もうどれくらい経っただろうか。
「からだの声を聴く」ことを最上位に据える鍛錬を重ねてきた。
からだが感じる小さな違和感、小さなよろこびを無視しないということ。
「気づいた」ら、「選んで」→小さな小さな行動をとってみること。
からだが拒否しているものは、うまくいかない。
穏やかでいられる方を、安心できる方を選んでいい。選ぶのがいい。
闘い基準、勝ち負け、正しいか間違ってるかにしなくていい。
わたしはずっと、今よりよくなりたいとどこかで思っていた。
変わっていくことは楽しい。
そんなプロセスの中でふと、気づいたことがある。
わたしの「思考グセ」だ。
それはとても複雑味を帯びていた。
わたしは、わたしのからだは、日々懸命に生きていて、「今日もわたし生きてた。えらいでしょ。」…と、心からそう思うのに。
今日もあれができなかった、これができなかった… という思考が、いつも罪悪感と共にわきあがってくる。
以前、からだがしんどくて、朝はゆっくりしか起きれないことを、わたしは心のどこかで「悪しき習慣」だと捉えていた。
からだは寝ることで修復しているというのに、失礼な観念よ…。
(今は随分と早起きになりました♪)
ビールが大好きなことも、「悪しき習慣」だと思っていた。
失礼じゃないか。
父も母もビールが好きで、2人ともわたしに缶ビールを贈ることをよろこびにしていたのに。
ビール飲みながらの飲食を、よろこんでいたのに。
どう逆立ちしたって、父も母もビールが好きで、2人とも「ビールを美味しそうに飲む娘」を目を細めて微笑んでいたのに。
心無い同期の言葉に囚われて…
つまらない言葉に影響されて、ずっと「悪しき習慣」だと自己否定をしていたことになる。
こんなことが「自己否定」なのだと気づいた。
気づけてよかった。
「悪しき習慣」という視点を持つ必要なんてないのだ。
それはほんとうに「悪しき」なのだろうか。
心の安寧のために、必要だったんでしょ?
緊張しやすいわたしを、リラックスさせてくれてたんだよね?
ワーカホリックなわたしを守ってくれてたんだよね?
否定しないと進めなかったんだ。
「否定しないと進めないパターン」しか、知らなかっただけなんだ。
「悪しき習慣」なんて概念は葬った。
心は、からだは、いつもどこか安らぎやよろこびを「知っている」だけなのだ。
何周も回って、「しんどいこと」をやめていこうという概念になった。
今日ここまで、いのちを支えてきてくれた自分の考えや行いに対して、「悪しき習慣」なんて視点は失礼じゃないかと、思うようになった今日この頃。
彩矢乃