最近、幼い頃のことをよく思い出すようになった。

ちょっと前までは、過去のいろんな出来事を思い出すたび、目をぎゅっと瞑り、身を縮めていた。

台風直撃の最中、停電している家の中でろうそくの灯りを頼りに、雨戸ががたがた音を立てる怖さに耐えながら、通過していくのを待つ時みたいに、痛みのピークが通り過ぎるのを、じっと待つしかなかった。

ところが最近、記憶とそれにまとわりついていた感情というものを、少し離れた場所から眺められるようになった気がする。

ドラマや映画の一場面を見るように、「あのとき、こういうことがあったな」と、ただ淡々と見つめていられる。

その時の感情が、なかったことになったわけではない。

ただ、思い出すたびに、あのときの痛みの中へ戻らなくなった。

心が、少しずつ軽くなっていくような体感。

暗唱を目標として、私は令和7年10月12日から『源氏物語』第25帖「蛍」の原文の通し読みを始めた。

まもなく1年になる。

本日の原文での通し読みは780回目。

母音だけで全文を読む「母音音読法」は、9回目を終えた。

『源氏物語』全54帖の全体通し読み二巡目は、現在「夕顔」を読み進めている。

この1年に書いた記事や日記、メモを振り返ると、そのとき心のひだがピクリと動いたことだけでなく、長く棚上げしてきた感情についても、繰り返し書いているのに気づく。

以前は、見ないようにしていた感情が浮かんでは揺れ、その都度、身体を緊張が襲った。

けれど最近は、少し距離を持って、じっと観察して、割とそれを言葉にできるようになった。

そして、もう一つ。

過去の感情への囚われが薄くなるのと同じ頃から、「もっとこうなりたい」「これを手に入れなければ」という思いも、以前ほど意識しなくなっていることに気づいた。

代わりに、今やっていることを、そのまま楽しめる時間が増えたように思う。

音読もそう。

音読と、こうした変化は関係しているのではないだろうか、というのが現時点での私の仮説。

まだ答えは出ていない。

それでも、780回目の今日、自分の身に起きていることを記録しておきたい。

プールの中にいた私が、縁に立つ

ゆるやかだが、確かに変化はあった。

この1年、感情が揺れなくなったわけではない。

悲しいことがあれば悲しい。つらいことがあればつらい。

その気持ちは、しっかり自分の中に起きるし、動揺もするし、子どもにきつくあたることもある。

でも、そういう自分をちゃんと受け止められている。

「あ、今自分イライラしていて、しかも、言葉がきつくなっているよ」

「これを言われたときの、子どもの顔。ほら、ちょっと怯えている。戸惑っている、悲しそうな顔になっている。反省しようとしている。逆に納得していない。ほら、イライラし始めた」

そんなふうに、自分が起こした波の影響を拾うところまで観察している自分がいる。

誰か第三者のような視点の自分と一緒に。

そのお陰なのか、一つの感情の中に、いつまでも浸り続けることが少なくなった。

以前の私は、問題のあるプールの中に浸かったまま、そこで何とか答えを出そうとしていたのかもしれない。

水の中では、目の前の波しか見えないから。

でも今は、ときどきプールの縁に立っているように感じる。

「あのとき私は、何が悲しかったのだろう」

「ずっと拘っていたのは、このことだったのか」

少し離れた場所から眺めると、出来事も、自分の気持ちも、冷静に追うことができてくる。

時間が経った、ということもあると思う。

それを受け止める余白が生まれたことや、自分の気持ちを表す言葉が、少しずつ増えたこともあるかもしれない。

過去を振り返り、「これはこういうことだったのかもしれない」と自分なりの言葉を当てはめる。

そんな作業を、一つずつ丁寧に続けてきた1年だった。

昔の痛みを客観的な映像のように眺められるようになったことも、音読の積み重ねの中で気づいた変化だ。

では、声に出して読むことと、この変化には何か関係があるのだろうか。

過去の痛みだけではなく、「もっと欲しい」「こうならなければ」という囚われまで、なぜ以前ほど気にならなくなったのか。

この先では、13年間音読を続けてきた私が、この1年「蛍」を780回声にする中で感じてきたことを、もう少し深く辿っていきたい。

まだ答えではないけれど、

780回目の今だから書ける、途中経過の記録として。

 

全文はnoteの下記のリンクよりお読みいただけます。