試練と天罰のカラクリ | なかいま ~ただこの瞬間を

なかいま ~ただこの瞬間を

なかいま

過去から未来へと、連綿と続く時間の中で、その「中」である「今」を生きる。という言葉です。

なかいまを生きるとは、今この瞬間の自分自身を、全力で経験するということ。

ハムスターのちょびのすけに、常に全力で振り回されています(笑)

「そんな事すると、神様の罰が当るよ!」


なんて、聞いた事があると思います。
私も、神罰を信じていました。


ですから、犯罪者とか私利私欲だけで生きている人がいい思いをしているのを見るたび

「どうして神様は罰を当てないんだろうなぁ」

なんて思っていました。


でも、違いました。
最近気付いたのですが、この世に「天罰」「神罰」なんてものは存在しません。



平安時代には、物の怪が跋扈していて、祈祷師や陰陽師が厄除けをしていたような記述が色々見受けられます。

私、凄く不思議だったんですよ。
何故、平安時代だけ物の怪があんなにうじゃうじゃ居たのだろうか。


平安時代に限らず、現在でも当時と変わらず物の怪はうじゃうじゃ居るんじゃなかろうか。


平安時代はたまたま、そういったものに神経質になっていた時代だったのかな?
とか。



そうすると、病気は物の怪の仕業とか現代でもそうなのかと。




「魔がさした」

という言葉がありますが、良くない現象は全てこの、「魔がさす」状態なんじゃないかなと思います。




少し整理します。

 ・この世には、物の怪が跋扈している

という前提です。

 ・神様もいますが、天界にいらっしゃるので、この世には居ません

これも大前提です。

 ・そんな世に我等人間が生まれてくる

なんのためか?

人間は、修行をする為に生まれてきます。
ひとつは、物の怪にかどわかされない強い志を持つため
ひとつは、その強い志で様々な事を経験するため

他にも色々あると思いますが、今思いついたのがまずふたつ。


(天界)・神仏

(この世)・人間・物の怪


こんな構図です。

ご先祖様は、日本人の場合天界にいらっしゃいます。
他の国の方々のご先祖様については、各国で信仰されている宗教に則るでしょう。


物の怪がどうして存在するのかは判りません。
でも、人間に邪な事を囁きます。
私利私欲に塗れた人間は、物の怪の囁きに乗って「自分さえ良ければいい。自分が得する。」という行動を起こします。


ここで、人々に「天罰」と思われてきた法則が働きます。


神様は天界に居るので、ダイレクトに人間にアプローチしてきません。
それは、人間が修行するに於いて「簡単に神仏のフォローが貰えたら修行にならないから」です。

神様が人間に手助けできるのは「人間側へアプローチするための通路がある場合」且つ「手助けが必要な時」のみです。
人間が苦難に面しているとき、その苦難が「修行の為に神様がセットした苦難」なら神様は手助けをしません。
その代わりその苦難は、乗り越えればその人が大きく成長できる苦難です。他人にも能動的な迷惑をかけません。


そうではない人災の苦難などの場合、神様はアプローチする為の通路がある人間にのみ手を差し伸べる事が出来ます。


 それでは、アプローチする為の通路とはなんでしょう?


 それは「祈り」の通路です。


常日頃神を信じて祈っている人は、神様に対して「祈りの通路」が開かれています。
神を信じず祈っていない人。もしくは間違えて邪神に祈っている人には、「祈りの通路」が開いていません。
その通路は、人間側からしか開く事が出来ないからです。


家に神棚や仏壇を祀ったり、お守りを持ったりする意味はここにあります。
祈りの通路を開く為の、誰にでも出来る簡単な儀式のようなものを先人が編み出した訳ですね。
もちろん、お守りを持ち歩いて居なくても心に常に祈りの気持ちがあれば通路は開いていますが、それをもっと簡単に目に見えるようにしたのがお守りと言う訳です。


九死に一生を得た経験のある人は、この通路が開かれていたのでしょう。



この通路が開かれていると、物の怪からの囁きを遮断する事が出来ます。
自分さえ良ければいい、という気持ちで生きることがなくなってきます。


それでは、所謂「天罰」と思われていたものは、一体なんなのか。

神様は、能動的に人に罰を与えるような事はしません。
乗り越えて成長させる為の試練は与えます。
それは、身体的精神的苦難かもしれませんし、境遇的苦難かもしれません。
自分に原因がないのに大変な思いを背負ったらそれは、試練なのでしょう。


今まで天罰と考えられてきた状態は、「祈りの通路」が閉じており、物の怪にガッチリ囲い込まれた人間に神様が手出しできない状態になった時に起こります。

神様が助けられない状態になった人間に、物の怪が干渉する事によって、起こるのです。



物の怪は、私利私欲を満たすという餌で、人間に対して囁いてきます。
その最たるものは「金」です。

金に対する欲望が膨れるほど、物の怪は大喜びでその人の心を蝕んでいきます。

この時に注意するのは、「お金を大切にすること」と「金への欲望が膨れること」は違うと言う事です。

 今あるお金を大切に使う。大事な自分や人の為に使う。
これは綺麗なお金の動かし方。

 他者のお金を取り上げる。その金を自分の欲の為に使う。
これは危険なお金の動かし方です。



物の怪に魅入られた人は自ら知らず知らず、祈りの通路を閉じていきます。
もう、神様から手助けをすることは出来ません。

それが、天罰と思われてきた状態です。
お金が最たるものですが、欲望もそれに準じます。



「お金が欲しいから」
「○○が欲しいから」

そんな動機で得た苦難は、試練ではありませんからご注意を。



  神は人の敬によりて威を増し
         人は神の徳によりて運を添ふ

                    『御成敗式目』

昔の人の言葉には、真理が沢山含まれていました。
真摯実直に祈るほど、祈りの通路は開けていくようです。

そこに私利私欲がなければの話。