前々回のブログでは、ゴールという人生の目的を目指す、スタートラインの私が一体どのような状態にあるのかを考えるきっかけを作ってきました。

今日は、僕の考える「スタートラインの私」の正体を、お伝えしようと思います。



スタートラインの私、すなわち”通常の自分の状態”を導くのは凄く簡単です。その通常の状態が、通常でなくなる時の自分の状態を考えれば分かるからです。


この自分自身を、全てにおいて違う自分に変えてしまう事象…、それは『外的刺激』ですよね。(※『五感』とも言い換えられる)

いわゆる「視覚情報」・「嗅覚情報」・「味覚情報」・「聴覚情報」・「触覚情報」のこれら刺激をきっかけにして、通常の自分ではなくなります。


≪具体例≫

*眩しくない→眩しい (視覚)

*臭くない→臭い (嗅覚)

*辛くない→辛い (味覚)

*煩くない→煩い (聴覚)

*痛くない→痛い (触覚)


このような移り変わりが、通常の状態をそうでない状態に仕立てるでしょう。

となれば、通常の状態の正体はまず「無刺激」と仮定できます。


しかしながら我々人間にはココロがありますよね。

当然ながら「眩しい・臭い・辛い・煩い・痛い」の刺激が速やかに不幸でもないし、場合によっては幸福にも感じられます。この移り変わりが心地よい時もあれば、心地悪い時もあるのです。


すなわち、この無刺激状態にココロが入り込みますから、僕はこれを「無感動」と表しました。

よって、通常の状態である「無感動」をスタートラインにして、そうでない状態がゴールですから、「人生の目的」は「感動」であると考えられるのです。



前に掲載させて頂いた哲学者の名言で


「人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。肝心なのは望んだり生きたりする事に飽きない事だ。」 Byロマン・ロラン


というのがありました。


この文面で今、下線部に記されている事がいわば、人生の目的が「感動」であると捉える事も出来るかと思います。



≪まとめ≫

●通常の状態をそうでない状態に仕立てる時、必ず外的刺激が関わる。

●与えられた刺激が、即ち不幸または幸福かは決まらない。決めるのはココロ

●僕は人生の目的を「感動」だと考えている。

●次からのブログでは、「感動」だと考える事についての特徴やメリットを中心に書かせて頂きます。



3人生の目的図解.png

皆さんは「結晶物語」(著者:江本勝)という本をご存じでしょうか?

もしかしたら誰もがどこかで聞いたことがあるかもしれません。


水に「ありがとう」と語り続けるとその水はキレイな結晶を見せ、「ばかやろう」と語り続けると結晶すら見せてくれないという有名な実験が掲載されています。


この他に、炊いたばかりのご飯を3つの瓶に入れ、一つ目の瓶には「ありがとう」と書いて、二つ目の瓶には何も書かず、三つ目の瓶には「ばかやろう」と書いてそれぞれの腐敗の仕方を見る実験があります。

結果は、まず何も書かれてない瓶のが初めに腐敗し、次に「ばかやろう」の瓶、そして最後が「ありがとう」の瓶と書かれていたんですね。

(前に、「笑っていいとも」でさとう珠緒が「水に、『おいしくなあれ、おいしくなあれ、おいしくなあれ』って言うと本当においしくなるんですよ~」って言ってたアレと似てるかもしれませんw確か、これ長井秀和がエンタの神様でもネタにしてたような…)


ある宗教団体の信者に、この話をした際に、「それはデマだ、誤った情報で読者を惹きつける洗脳行為だ。」という返答を受けたことがあります。


まあ確かにね。自分で実験したわけじゃないから信じるに足りるものではありませんわねw


だから本気で実験する事にしました。

とはいえ、僕がこの実験を今すぐしようと思うに至った一番の動機は、このブログにも書いている、「人生の目的」が幸福ではない事を証明する材料として必要だったからです。


※「結晶物語」と「人生の目的」の繋がりは、また後ほど…。


で、実験道具を揃えた場所が、創価企業のダイソーという皮肉っぷりw


①まずはじめに、三つの同じ形の瓶に、それぞれ炊き立てのご飯1杯分を三等分し、蓋で密閉しました。

②そして油性の黒マジックを用い、ガラス面に直接、1つ目は「ありがとう」、2つ目は何も書かず、3つ目は「ばかやろう」と、誰でも読めるような一般的な字で記しました。

③その後、お互いのご飯が隣りあわせの「ありがとう」や「ばかやろう」に影響されないようにコピー用紙で仕切りを作り、放置してきました。



≪放置1か月後≫

「結晶物語」の本の中では1か月もすれば、「ばかやろう」の瓶は真っ黒に腐敗すると書かれていました。

しかし、家で実験中の瓶にはまだそれと言った変化はありませんでした。


≪放置2か月後≫

ついに変化が起きました。「ばかやろう」の瓶のご飯が変色を始めたのです。しかし、それは本当に微々たる変化です。醤油を1~2滴垂らしたくらいの変色でした。


≪放置3か月後≫

あれから徐々に「ばかやろう」の瓶のご飯が変色を進めてきました。

しかし不思議な事に、初めに腐敗するはずの何も書かれてない瓶に未だに変化がないのです。「ばかやろう」だけが変色しています。


≪放置6か月目≫

まさに今現在ですね。相変わらずなんです。

何という事でしょう。「ありがとう」の瓶と何も書かれていない瓶のご飯が、炊きたてのほぼあの時の白さを保ったまま、瓶の中にいるではありませんか。

「ばかやろう」も、他の二つに比べれば茶色みが強いのですが、「結晶物語」の本に掲載されている写真並みのどす黒さを感じないのです。


僕の部屋にはいったい何が棲みついているというのでしょうかw



ともあれ、「ありがとう」と「ばかやろう」の文字が書かれたそれぞれの瓶のご飯には変化が現れました。

これはすごい事です。ご飯、または水が、この我々人間の創り出した文字を認識し、理解しているのですから。


これを大きな意味で捉えると、結論として≪物質には意思がある≫という仮定が得られます。

当然ながら意思もないモノが、文字や言葉を理解できるはずがありません。

ともすれば、我々人間も100%の物質の集合体でありながら、意思を持って生きている存在です。これは確実性があり、間違いありません。


空気中の気体のそれぞれにも確実に意思はあるでしょう。

その空気を呼吸で取り入れる、あるいは気体(水蒸気)が液体(水)になり、これを沢山体に取り込んで生きている動植物を食すことで我々は生きています。


「結晶物語」で協力してくれた「お水」さんと「お米」さんも46億年以上の長い間地球に棲んできた物質の集合体ですから、何度も生命の中を通過しています。


人間の一人一人の人生の中での意思を記憶し、「ありがとう」や「ばかやろう」の意味を把握していなければ、こんな結果にはなりませんよね。


キリスト教などには創造論という概念があります。

創造論者にとって唯物論は、部品を撒いてそのまま奇跡的にジェット機を創り出してしまうほどの凄く低い確率の理論であるため、これを信じることが出来ません。

しかし、その部品(物質)一つ一つに意思があったとしたらどうでしょう。互いにコミュニケーションを取り合い、合体ロボットのようにほぼ100%の可能性でジェット機(今の世界)が創り上げられます。


これならば、神様を中心とした宗教は否定する事も出来ますから、彼を中心にした「人生の目的=幸福」理論は覆されます。


また一部、仏教も含めてこれを主体とした新興宗教には「魂」の概念が付属している教義もあります。これもまた不適切です。物質そのものには元々から意思は存在しているので、これにプラスして更に意思を持つパイロットが乗り込む必要はありません。


この世界は創造主として神様がいるとは考えられません。

しいて創造主をあげるならば、それは物質なんです。物質が支配者なんです。


創造主の有無は抜きとしても、しかしながら「ありがとう」って本当に素晴らしい事なんですね。今まで頑張って生きてきた自分の心と、ちゃんとついてきてくれた自分の体に、たまには「ありがとう」って感謝の言葉をかけてみてはいかがでしょうか。

やはり、「幸福」を人生の目的として掲げてしまう思想は、私たち人間だけでなく他の生命たちに対しても、彼らを差別的、区別的にとらえてしまう悪の温床であることが気づかされました。


では、僕らは何を人生の目的とすることが適当なのでしょうか。

それを知るにはまず、その目的を今こそ達成しようとしている貴方の、今この瞬間の状態を単語1つで表す事です。それさえ表現する事ができれば、以前にも記しましたが、あとはその自分の状態の対し、そこに否定接頭辞をくっつけて、或いははずして、対義語にしたその単語が本来の目的となるからです。


そうは言っても、「幸福」を目的と信じてきた方々には、なかなか出せる答えではないかと思います。

そもそも、「幸福」が目的であるとした時、その対義語である「不幸」が私たちの通常の状態でなければなりません。

しかしながら我々は今、そうとも言い切れない状態を保っています。何かこう、幸福っちゃあ幸福だし、不幸っちゃあ不幸って感じのような…。


色々と調べてみると、こんな名言を残している哲学者もいました。


「人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。肝心なのは望んだり生きたりする事に飽きない事だ。」 Byロマン・ロラン


確かにそうだなあって思います。

人は何かあればしきりに幸福だ不幸だなんて言っているけれど、結局は”おおむね幸福とも不幸とも言えない何とも微妙で中途半端な自分”を保っているんですよね。

幸福とも不幸とも言えない状態が私達のベースになっているのですから、当然人生の目的に相応しい言葉も幸福や不幸の尺度で測れるものではありませんよね。…って事ですw


ゴールという人生の目的を目指す、スタートラインの私が今どのような状態にあるのか。

尺度を変えて、ものさしを変えて、見つめなおしてみてはいかがでしょうか。



≪まとめ≫

●目的は今この瞬間の自分の状態を知って、その対義語を導けばいい。

●私達は自分で思うほどには実は幸福でも不幸でもないもの。

●幸福や不幸の尺度で測るものさしを捨てて、今の自分を見てみよう。