神棚について | なかいま ~ただこの瞬間を

なかいま ~ただこの瞬間を

なかいま

過去から未来へと、連綿と続く時間の中で、その「中」である「今」を生きる。という言葉です。

なかいまを生きるとは、今この瞬間の自分自身を、全力で経験するということ。

ハムスターのちょびのすけに、常に全力で振り回されています(笑)

よく質問をいただきます。

「神棚って、どうしたらいいんですか?」

神棚は、厳密に言えば入れ物なので、

お札はどうやって扱えば良いですか?

というのが趣旨になります。


今回は、このケース。
祖母が大切にお参りしてた神棚。
私はちゃんと毎日、お水やお酒を取り替えられないので、もう神棚外したいんです。
毎日お世話できないと、バチが当たりますよね。


色々な理由で、自分が始めたわけではない、既に家にある神棚のお世話が必要になってしまい、戸惑う方、割りとおられます。

ここで、いちばんのキーワードになるのがこれ。


ちゃんとしないとバチが当たりますよね



結論から申し上げます。
バチ当たりません。

なぜ言い切れるのか。
ひとつには、「神様」という存在は、本当はバチを当てるものではないからです。
(そんなことをするとバチが当たるよ! という教育的指導は、道徳的情緒を養うための例えばなしの言葉です。)

もうひとつ。私の自宅の神棚まつりが非常にユルいのですが、バチが当たってないからです(笑)

これ、そもそも、御札を自宅にお祀りするメリットをハッキリさせないと、しっくり来ない話なのですが。
神棚のお世話を緩くしても、バチが当たらないとしたら。


冒頭の

「お世話出来ないなら、無い方が良いですか?」


は、こう置き換えることができます。


「毎日かけられないなら、電話器なんて持たない方がいいですか?」


人によると思いますが、私は殆ど電話をしません。
でも、電話持ってます。

かけたいときに、かけられるからです。


御神札についてここでも説明しましたが、御神札は神さまの世界と通話できる電話みたいなものです。
かけたいときに、かけたら良いのです。
映像や音や物質のエッセンスも届けられるので、前に立って柏手をうったり、お水をあげたりするわけです。


と、言うわけで、せっかく神さまの世界とのツールがあるのに、外してしまうのは非常に勿体ないなと、個人的に思います。


神棚のお世話をしないのは、問題にはなりません。
ただ、

神さまという、尊くて自分を見守っている存在をお祀りしている場所を、放置して埃だらけにしている自らの心の有りようが、

あ、ヤバイな。

と気づくリトマス紙にはなると思います。


毎日朝には、

「今日も楽しく過ごすぞ~!」

と神棚にうきうきと手を合わせ、帰宅したら

「今日素敵なお土産もらいました🎵」

と、神棚にお供えしてみる。

辛いことがあったら、いっちょ神さまに文句を言う。もっと守ってくださいよと、頼んでみる。



それって、自分自身を大切にいたわっていることにも繋がる。


もう暫く神棚の前に立つ気すら起こらないとき。

目には見えないものに、心を向けられないほど、いま私は疲弊しているのか。


そう、気づく切っ掛けにもなる。
※私にもそんなことがありました。




何故、日本人が神棚を祀り始めたのか。

そのうち、神棚の始まりの話も書いてみようと思います。