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さなえさんが店にやって来たのは、あれから数日後の午後だった。
朝から仕入れや配達を済ませて、商品も店頭に並べおわり、
バタついた仕事を終えて、ちょうど一段落した時だ。
「こんにちは」
「ハイ、らっしゃい!…あ、さなえさん…?」
客人だと思って振り返ると、彼女が立っていた。
「こんな時間にどうしたの、 めずらしいね」
時計を見ると、まだ午後2時を過ぎたところ。
さなえさんはいつも仕事帰りの遅い時間に立ち寄るのがほとんどで、
こんな昼間に店に来るのは、かなりめずらしい。
「体調、その後どう…?」
「ええ。もうすっかり」
「そか。よかった」
ホッとして笑いかけると、
彼女は改まった様子で、あたまを下げた。
「先日はご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。今日は、お母さんにもお礼をと思って…」
「…それで、わざわざ来てくれたの?」
彼女は「はい」と、うなずいた。
「分かった。ちょっと待って」
俺は奥に向かって母ちゃんを呼んだ。
「なんだい、どうしたの?」
顔を出した母ちゃんは、さなえさんの姿を見ると、うれしそうに顔を綻ばせた。
「あらあらあら、さなえさん!もう出歩いて平気なの?ほんとに、心配したわよぉ。あぁ、でも顔色良さそうね。良かったわ〜!」
母ちゃんは歩み寄ると、さなえさんの二の腕のあたりをやさしくさすった。
彼女は恥ずかしそうに はにかみ、ペコリとあたまを下げる。
「はい。おかげさまで体調はもうすっかり良くなりました。…あの、たくさんご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありませんでした。さくらまで、お世話になってしまって…。本当に、ありがとうございました」
「いいえ〜、そんな大したことしてないわよ〜!さくらちゃん来てくれて、わたしも楽しかったし。さなえさんの元気な顔が見れて安心したわ」
「これ、良かったら、お二人で…」
さなえさんはそう言って、手に持っていた紙袋を差し出した。
「こんなこと、しなくていいのに…。でも、せっかくだから頂戴します。ありがとう」
ニッコリ笑った母ちゃんを見て、
さなえさんは、なんだか悲しげな表情をした。
そして、ゆっくりと口を開く。
「…私、ここに来るのが好きでした。あったかくて、なんだか少しだけ懐かしくて…。
お母さん、いつも私たちに親切にして下さって、ありがとうございました。この御恩は、一生忘れません…」
「あら…なんだか、それじゃあ……もう会えなくなるみたいじゃない……」
さなえさんはそれには何も答えずに、
今にも泣き出しそうな顔で、母ちゃんに深々とあたまを下げた。
「さなえさん……?」
いつもと様子が違うさなえさんに、俺は不安になって声をかけた。
彼女は振り返ると、真っ直ぐに俺を見た。
悲しげで、それでいて、何かを覚悟したような目だった。
「…大野さん、お仕事中にごめんなさい。少しだけ、どこかで話せませんか?」
胸の奥が、ゴトリと音を立てた。
得体の知れぬ不安が、胸に広がっていく。
「…分かった。母ちゃん、ちょっと出てくる…」
すばやく腰に巻いた前掛けを外すと、
心配顔の母ちゃんを残して店を離れた。
さなえさんとふたりで近くにある喫茶店に入った。
いちばん奥の席に座り、コーヒーをふたつ注文した。
彼女と向かい合ってお茶を飲むなんて、きっとうれしいはずなのに、そんな感情は少しも湧いてこない。
それは、彼女の様子が明らかにいつもと違うからだ。
彼女はさっきからうつむいたまま、目の前のコーヒーカップを見つめていた。
「お仕事中なのに、無理 言ってすいません…」
「いや、昼間はけっこうヒマなんだ。店番くらい母ちゃんに任せとけばいいよ。ああ見えてあの人、この道40年のベテランだから。
…それより、さなえさん…いったい何があったの?」
彼女はほんの少し、ためらうようなそぶりを見せたが、ゆっくりと口を開いた。
「…あの子から聞きましたか?あの子の…父親のこと…」
「…うん。赤ん坊の頃に、亡くなったって…」
先日の風呂での、さくらとの会話を思い出す。
確か、さくらは幼すぎて、父親のことをおぼえていないと言っていた。
でも、次に彼女の口から出た言葉は、
あまりにも、衝撃的なものだった。
「本当は、生きてるんです」
「えっ……」
「あの子に死んだって言い聞かせてるのは、あの子に本当のことが言えなかったから…。
私は捨てられました。あの子が生まれてくるよりも、ずっと前に…」
ドッと心拍が上がる。
急にまわりの酸素が薄くなったみたいに、息苦しくなった。
この場に発する言葉なんて何も見つからず、
俺はただ、黙って彼女を見つめるしかなかった。
「その人とは、この街で出会ったんです。…とても、愛していました。
その頃は私もまだ若くて…。後にも先にもこの人だけだと、信じて疑いませんでした。
…でも、彼はそうじゃなかった。
別れを告げられて、彼が私の元を去った後も、私は彼を忘れることができませんでした。
毎晩、目を閉じると、どうしようもない孤独が私を襲うんです。もう、生きているのが辛った…。
あの子を妊娠しているのに気付いたのは、そんな時です。
その時、私は救われたと思ったんです。
私にはこの子がいるって。
自分自身の孤独から逃れるために、私はあの子を生みました。
私はずっと、小さなあの子に、彼の面影を重ねて生きてきました。それで満足でした。
…でも、この街から離れなかったのは、もしかしたら、いつか…彼があの子に会いに来るんじゃないかと、淡い期待を抱いていたからです。
…そんな日なんて、永遠に来ないのに……」
話し終わると、彼女は静かに目を伏せた。
「…まだ待ってんの、そいつのこと…?」
俺がそう聞くと、彼女は
「哀れな、女でしょう……?」
と、自嘲するように言った。
アーモンドのような美しい目が、悲しげに揺れる。
胸の奥が、ズキンと痛んだ。
…そんな顔、しないでくれよ。
頼むから…
「そんなこと、ない…」
「いいんです。……でも、もう潮時ですね…」
そう言うと、彼女はふっと小さく息を吐いた。
「母子 二人で生きていくのも、たやすくないですね。この間 倒れた時、実感したんです。もし私に何かあったら、あの子はどうなるんだろうって…急に怖くなってしまって…。
こちらには頼る親戚もいなくて…だから、大野さんやお母さんに、ご迷惑かけてしまいました。ごめんなさい…」
「…どうしてそんな、謝んの。俺がほんとに迷惑してると思ってんの?」
俺はあなたに、謝ってほしくなんてない。
自分のことを、哀れだなんて、思ってほしくない。
笑ってほしかった。
さくらとふたりで、ずっと笑っていてほしかった。
…ただ、俺は、守りたかったんだ。
「頼ればいいじゃん。俺のこと、もっと頼れよ!母ちゃんのことも、ほんとの親だと思ってくれればいい。
…さなえさんの過去がどうとか、さくらが誰の子だとか、それが何だってんだ。
さなえさんはさなえさんで、さくらはさくらだ。
俺はアンタたちだから、守りたかった。これからもずっと、守りたいと思ってる…!」
彼女の顔が苦しげに、歪んだ。
「そんな、優しいこと…、言わんといて……」
まるで泣くように、言葉をこぼした。
さなえさんは何かをこらえるように下を向いた。
小刻みに、細い肩が震える。
「…こんなに親切にしてもらっておいて、こんなお願いをするのは、失礼を承知です」
彼女はそう言うと、ゆっくりと顔を上げた。
「もう、さくらに会わないでやってもらえませんか…」
一瞬、息が止まる。
鉛を飲み込んだみたいに、重く、息苦しい。
…もう、さくらに会わないで……?
「なん…で……」
「…これ以上さくらを期待さないでやってほしいんです。
あの子は父親を知りません。父親からの愛情を知らずに育ちました。
…でも、あなたといたら、あの子は夢を見てしまうんです。あなたといたら、父親からの愛情を、望んでしまうんです」
「っ、俺は……!」
彼女は強く首を振り、俺の言葉を制した。
もうこれ以上、俺が何か言葉を発することを、彼女は強く拒んでいた。
「私たちはずっと二人で生きてきました。
これからも、ずっとそうです。二人で生きて行かなければ、ならないんです。
あの子を生んだことは後悔していません。あの子は、私の全てです。
…でも、私の身勝手であの子を生んだことは、私が一生背負っていかなればならない罪なんです」
「……………。」
「……あの子に父親ができることは、二度とありません」
ぐにゃり、と目の前の視界が歪んだ。
今まで目に見えていた世界が、背中から崩れ落ちていく。
でも、それはただの幻想でしかなくて、
最初からそんなものは、存在すらしていなかったんだ。
そして、今になって、ようやく気づく。
今日、彼女は 俺に、
「さよなら」を言いに来たんだと…。
「…本当に、ごめんなさい……」
そう言い残して、彼女は静かに去っていった。
目の前に残されたカップの中のコーヒーは、天井から垂れ下がる まるい灯りを映し出していた。
それは まるで、
暗黒の世界に浮かぶ、月のように見えた。
彼女の気配が消えた後も、
俺は、ただ ひとり 真っ暗な世界に取り残されたまま、
その場から動くことができなかった。
続く
妄想小説で、こんな悲しい物語を書いてしまう私を
お許しください…
でも、続きも読んでね