・わからないことや困ったことがあったらリーダーを通じて、災害ボランティアセンターに 連絡しましょう!
・余震や雪、雨が降ってきたら、活動を一旦中止し、最善の注意を払いましょう!
●活動の終了
・活動時間は午前 10 時~正午、午後 1 時~2 時 30 分とします。
*「もうちょっと頑張れば終わる」と思うところも、時間厳守でお願いします。 なお、午後2時30分までに災害ボランティアセンターに戻れるよう、リーダーは時間 調整をお願いします。
・リーダーの方は報告書をご記入ください。 作業先の周辺の状況などで気づいたことも記入して、スタッフに伝えてください。翌日以降 の作業につながります。
持ち物
活動に必要なものに加え、
・寝袋(必須)、歯磨きシート、着替えなど宿泊に必要なもの
・ご自身の食事(食事の提供はいたしません)
注意事項
・仮設トイレを使用します。 →車中泊で対応
・シャワー・お風呂はありません。→体ふきシャンプー?
・近くにコンビニなどはありません。→車中泊飯
・禁酒・火気の使用禁止。
↓
オリエンテーション動画
いよいよ能登へ出発!!
いわき市から、磐越道で新潟まで,
そこから北陸道を南下して、
七尾市まで550㌔走行。10時間かかりました。
愛車のバージルV3 スーパーロング4WD
七尾市のテント村(野球場の一画)
夕食は毎日炊き出しの美味しい料理
ありがとうございました!
お世話になった方々に、感謝!!
QRコードで受付完了,ビブスを来てみました。
9時からのオリエンテーション
バディコムという共通無線完備のスマホが活躍。
浄化槽が修理中,,,仮設トイレ。
1日協力して活動した仲間たち
人生2回目のボランティア活動を体験した。今回は,能登地震の七尾市。事前登録をし、傷害保険,高速無料申請を済ませ、登山家の野口健さんが岡山県の総社市と連携して設営したテント村に入った。朝9時からの本部でのオリエンテーションで仕事を請け負い,1班10人にリーダー1名,保健係1名を決め,使う道具をみんなで選別,軽トラック2台と2トン車1台で依頼主宅へ向かいニーズをこなした。すさまじい地震の爪痕,壊れた屋根やブロック塀,散乱した外壁等,土嚢袋はすぐに満杯になっていた。常時活躍したのは無線型の最新スマホ。疑問点を逐次,本部と交信できた。縁側で「ありがとう」と微笑むおばあちゃんの顔がなによりの励みだった。正直,過酷な1週間だったが、仲間と目的を一つにして体験できたことは最大の収穫だった。
輪島市は時間が止まっているのか、、、、。
体験記を動画にまとめてみました。
人生の中での貴重な体験をしました。
卵の白身を活用したレインボーアート(絵手紙教室にて)
2024,5,29 テント村の閉村式
能登半島地震から約5ヶ月。かねてより申し込みをしていた連泊可能なボランティア活動にようやく参加することができた。七尾市のテント村(車で往復1200km、高速は無料の措置)に入り、1週間ほど滞在した。野球場外野の芝生には100張りのテント。現地の方々は、私のようなボランティア初心者にも地元情報や炊き出しについて親切に教えてくれた。その中には自らの家が全壊した方々もいた。心がしめつけられた。現地では、被災されたお宅の瓦やブロックの片付け、仮置き場への運搬、集まった災害ゴミの分別等をおこなった。5月とはいえ、炎天下の中での作業は決して容易なことではなかった。全国からは車や電車、飛行機でボランティア活動に参加された方々もいた。普段は電車の運転士をしており、ボランティア休暇をとってかけつけてきた青年もいた。今後、国の復興予算がつき、公費解体等の本格的な支援が進むことを願いつつ、最後は「マンパワー」の結集が何よりも鍵になるのではないかと感じた。
-------ーーーーー2024 3.11の記録--ーーーーー
あの日の場面が脳裏に浮かんでくる、、、、。
「地震」「津波」「放射能」,,,三重苦!!
以下の記事をお読みいただければ幸いです。
ボランティア活動の現在の状況
↓
圧倒的に少ない,、、知事の発言が影響?
自分だけの力だけでなく、助けてもらう力も現地の方々には
必要,、、、。
↓
恩をつなげる生き方
↓
一番心配な,トイレ問題は、こうやって解決!!
(全部用意しました (^-^*))
ーーーーー車の準備が整いました-ーーーーー
道の駅の車中泊(夕方から朝までの仮眠)の考え方
(国土交通省の見解)
(リンク)↑
検索ワード→「登山口」「海水浴場」「展望台」「展望場」
ボランティア活動は、力仕事だけではない、、、、現地調査や
聞き取り調査,住民の要望を取り込む力が必要?公的支援だけでは,時間がかかり復興が鈍化する、、、。
--ーーーーーーーー過去記事-----------------ーーーー
先月,(2月13日 午後11時)の大地震には驚きました。
福島県の相馬沖のM7.3(いわき市震度5強)でした。
10年前の震災は、M9(震度6弱)でしたので、震災の時は,Mが2つ上なので、力は32倍×32倍で約1000倍のエネルギーだったということになります。余震に十分注意したいものです。
4つのプレートにはさまれた日本という地形。
地震が多いのは過去の例を見ても明らかである。
一昨年は9月に北海道で大きな地震が起こりました。
日本のどこでどのような地震が起きるのかは、まだ予測できていません。ですから、防災、減災の心構えと行動が必要です。
これが現在の原発の課題である。
以下は、東日本大震災時の体験談です。定期的に確認し、備えを十分にしたいものです。
このテーマは、震災を教訓に生まれた内容である。緊急事態への対応がいかに重要であるかを思い知らされたからである。
自分だけは大丈夫という錯覚=「正常性バイアス」
「想定外」、、、地震と津波は天災であることは間違いないが、原発事故は天災ではない。これは明らかに人災であろう。
「想定外」という言葉が有名になってしまったが、これは単なる人為的にそこまで必要がないということだけで、人間が中途半端な安全策を設定したにすぎないのではないだろうか。「想定外」と言えば、許されるのか、、、、被災した私たち福島県人はそれで納得できるはずがないだろう。福島県は3重苦を背負ったのである。そして3番目の原発事故がいまでもまだ、これから先もずっと収束するには時間がかかる大きな問題となってしまった。
チェルノブイリ事故の放出量より総量は、実際は多かったのか、、、。
(実際は1000倍だったという専門家もいる、、、、)
もし、第2原発のように1つでも電源が生きていたら、女川原発のように少し高い所に1つでも電源があって被害にあわなかったら、放射能問題は起こらなかったはずである。地元の人々、特にまだ仮設住宅で生活しなければならない人たちのにじみ出る悔しさはいかほどであろうか。国や東電はどこまで本気で福島の人たちの悔しさや復興への願いを肌で感じているのだろうか、、、ある芸能人が「原発を東京湾そばにつくったほうがいい」と冗談まじりで話したのを覚えているが、日本は本当にこれからの原子力政策をどう考えてエネルギー問題を含めて真剣に考えようとしているのか、私にはまだまだ?としか思えない。
福島に住み人々に重く長い課題が与えられてしまったが、人間だけでなく自然環境や動植物への影響も考えると、これから先、何十年、何百年とこの問題に長期に対峙しなければならいないであろう。
私が一番心配しているのは、こらからの日本を背負って生きていく子供たちの未来である。一番は、健康問題である。
次に、人口問題である。20年後には福島の人口が35万人程度減少するだろうと予想している専門家もいる。健康問題ではNHK特集で視聴したが、ロシアのチェルノブイリ原発30年後の今、第2世代の子供たちの体力低下か免疫力低下が少しずつ検証されてきているようだ。ある小学校では体力低下を避けるために体育の時間を短くしたり、年間を通してテストを全廃したりする試みも現実に行われている。放射線が世代をこえてDNAを少しずつ蝕むとしたら、、、、福島も全くの例外とは言えないかもしれない。
ただ、ロシアと決定的に違うのは、日本では情報公開がされており、線量をはじめ、食品による内部被爆防止を最大限に国が進めているのでロシアの例とは決定的に違うのがせめてもの救いである。
初期に放出されたヨウ素131は8日間で半減期、16日間ではほぼ0になっているので、初期の影響がどこまであるのかは今となっては分からないが、セシウム等はどこにどのぐらいあるのかはモリタリングポストで明確になっているのでその点は日本は安全である。ただ、これからも継続して調べるので長期間の戦いを覚悟しなくてはならないであろう。
それでは、昨年の日記を振り返りながら、いわき市に住む私が経験したことをまとめてみたいと思う。
①突然の大きな揺れが3分程続いた! 1日目
(3月11日午後2時46分)
当時、私は、休職中で(正確には病休5ヶ月目)あったので、自宅のリビングで録画しておいたドラマ「相棒」をテレビで観ていた。揺れが少しずつ大きくなり、「これは大きくなるかも?」と不安が頭をよぎった。揺れが少しずつ大きくなり、前のテレビが前後に大きく揺れ始めて、とっさにテレビを押さえることしかできなかった。揺れはさらに大きくなり体をゆさぶられるほど大きくなった。家全体が大きく揺れ、自分はテレビを押さえてただ立っていることしかできなかった。揺れが収まってからテレビのニュースの画面を見ると、M8.8と表示されていた。すぐに母親の部屋へ移動し、安否を確認し、各部屋の様子を見て回った。PC室ではeMAC(モニター一体型パソコン)が1回転をして床に落下していたが、着地成功?とうい感じで破損はしていなかった。台所は小さな調味料がいくつか落ちていたが、皿は立て付けのボードに収納していたので1枚も落ちなかったのが幸いだった。書斎にはビデオラックに1000本ほどのVHSのテープが収納されていたが、ぎっしりと隙間亡く収納されていたのでずれただけでほとんど落ちなかった。家と一体化してあるカップボードやビデオボードはやはり耐震性能に優れていて家を建てるときは少し贅沢だとは思ったが、やっとその価値を発揮したようである。
●家の中の状況確認を終えて、かたづける箇所を確認した。そして寝る前にやった。
②ライフラインの確認作業→問題は断水発生!
次に行った行動は、ライフラインの確認である。
電気→東北電力管内→大丈夫だった。
ガス→プロパンガスだったが、一時的に大きな揺れで止まったが、復旧ボタンを押して正常にもどせた。
水道→はじめちょろちょろと出ていて喜んだが、すぐに断水。
お風呂の水を洗濯で使ってしまったので、ここから16日間の戦いが始まる。
これはまずい、、と思いながらも落ち着いて対処するために、ホワイトボードをリビングに設置して、やるべきことを記述する。
もしもの時に備えて、
●ローソク、LEDライト、FMラジオ(FMいわき)、飲み水容器確認、サランラップ確認、トイレの水は?→衣装ケースの中に池の水を入れる!
思いついたアイディアをホワイトボードに記入していった。
プロパンガスのメーターの数値も書き留めた。(残量がわからない、、、)
固定電話は混乱しているのかほとんどつながらなかった。携帯電話は頑張ればつなげることができたので親戚と連絡がとれた。(ドコモ携帯)
断水がどのぐらい続くのかが一番の関心事だった。とにかく身近な情報がないので
iPadではじめてツィッター登録をして地元の人の発信情報を入手してボードに書き込んでいった。余震がずっと続いていたので不安な夜であった。
とにかく、明日に備えてきちんと睡眠をとって疲れた体を休めることにした。
池の水が偶然結構たまっていたので、トイレの水はなんとか大丈夫だとふんだ。
飲み水は、近くのスーパーの4リットルの容器が2つあったので、2日ほどはもつと思った。ただ、明日からは水確保に動かなければならない、、、、。
まだこのときは、外の放射線量は平常値の0.08であった、、、、。
③震災の翌日(2日目) 3月12日の出来事
○朝9時過ぎまで寝ている。起きて皿にラップしいて、ご飯を入れて食べる。それから衣装ケースを出して池の水を入れる。バケツで何回か運ぶ。10時半ごろ近所の公園で給水ができるということで18リットル容器をもっていく。公園の地下のタンクの水があるということで長い列ができている。18リットルのポリ容器を持っていない人は空き箱にビニール袋を2重にして容器にしたり、ゴミ箱にビニールという感じてあった。みんな必死に並んでいた。大鍋をかかえている女性もいた。自分の番にきたが、よく見ると水が少し濁っていたので飲み水にはならないと思った。
とにかく町の状況がわからないので自転車を出して、町の中を走り回る。走っている車は少なかった。町の中の自動販売機はみんな完売状態であった。断水のために飲み水として売れてしまったようだ。近くを走るバイパスのトンネルが落下したという情報を聞いたのでさっそく数キロ先まで自転車を走らせる。風は南から吹いていた。朝から不気味な余震が続いていた。トンネルは通れるようになっていた。午後は日記を書いてFMいわきで市内のガソリン情報等のさまざまな情報にかじりつく。正しい情報に飢えていた。
地元テレビのテロップに「小名浜公民館に給水車」がいる、、、というテロップを見たので急いで小名浜公民館へ行き、給水車の列に並ぶ。しかし、冷静に考え、いつ底をつくかわからない給水車をあきらめ、泉浄水場では安定して給水しているという情報を聞き、そちらに移動する。着いてみるととてつもない数の人々が並んでいた。入り口から5、6百メートルも続いていて近くの公園の中まで伸びていた。ただ、みんな順番をきちんと守っているから日本人は立派だなあと変なところに感動していた。天気が良かったのが幸いだった。思い思いの器や容器を手に持って並んでいた。最後尾に並んだ。それから延々1時間半牛歩前進しながら、やっと18リットル2本をゲットした。本当にありがたい魔法の水となった。
ただ、この日の午後3時半頃、第一原発の1号機が水素爆発していた、、、、。
風は南風だったのを自転車に乗ったので覚えていた。
福島第一原発一号機、炉心溶融。午後3時半、
一号機爆発建屋破損、放射能拡散。
水運びだけで疲れてしまった1日であった。近くのスーパーのマルトは、この日はなんとか開店していたが、品数は一気に減っていた。
一般的には、10代の甲状腺がんは100万人に1~9人程度といわれる。本県では、1巡目検査を受けた約30万人のうち100人ががんと確定し、おおよそ3000人に1人の割合だが、自覚症状のない人を網羅的に検査した今回のような調査は前例がなく、比較が難しいとされている。
しかし、本当にそうなのだろうか、、、、。
私には疑問である。今後さらに10年ほどの期間で解明されると思う。最近では、話題にもならなくなってきた甲状腺ガン。
とくに子供たちが大人になってきてさらに次の世代に移るときにまた検査が必要と思われる。心配である。
近くのコンビニはアイスしか残っていなかった、、、、、。疲れてはいたが眠れず、
~つづく~
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ミサワホームの家の特徴
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