何かに向かって書くことが当たり前になりすぎた。

 

 

その殆どは集客のためだったりする。


自分が携わっている事を

知ってもらう、来てもらう

 


それって、

純粋な気持ちというより、下心 、、?

 


 

ずっと自分が正直でいられるから

言葉を紡ぐのが好きだったはずなのに、


いつからかそれは何か別のものになって、

来てもらう、が先に立って

正直ではいられない時もあって


自分がやっていて楽しいもの、

嬉しいものではなくなってしまった。

 

 

それが増えていった先に、書くことから心が離れた。

 

 

とはいえ、

元々書くこと自体に心地よさがあったかというと、

そうでもない。



書いている時には苦しさの方が大きかった。

 

 


私は才能があるわけではないので、

先が見えて書くことはほぼほぼない。

 

下書きに入れっぱなしで

2年以上かけて書き上がる記事もあるくらい。泣き笑い

 

 

 

画面の前に向き合って、座って、

 

数時間経つことはザラ、、看板持ち

 



打ち込んで、消して、また打って。

 

 

書く っていう行為の中にいるとき、

先が見えず自問自答している時間の方がずっと長い。

 

 

 

何のために?

 

誰のために?




いくら考えても、

何のためでも、誰のためでもない





やめたい



やめてもいい

 



 

でも、なんか書かないともやもやする。

 


それで、結果的に 書く に辿り着いてしまう

 

 

書くことでもやもやを晴らしているのかもしれない





それは強いていうなら自分のため なのかな



 

書き上がるまでこの問答を一生しているので

もっともやもやする


苦しいんだけど


書くことで、そこに向き合うことで

答えを出さざるを得ない状況を自分に課してきた

 


 

それは一本ずつ、自分でピリオドを打つ

それを何度も練習してきたってこと

 

 

ピリオドを打つたびに

(光とは限らないけど)見えるものがあって、

 

そんなふうに積み上げてきたものは

私の確かな心の支えになっていたような気がする

 



 

私にとって、

 

書くこと というよりも

 

何を書くかを求めながら日常を覗くことや

そこから何かを考えて感じたことを

言葉に落とし込んでいくこと


 

別に、それを誰に読んでもらえるとか

感想をもらえるとかではなく

 

ただ自分が自分の見た景色と、そこから感じたこと

それが一つの形になって残っていくこと

 

何かを形にしようという心でまいにちを生きることは

生きようと思う糧になっていた気がするし

 

自分自身という感性の器を

大事にできているその状況が

ただただすごく嬉しかった

 

 

 

自分の器を介すことでしか紡げない言葉を紡ぎたい


そんな気持ちになれた原点の日に。

 


Ayana.