いまは『おはようございます』でしょっ
あいさつならできるんだからっ
ふふん♪
「Good morning (*´꒳`*)۶”」
手もフリフリ
バスを降りたところに
黒人のガイドのお兄さんが
ムスッと立っていた
あいさつするとお兄さんは
パッと顔が明るくなり
スマイルで返事を返してくれた。
父の勤続◯◯年記念で休暇取得が叶い
家族旅行でカナダに来た。
私はまだ5歳くらい。
これが人生初めての
海外で挑戦した英会話
母コジミから受け継いだ拗らせに
焦点を当てて人生の振り返りをしました。
でも、もう一つ
私の人生で長く付き合っている
切っても切り離せない存在が
英語
お恥ずかしながら
英語は5歳くらいからやっていますが
未だにカタコト
誰よりも早く始めたのに
中高、社会人で始めた人たちに
あっという間に追い抜かれ
劣等感をずっと感じてました。
ぜったいこういう人、他にもいるだろ
5歳から英会話を始めたのは父の影響。
父は中学から
NHKラジオの基礎英語を
毎日聞いて習得した人で
このラジオを聞き逃すまいと
録音できるラジオコンポを
新しく買ってもらい
ラジオから流れてくる外国人の音声を
声も抑揚も発音も
そっくりそのまま発音できるまで
飯もお預けで練習
単語の暗記も
辞書に書いてある全ての意味と
例文をそっくり暗記
昔からド変態⁇
大学に入ると日本語の授業も
英語で書き取るという
変人気質な人。
この血が私にも
流れてるのかと思うと身震い
「◯◯ってどういう意味?」
って聞いた日には
「◯◯と◯◯と◯◯の意味があって
〜〜〜っていう例文があるはずだよ。
辞書引いてみな〜?」
と言われるわけです。
覚えた単語を
彼の前で披露するものなら
正しく発音出来るまで
言い直しさせられます。
自称、発音オタク。
相手が5歳児だろうが容赦はない
そんな父が英会話に通わせてくれたのは
外国の人に慣れさせて
物怖じせずに会話できるようになる為
今思い返すと英語の習得が
メインの目的じゃないなんて
なんて贅沢な動機
もし、あの頃に戻れるなら
プルっプルの脳みそを活かして
メキメキ英語を吸収したい
でも、父は忙しく
あまり英語は見てもらえず
母コジミに
「『緑』ってなんて言うのー?」
って問題を出されて
「ミードリー」
うん。グリーンな
コジミ
「ぜったい違うだろー笑
でも緑ってなんて言うんだろ⁇」
お前も分からんのかーい
can’t と don’t の
意味も違いも分からないレベルで
父が英語の本で
読み聞かせをしてくれても
さっぱり意味がわからない
小学生になると
母コジミのスパルタ予習が始まり
英会話の日はケンカばっかり
「意味調べてけ」
って言われて単語調べるけど
小学生に文法もすっ飛ばして
英語しか書かれてない教科書訳せって…
理解できる訳がない
スパルタだし
面白くないし
なんで英語やってるのかイミフ
単語も調べても覚えられない
でも、この頃よく取り組んでいた
発音しながら単語を
何度も書く練習のおかげで
正しい発音とスペルがリンクして
今では音からなんとなく
単語が書けるスキルが
一方で父は
宿題こそ見てはくれたけど
『勉強しろ』なんて一度も聞いたことない
むしろ大きくなってからも
「〜〜すると力つくよ」
って、アドバイスばかり。
私はずっと
勉強しなければ
折角早いうちから英語に触れさせてくれた
父の期待を裏切ってしまう
とずっと焦っていました
目の前のお手本が変態過ぎたか
でも、父は勉強するかどうかは
私の意思、興味に
委ねてくれていたんだなと
尊重してくれていた愛情を
振り返って感じました。
肝心の英語力は
外国人はへっちゃらだけど
モノにはならず
でも
早いうちから海外という存在を
知っていた私は周りの子よりも
海外を近くに感じてました。
この頃から
日本の人目文化や
コジミの世間体にうんざり
いつも真っ先に
海外に逃げてしまいたい
と思ってました
小学校の卒業式で将来の夢に
「カナダに留学」
って書いたほど
カナダは一度行ったことあるし
というただの思いつきで
英語圏ならどこでも良かった
そういえば、
英会話の先生から否定、
ダメ出しされた記憶がほぼない。
Very good!!🙂
とか
Nice!
とか
ポジティブな励ましばかり。
そんな英語文化経験が
無意識に海外に対して
ポジティブな印象があるのかもしれない
だからすぐに
「海外に逃げたい」
という発想になったのか。
海外という違う文化に入ったら
目立たない、パッとしない
自分が変われるかも
という期待もありました
私のこの頃の英語のテーマは
英語に対してポジティブな土台を築きつつ
英語の発音といった
基礎を体感で得ていくこと
だったのかなと思います。
発音は父の職人気質な指導と
英単語練習のおかげで
気がついたら綺麗に
出来るようになってたし
体感でなんとなく習得するのが
得意なのもあるかも
そして、この経験があるからか
海外=自由になれる逃げ場
が私の根底にある気がする
英語は自由への切符
もし、中学生になるまで
外国の人とも
英語とも
触れ合う機会が無かったら
たぶん
数学とか国語の授業と同じで
沢山ある教科のうちの一つとしか
思ってなくて
今、こんなに色々やってなかったかも
こんなに早くから英語に出会って
今も力を入れているのは
間違いなく私の人生に必要で
何か自分の能力を発揮していくための
足がかりなんだろう。
この経験は
今の私の深みに繋がっている
はず!
「あー、、茶碗洗ってくれねーかな」
お風呂から上がると
夕飯で使った皿がシンクに
まだ重なって置かれている
母コジミは
床に付録の型紙を広げて
せっせと紙に書き写している
コジミに頼まれ
「すてきにハンドメイド」を
数日前にネットで買った
早速ワンピース作りに
取り掛かっているのだ。
これで2作目。
前回より手際が良くなってる。
1作目のシャツワンピは出来上がるなり
私
職場
手芸店のお店の人
スーパーのお店の人
おばあちゃん(母方)
出かける先々の人
に
「これ作ったんです」
って言いふらしながら回ってた
聞いてるこっちが恥ずかしい
あー、今はワンピースやりたいのね。
「んー。」
え〜⁈
なんて抵抗は湧かなかった。
人生の振り返りをここ最近記事にして
書き切った日の母コジミとのやりとり。
前だったら
えー。
って思ったし、言ってた。
これはラスボス倒したか
日頃、コジミの思っていることを
エネルギー的に感じて
感じたら心の中で✅するワークに取り組んだり
コジミから受け継いだ拗らせに焦点を当てて
人生の振り返り記事を書いたら
あら不思議。
抵抗がいつもより無い
庭の野菜の手入れも
前より一緒に作業することを楽しめている
人生の振り返りを記事にすることが
ラスボス・コジミ クリアになると
確信していたのが現実になったか
この一年ずっと向き合ってきたことなので
一旦ひと段落
あの記事がこれからの
パートナーゲットの
伏線になるに違いない
でも、ひと段落ついたら
目標というか、
やること無くして脱力な1週間
NHK基礎英語に挑戦していますが
積ん読3合目を目前にして
2ヶ月も休憩中
1月号終わらせるのに
2ヶ月もかかってる
なぜ、今つまずいているのか
確実に英語は私の基盤を築いてもいる
鍵は積み上げてきた過去にある予感がするので
今度は英語に焦点を当てて
やる気スランプ脱出
波に乗ろうと企てております
早速、構想練ってたら
今度は父親との関係と
向き合うことになりそう
これ書いたら心から望むパートナー出現か
下心しかねー
でも今週は仕事でやりたくない
実験だの
設計だの
やる気出ない
いや、削がれて
疲れてしまった
英語も気になるけど
仕事が合ってないのが
めっちゃ気になってくる
新商品が発売されたら
私のお役目は終了かなと思っていますが
辞めてまでやりたいことがない
英語と仕事を『婚活しない婚活塾』の
いづみさんにも報告
英語も今やる気ない
設計もやる気ない
というシンクロが見えてきました
まさか繋がってた⁇
父も設計の仕事をしていて
英語 × 父 × 設計
で繋がりがあるかも
英語と向き合うはずが
まさかの壮大に繋がってる
パートナーは
父親のように
冷静に物事を考えられて
ユーモアある人が
いいなーなんてぼんやり思っていたので
この英語に焦点を当てた記事を書いて
私が望む
仕事
と
パートナー
と
英語
ゲットだぜ
前の会社は風呂飯クソの安月給
前の会社で起きた辞めてやる事件
次に入った会社は精密機器メーカー。
この会社は海外業務もあり
英語を使うチャンスもありそうと思い選んだ。
前職の経験も踏まえてホワイト企業希望の望みも叶った。
年収が100万も上がって人間らしい生活。
前の会社は300万も行かなかった
ここも中々のキャラの濃さで
ずさんな採用計画の下、デザイナーとして採用されたが入社してびっくり。
そんなデザインの仕事はなかった。
5年ほど設計業務。
大学では3D CADを使った経験もあって、なんとかギリギリついて行く。
周りは理系の大学を出たデキる頭のいい人たちばかり。
その中で理解の鈍い私。
足を引っ張るのが嫌で嫌で
設計も向いていないと苦しんでいた。
プラス、ラスボスとも言えるコジミとの同居再開。
最初は会話すらしない
会話したとしても口喧嘩
もう、結婚して辞めてしまおうか
それとも海外に行ってしまおうか
なんて考えることも。
それ、現実から逃げたいだけで
幸せにならないやつ
大学時代に見つけた、あの本に書いてある自己受容が出来ていないから苦しいんだ
と本を広げてみるが思うように軽くならない。
ちょうど、日本人の真面目な気質の似たドイツに興味があり
「ドイツ 転職」 で検索すると
現地で活動されている、自己受容講師がヒット。
ここから自己受容の道が始まった。
本当の自己受容を知って、大学の時にやっていたものは表面しかさらっていなかったと実感。
私からの信用は全くないと感じた。
この頃、母コジミから
「結婚こそ幸せ。早く結婚しろ」
と何度も言われた。
「そんな古い考え、押し付けてくれるな」
と何度もぶつかる。
そんな発想で結婚なんかするから、子育ても親子関係も上手くいかねーんだろ。迷惑だ。
と思っていた。
一つ一つ自分の内側を癒していくと
半年で部署異動が決定。
念願のデザイン業務が舞い込んできた。
新商品の開発で、古い機種のリニューアル案件。
ここで任されたのは
画面デザインと本体のデザイン。
画面デザインは生まれて初めてのデザインジャンル。
今の会社は昔からセンスのないデザインばかりで使いにくい。
ページによって字が大きくなったり、小さくなったり。
大学4年間で培った、使いやすいデザインを目指して次々切り込んでいく。
下積みの設計業務時代のおかげで
この会社の風土
専門的な機能や用語
参入している市場
の知識が活きてくる。
プラス、鍛えられてきた論理的な説明経験も活きて、なぜこのデザインなのかを説得。
どんどん新しいアイデアが採用されていく。
この頃、佐藤由美子先生の「劇場型ライティング講座」という
言語化を通して自分の人生を紡ぐ講座にも参加していた。
大学の頃から私は本当にデザインがやるべきことなのか自信が無かった。
けど、『今あるものを改善して、要望を超えたカタチに変えていくこと』にやりがいを感じる自分に気づけた。
デザインの完成が見えてきたある日
事業部のトップから
「今までにない、新しい商品が出たんだ、と市場にアピールできるような斬新された製品を生み出していって欲しい」
と言われ、私のデザインが受け入れられ、認められていると実感でき
これが私のデザインのスタイルなのだと腑に落ちた。
これは今思い返すと、
前職でも会社の作風には負けずに至る所に工夫を凝らしていたところとも通じる。
プラス
幼い頃から持つ、人の思いをキャッチする能力は
営業や設計業務で体験した、市場や人から求められていることを体感で感じる能力に繋がっている。
繊細が弱くて嫌だと思っていたが、この能力が私の人生には必要不可欠だった。
何でこんな向いていない設計業務なんてやらなきゃいけないのかと思っていたけど、
今の会社は私にとって、自分と向き合うための必要な癒しと時間だったのだと思う。
この会社在籍中に
自分の本音を受け止める、女性性を前よりも、ぐんと育むことが出来ている。
女性性の象徴でもある拗らせ婆のコジミとの関係も修復しつつあるし
言語化を通してやっと自分の人生が少しずつ動いている感覚を感じられるようにもなった。
前の会社に未だ居たら、自己受容するのに金銭面も時間の面でも余裕がなく、今頃ふて寝していたと思う。
ラスボスの母コジミとの関係が良好になってきている今
今度は一人暮らしを考え始めている。
本来の私の人生を前に進めていく時かもしれない。