シーカヤックと「あがる」トラウマ | 孤独を生きる(孤独な心と人間関係を求めて)

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60才で定年退職し家庭内離婚実行中の孤独なACの万年青年が、男女の交遊を求めて彷徨うさまを記録します。

昨日は午前中、シーカヤックの体験会に行ってきたが、ぎっくり腰になってしまった。

たまたま新聞でこの会を見つけ、前からシーカヤックに興味があったので、初めて乗ったのだが、波があり着岸時に横に振られて落水し、水の入った重い舟を砂浜に引っ張りあげようとして、ぎくっときたのだ。

シーカヤック自体はスイスイと動いてたいへん楽しいもので、またほとんどが若い人の中で俺よりちょっと年上のやはりアウトドアが好きなIターンの男性と、いろいろ話したりしてよかったのだが、ぎっくり腰はテニスがちょっと出来なくなりそうで残念だ。

それはそうと、その体験会で俺はまた、解決できていないトラウマがあることに気づき、ちょっとショックを受けた。

それは閉会式で、参加者に感想を言えということで、司会者が適当にあてた人が、前に出て話さなくてはならなくなったのだ。

それは急に始まり、人が指名され話している最中、俺はそこで話すイメージが出て来ず、内心若干パニくった。

そこで落ち着いていろいろ模索し、「排除する」で何とかその参加者の前で自分でおれるイメージが出来てきて、少し安心した。

幸い当たらなかったが、冷や汗ものではあった。

帰ってからは腰が痛いので動けず、ギターを弾くぐらいしか出来ず、後は横になって寝たりしていた。

夜風呂でのトラウマ解消は、一昨日の惹かれた女性達を想定したが、なかなか溶けず、ふと昼間のパニくりかけた場面を思い出したら、溶け出した。

そうだ昨日はこのトラウマ解消を当然しなければならないのだが、忘れてしまっていた。

シーカヤックはそのために与えられた場面でもあるのだ。

人前で上がるのは俺の一番の弱点で、職場では常にそう言う場面を避けて小さくなっていたが、様々なトラウマ解消でもう解決済みと思っていたのだ。

この「上がる」のは、幼少期俺が親戚の家へ行くのを阻止しようと、親戚の家の近くの大人達が、俺が行くのを見張っており、見つけると行かないよう注意することでできたトラウマだ。

この監視から逃れるため、俺はいろいろ道を変えたり隠れたりして行ったが、これで見られると恐怖を感じるトラウマができたのだ。

これが物心ついた頃から小学生四年ごろまでのことなので、なかなか深いトラウマで、これがだんだん膨らんで来て、人前で注目されて話さなければならなくなった時、緊張で自分を失い、アドリブで話すことが出来なくなっていたのだ。

そしてそう言う時はパニくりながらも事前に話すことを一言一句考えておき、それを思い出して話すという、本来の自分とは違うイメージを作ってやって来たのだ。

イメージはやはり、視線を「排除する」でよかったようだ。