『ことに触れつつ、ただならず聞こえ動かしなどしたまえど、やむごとなきかたの、およびなくわずらわしさに、おり立ちあらはし聞こえ寄りたまはぬを…』
(出典:『源氏物語』第25帖「蛍」)
秋好中宮に対し、折に触れては執拗に働きかけ、心穏やかではいられない様子を見せる光源氏。けれど、彼女のあまりの高貴さに、さすがの源氏もあからさまに踏み込むことはできません。
ここで響く「わずらわしさ」とは、「面倒」さではなく、出そうとして出しきれず、内側で折り畳まれ、それでもじわじわと漏れ出していく、心の渋滞のような運動です。
「わ・ず・ら・わ・し・さ」
この音列には、力強く断ち切るような爆発音が一度も現れません。
「すんなりいかない」ドラマを詳しく紐解いていきましょう。
【わ】… じわっと広がる「迷い」
お腹の底から温かい息が、口の方へ上がってきます。
「さあ、外に出よう」と口を開きかけるけれど、まだ踏ん切りがつかない。
傾けた瓶からハチミツがゆっくり垂れるような、甘くて重い「ためらい」が口の中に満ちていく感覚です。
【ず】… ギュッと閉じ込める「我慢」
広がろうとした息を、舌が上顎にピタッとくっついて通せんぼします。
出口を塞がれた息は、喉の奥で細かく振動し、重たい塊になって胸の奥へ沈んでいく。
「言いたいけれど、今は言えない」という、苦しい折り返し地点です。
【ら】… くるんと丸めて「整える」
舌先で上顎をポンと弾きます。
閉じ込めた重苦しさを、そのままぶつけるのではなく、舌をくるんと丸めて「きれいに形を整えて」から外へ滑らせる。
少しだけ冷静になって、言葉を「よそ行き」に整える瞬間の動きです。
【わ】… またゆらゆら「揺れる」
一度整えたはずなのに、また最初の「わ」の迷いが戻ってきます。
でも、一度「ずら」を通った後なので、少しだけ息が軽くなっている。
「やっぱり、どうしようかな」と、出口を探してふわふわ漂う感覚です。
【し】… スーッと細く「研ぎ澄ます」
ここで、舌を上顎にギリギリまで近づけて、息の通り道をうんと狭くします。
すると、ゆらゆらしていた息が、細いレーザー光線のように鋭く、冷たくなって突き抜けていく。
迷いが、スーッとした一点の「確信」に変わっていくような、涼しい感覚です。
【さ】… パラパラと「解き放つ」
最後は、細く絞った息をパッと開放します。
ドカンと爆発するのではなく、細かい砂や霧が風に舞うように、サラサラと外へ抜けていく。
喉の力が抜けて、胸の中に溜まっていたものが、ようやく光の粒子になって消えていくフィナーレです。
結び
この言葉を口にするとき、私たちの体はこんな風に動いています。
ゆらゆら(わ) 揺れて、
ググッ(ず) とこらえて、
くるん(ら) と整え、
またゆらゆら(わ) 迷ってから、
スーッ(し) と研ぎ澄まし、
サラサラ(さ) と放つ。
一気に吐き出すのではなく、何度も何度も心の中でかき混ぜられ、迷って、ようやく「気配」としてにじみ出てくる。
それが「わずらわしさ」という音の正体です。
源氏が、高貴な秋好中宮を前にして、進むことも退くこともできずに溜め込んだ、あの濃密な時間。
意味を考える前に、まずは声に出して、その「ままならない心の動き」を体感してみてください。
