目覚ましが鳴って、寝ている間に届いた通知を一件ずつなぞる。それが私のいつもの朝でした。
誰かのホームラン数に一喜一憂し、相談の依頼に思考を巡らせ、子供からのLINEをチェックする。そうしているうちに、あっという間に30分が過ぎてしまいます。
朝の集中力は凄まじいものです。
雑念が一切湧かないその貴重な時間を、
身体の一部がヒリヒリするのを横目に、
私はただ情報の波に流されるままに費やしていました。
この習慣を変えていこうと、
手の届くところに吉本ばななさんのエッセイ集を置いておきました。
目覚めてから、本を手に取り読み進めていくと、言葉がぐんぐんと心に染み込んできます。
ばななさんのエッセンスが、乾いた心を潤していくのを感じました。
うん。とってもいい朝だ。
これだけで、ポパイのほうれん草缶さながらのエネルギー充電が
体中にみなぎってくるようです。
昨夜のこと。
寝る前に『源氏物語』蛍の帖を、タイムを計りながら音読しました。
8月16日に計測したときは17分01秒という過去最速を記録しましたが、
昨夜は18分19秒。
1分以上も遅くなっていたことに、ちょっと気落ちしている自分がいたのです。
目標としていた「16分35秒切り」からは遠ざかってしまいました。
一瞬、悪かった部分を探そうとする自分。
でも、すぐに思い直しました。
言葉に詰まるポイントが浮き彫りになり、それは今の私の明確な課題なのだと。
そう気づくことができて、この後退も決して悪くないと思います。
いつからか、私は「何もしない時間」が苦手になっていました。
誰も見ていないのに、何かに追い立てられるような強迫観念に囚われ、隙間時間を埋めるように何かを詰め込む。
「タイパ(タイムパフォーマンス)」や「コスパ」という言葉の呪縛が、自分でも気づかないうちに私を縛っていることに気づきつつも抜け出せない自分。
そう言っている割には
休憩という名の下に、スマホ見てダラダラしている自分に問いたくなる。
これは、OKの範囲なのか?
【休憩という名の脳の酷使】
空っぽになる時間
「サボっているように見られるかもしれない」という
おかしなまやかしを解くタイミングが、今、来ているのかもしれません。
昔、休みの日に毎週母と見ていた海外の辺境の地に赴いてしばらく生活を共にするという旅番組でのこと。
現地の人が、日本人のテレビクルーに尋ねました。
「なんでそんなに働くの?」と。
スタッフの一人は答えました。
「休憩しているとサボっていると思われちゃうし、暇だと何かをしなきゃって焦っちゃうんだよね」
でも、暇とか休憩という概念がそもそも無い国の人たちだったから、
訳しようがなくて、伝えようと必死になっていたけど、結局、伝わらずに終わりました。
子供ながらに、そのジレンマをなんとなく覚えています。
その人たちは、農作業や狩りをする以外は、
みんなでじっと空を眺めたり、鳥の声を何時間でも聞いていたりしていました。
昨日、私は普段以上に、何もしないことを自分に課しました。
起こること一つ一つに意味を見出すのをやめ、ただ感じることを自分に許したのです。
その中で本当にやりたいことが、やっぱり音読だったので、
朝と昼と晩に音読を実施して、そしてその体感を言語化しました。
その一つひとつが、日常の中でぐんと立ち上がってきて、
強い存在感を放ちながら、私に微笑みかけているように感じました。
いつもより、音読の時間が、なお一層愛しく思えました。
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