以前の記事で、イギリスに占領されたアボリジニーについて書きました。

この時、アボリジニー側の感覺だけではなく、侵略し虐殺の限りを尽くしたイギリス側の感覺も自分事として分かる、というような事を綴りました。

この事は侵略や虐殺の正当性や主張が分かるのではなく、仮に僕が当時のイギリス人として生まれていて、その侵略する人間の一人となっていたならば、もしかしたらアボリジニーを虐殺していたのではないか、という可能性の話になります。


僕は今年に入って、新たな職場に転職したんですね。
その職場に入って、僕の感覺としては色々と違和感がありました。
休み時間やそこに絡む給料などなど。

そして、僕は個人的意見としてその事に言及もしたんですよね。かなり自分の意見が正しいと思いながら。もっと素直に言えば、この職場の人達の無能さを馬鹿にしながら。

『なんで自分の休み時間を勝ち取らないんだ』
『自分の休み時間(命の時間)も整えられない、主張出來ない無能どもめ』
と心の奥底で強く思って。

今にして思うのですが、
その職場には何十年という歴史或いは文化というものがあり、そこに対する敬意が一切無かったな、と。

何十年という年月の中で組織を存続してきた事への敬意。そして、その年月の中で培われてきた文化に対するリスペクト。

僕の場合は、敬意はおろか興味関心すら払っておりませんでした。

その事がイギリスとアボリジニーの事に重なって見えたんです。

アボリジニーの虐殺。
イギリスの侵略。

僕が今の職場に対して持っていた意識と行動は、
今の職場への歴史や文化への敬意が一切なく、この事はイギリスが起こしたアボリジニーの虐殺や侵略の中身に他ならない、と。

自分の正当性のみに固執し、その事を正義として、一切の疑い無く、原住民(前からいる職員)への敬意も、国(組織)への敬意も無く、土足で踏み入り、命(歴史や文化)を虐殺する行為。

この事があって、僕はイギリスの感覺が分かったのではないか、という可能性を思いました。

敬意を払う時、そこには相手を認めるという事が必要だと思います。
その認めるとは、決して自分が下で相手が上という構図ではない、自分の感覺を抜いた【見止める(認める)】という事です。

その存在が在るという事実を見止める。
その思いが在るという事実を見止める。

ここに自分の主義主張や感情や思考を挟まず、ただただ事実をのみ見止めるという事です。
もし仮に、その事をした時に自分の主義主張や感情や思考が出てきたのなら、その自分の感覺をも客観的に見止める。
否定は要らない。肯定も要らない。
それが見止める(認める)という事です。

僕は認める事が出來ておりませんでした。
だから、敬意も払えませんでした。

認めない(見止めない)という事は何も考えず、何も思わずに生きている事と同じで、仮に僕が当時のイギリス人として生まれ、アボリジニーの前に立ったなら、国の言う事に、何も考えず、思わずに、ただアボリジニーを虐殺していた事を想像するのです。

認める(見止める)事の重要性と共に自分と向き合う事や自分を深掘りする事の重要性も痛感しました。

だから
僕は認めたい(見止めたい)。
認められたい(見止められたい)のではなく、
認めたい(見止めたい)。

僕自身を認め(見止め)るなら、間違いなく他者も世界も認められる(見止められる)と感じています。


↑白鳥が飛んでいるという事実を見止める。