悲しいかな、宗教と言うのは非道極まりないものです。

あらゆる差別を生み出しているそれであるのに、なぜ支持され続けてしまうのか。


人生の目的は幸福とした宗教は、多くの場合、題目や聖書などの文書読解力、日本人なら日本語という言語能力、物事の欲望を控える理性、神仏に対する信仰心を必要とします。

これってマジでおかしくないですか?

だって宗教は「普遍的」「真理」を謳っている学問でしょう。


一般的な「真理」、即ち法則や定理などは、万物に対して平等に行われているものです。

地球上の引力や摩擦力、慣性の法則、三平方の定理などのごく一般的な「真理」は誰にでもあり得ます。

全生命体に区別・差別無く行われているのです。


しかしながら、宗教はどうでしょう。

文書読解力言語能力理性信仰心は人間のみのそれです。結局のところ、知性ありきでこの宗教と言う学問は出来上がっているのです。

これらかねてより必要とするものを、時に動物たちの身で起きた時、いったいどうせよと言うのでしょうか。


置いてけぼりです・°・(ノД`)・°・

仮に幸福が目的だとするならば、家畜としてただ食べられる為だけに、人間に無理矢理産み育てられトサツされていく彼らの目的も幸福であるはずです。彼らは知性を持っておらず、結局彼らを置いてけぼり状態のままで、人間どもはそそくさと絶対的な幸福の居場所へ大移動していくのです。

全生命体を一つの家族くくりとするならば、それは言葉が通じない障碍者として生まれた子供に対し、育児を故意に放棄して、自分のしたい事をしているバカ親みたいなものです。言葉が通じなければ、彼らの基本的人権を無視していいのでしょうか。


そもそも、僕は人生の目的となるものが、常に意識下にあり、意識して結果を残していくものである必要はないと考えています。

当然の事です。私たちがこの世界に降り立った時、間違いなく「無」だったんですから。

そこでは言葉を把握する能力もなければ、目に映るものが何であるかも理解出来ない状態からスタートしたんです。この分では、この身の生前や生まれた瞬間に第三者に目的を告げられたとしても、それを理解することはできません。幸福という目的があったとしても、それを知るのはせいぜい物心がついた頃でしょう。

そうなれば周りに何もない空間で育ったり、知能が発達できない体で生まれてしまった場合も含め、その目的を自覚する時が来るまでの時間がおのずと無駄になってしまいますよね。

その間に何かあって目的が達成されないまま死んでしまう事があれば、もはや無駄死にならぬ「無駄生まれ」が起きてしまう訳です。これでは人生の目的、即ち人間の生きる目的という意味ではやはり不平等性が生まれてしまうのです。


動物たちに差別無く、時間も無駄にならない目的の真の状態は、産まれたままのその時から、無意識に無自覚にそれを達成しているのだと考えるべきではないでしょうか。


ともすれば、それは今の生活空間以上に人間的な何かしらの努力を以て、得ていく何かである必要もないわけです。



≪まとめ≫

●人間のみに適用され、他の生命体に適用されない幸福が主体の宗教は、真の意味で普遍的とは言えない。

●人生の目的が無意識かつ無自覚に達成できるものであれば、そこに差別を生み出さない。

●人間間でも「無駄生まれ」を生み出してしまう宗教が、果たして普遍的と言えるか。

僕らは、例えばモノを購入しようとした時、そこにある商品は自分にとって買って得なのかそうでないのかに悩むものです。

いわば、幸福不幸を頭の中で選択・決定しようとしているわけですね。そしてもし、自分にとってそれを購入する事が金銭面であったり、位置的なものであったり、家庭的事情であったりなどで自分を不幸にさせるものであったならば、購入を諦めるものです。


しかしながら、その商品自体に幸福や不幸の要素はありません

好き嫌いやアレルギーを引き起こす商品で、それが自分にとっては不幸の要素であったとしても、他の人にとっては大好物で人生の醍醐味には欠かせないものであったりします。

幸福や不幸の要素は、自分で選択し、決定しているのです。


このように、幸福と不幸は今の自分から選択されていくものです。

そのうちの幸福と言う選択肢を棚に上げて、これを「目的」と言い切れるのでしょうか。


そもそも、目的というのは、通常そこに選択肢などは存在せず、唯一無二でなければいけません。

マラソンを例に上げれば簡単な事です。

スタート地点にいる私たちにとって、目的となる場所はゴール地点という唯一無二の所です。

仮に、ウルトラクイズのように○と×の二つの選択肢があったとしても、自分にとってのゴール地点を予め決めて、そこにめざすのですから同じです。正直、選択肢に迷っている最中で、目的は存在する事は出来ないのです。

私たちの一番のスタートラインは胎児です。人生の目的という意味では、何の選択肢も無い唯一無二のそれが、初見で存在してやっと目的の地と結論付けることができるものです。決して、選択肢のあるものをそれとしません。


また、多くの場合、否定接頭辞を用いたものをスタート地点として、その対義語にあたるものを目的に設定するものです。

例えば、「大学未合格」からの「大学合格」、「資格未取得」からの「資格取得」、「無感動」からの「感動」、「非常識(人)」からの「常識(人)」などです。

しかも、未合格者・未取得者・無感動者・非常識人はそれぞれの合格・取得・感動・常識の要素を完全に持っていません。つまり、「100%の否定接頭辞状態が含まれた事象を持つ」事を全てにおいてスタートラインとしているのです。


だとすれば、ここでもおかしなことが起きています。

この視点から見ると…、「不幸」からの「幸福」??

あれ?僕らは赤ちゃんの頃、お母さんとお父さんの愛の結晶として生まれてきたはずですよね。

少なからず、その愛に育まれてきました。これって「不幸」なんですか?しかも100%の…w


まあ、家庭環境によっては、ごくまれにそういう人がいます。

でも、少なくとも宗教は「普遍的」「真理」を謳っている学問です。

つまり、100%の民が普遍的(広く一般的)にそうでないと辻褄があわないのですよ。


宗教に侵されている人はそれでも、「不幸」がスタートだったと言い切る人がいるかもしれません。

相対的幸福の概念が刷り込まれていますからね。

でも、相対的幸福って言葉からも、100%の不幸じゃないって事実が映し出されているじゃないですか。

今ある幸福が長続きしないと思っていることは、目的を幸福に置く根拠だとは思えません。


目的は「幸福」や「不幸」の尺度では表せないのだと考え、目的もまた、「幸福」や「不幸」では表せない言葉で表わせられるのだと考えていいはずです。



≪まとめ≫

●自分を幸福または不幸にさせている対象物そのものに、幸福や不幸の要素は含まれていない。

●否定接頭辞を用いた対義語関係のもので目的を決める際、100%の否定接頭辞状態をスタートにせねばなない。

●100%の不幸でない者が、幸福を目的にはできない。

●「幸福」や「不幸」では表せない目的の存在

幸福」という単語の意味をもう一度理解しなおしてみましょう。

辞書によっては異なる見解もあるでしょうが、私が持っている大辞泉にはこう記されています。


満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。しあわせ。」



簡潔に言えば「満ち足りているさま」という事になりますよね。

という事は、この「満ち足りている」状態を作る以前には「全く満ち足りていない」空っぽの状態が存在するはずなのです。


空っぽの入れ物を満ち足りさせる為には何が必要ですか(*^▽^*)?

満ち足りさせるべき何か』を入れてあげることですよね( ´艸`)


つまり、「全く満ち足りていない」状態での目的というのは『満ち足りさせるべき何か』ではないでしょうか。



特に、我々の知っている元々の幸福は満ち足りた状態をキープできない存在です。


小さな穴の開いたグラスを想像するといいでしょう。

このグラスは最初から穴が開いている為 、用途的にはまず「溜める」為に存在するのではないと考えることが出来ます。

ということは「満たされて流れていく」為か、もしくは「濡らす」為に存在すると考えられますね。


仮に「濡らす」為であれば、『満ち足りさせるべき何か』を作り出し、そのグラスに注ぐだけでいいのです。



≪まとめ≫

●幸福…………『満ち足りさせるべき何か』が満ち足りた状態(『満杯』とほぼ同意)


●目的の対象…『満ち足りさせるべき何か


●目的はこれを『満杯』にさせるためにあるものではない