許すとか、許さないとか・・・ということについて (こころ) | からだとこころのつながりで良くなっていく

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心を守るために身体はいろんなサインを出してくれている・・・。

許すこと・・に関しては いろいろ書いてあったりします。

 

ゆるすことが大事っていうのが多いし

ゆるさなくてもいいんだよ・・っていうふうに

伝えているのもあるし

人は許せなくても自分のことはゆるしてあげよう・・

っていっているのもあります。

 

私の母親は子供が嫌いで私を乳児の頃から

産院以外では抱くこともなかったので

子供をあやすとか子育てに興味がなく

それでも 一緒にいるから

私によくちょっかいを出していたのが

笑いながらつねる という行為でした。

 

5年間だけ田舎から私の面倒を見に

出てきてくれて

そばにいてくれた祖母の影に隠れて

私は痛い事が嫌だったので

「あの人嫌い!」と母親を指差し

逃げ回っていました。

 

祖母もいないことがあったので

繁華街の水商売の職場に連れて行かれることも

多かったです。

そして何人もの若い女性を使い 

数名は住み込んでいましたので

小さい頃の私は 大人の世界の

裏腹な部分などを

子供の目で見ることも 多かったです。

 

小学1年生からは母親と二人きりになり

母親の機嫌が悪くなると尋常じゃない

怖さがあるために 人の顔色をうかがうのが

普通になってる私がいました。

まぁ 一言では言えないぐらいの

いろいろなことがありました。

 

あの頃は毎日を過ごすこと。

言われた家の用事は 確実にしておかなければならない・・。

 

アルバムから一切笑顔のなくなった私の

それがうちの家での当たり前として

過ごしていました。

 

家族と言うもの 家庭というものは

周りの様子で察するものでしたので

当時 正月は家族や親戚で過ごす人達で

人の気配がなくなり

母親はゆっくりできるからと寝ている姿しかなく

私は遊ぶ人がいなく、

ひとりで過ごす日々がメインでしたので

正月の過ごし方も何もある程度まで

経験がありませんでした。

 

なぜ・・昔の様子を書いたのか・・というと

母親の絶対的な存在は この人がいなければ

私はどこか施設にやられる・・・

 

そう言われていた私には

不快とか 怖いとか 嫌や というのはあっても

 

ゆるさない!という

言葉や感情の存在がずっとありませんでした。

 

許さない と思えるのは

 

その時の許すことの出来ない出来事・・とかで

自分自身が傷ついたんだと気付いているということ。

 

そして その傷つけられた相手に対して

感情を心のなかだけであっても 怒っているというか

憎むというか そういう感情があるということ

 

それは 自分自身に対しての防衛手段としての

気付きのひとつでもあるし

こころの持っていき方なのかもしれません。

 

自分を守るための許せない というものと

 

もしかしたら もう一つは・・・

 

 (なんで許せへんかって!?普通そんなんおかしいやろ!)

 

っていうもの。

 

普通って何?

世間的常識っていうこと?

 

何かの基準となるものに合わせて

そうでないものに対して 許せない というものを

もっているとしたら・・・

それは 傷ついた自分を守るための ゆるせない

というものと 違う種類のものなのかもしれない・・

 

のではないかと私は思います。

 

自分を守るために出した自分の感情は

そのまま大事です。

世間的常識基準でのそれより おかしいとか変とか

いうものは ちょっと その時の

自分の素で思った気持ちを 世間なしで

見直すのもいいかも・・って思います。

 

ゆるせない・・そう思えてるのは

何もわからず呪縛の中にいたかもしれない状態から

自分を守るために 思えるようになっている

大事な感情だと私は思います。

 

許せない・・という感情があるから

その次の ゆるす  ていう感情を

どうしていくかにつながっていくよな

って思うのです。

 

(あくまでも全ての許さないには当てはまりませんのであしからず。)

 

 


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