”「毒親」→「親の恩を忘れるな」「反省して親に感謝しなさい」しか意味しない” | あ~どうしたものか

あ~どうしたものか

社会問題=PTSD現象。

“郷土なくして人生なし”
ということで[複合汚染]時代をサバイバル、平穏死を子々孫々繋いで生きましょう。

リブログ元記事から転載:
「毒親」という「医学用語」でも「裁判用語」でもない言葉を使えば、虐待されようが、性的虐待でレイプされようが、みのもんたあたりに「親に感謝しなさい」と言われて当然。 
児童虐待トラウマPTSD」以外の言葉を使うな。 

「トラウマ」だけだと「トラウマで遺伝病のうつ病・発達障害になる」「
お前が持って生まれた欠陥劣等遺伝子だけが悪いのであり、虐待した親は悪くない」になります。

「アダルトチルドレン」も「自殺もする精神医学概念のPTSDの認識以前の心理学用語」だから使うな。 

PTSDから逃げるためには、どんな手でも使うな愚民は。「向き合う(ラポール)」ために使え、力を。

PTSDから逃げる」(←PTSD否認を続ける)ためには、「どんな手でも使うな愚民は。」
「向き合う(ラポール)」ために使え、力を。

この2つは根本的に違います。

例を挙げますと、私事でアレですが、貸与奨学金という名の借金がかさんで「返還免除職に就けなかったら文部省の前の木で首を吊ってやる!」という先輩がいたので驚愕して、話を聞いて回ったら、本林(←阪大ではなく東大出身だった)先生が「そんなもの踏み倒せ〜」と仰ったので、そんなことしたらブラックリストに載って前途多難ではないか!このクソ親父!と思いました。悪いから言わなかったけど。
 このような時に「先生なんだから学生に親身になってください」という単なる願望が現実であるべきだという「我意を通すことを是とする姿勢」は役に立ちません。「貸与奨学金を返し切れないなら踏み倒せ」という先生もいるという事実を観察しておきましょう。
 そして「このクソ親父!」と感じるのは、私の内面の自由(←感性の自由)ですし、「悪いから言わなかった」のも私の主体的な判断で、「我意を通すことを是とする姿勢」はありません。
 感じたことを表現するか否か、表現するにしても如何なる表現にするか?…は、表現者である当人が決めます。意味なく「我意を通すことを是とする姿勢」に陥らないように《観察主体》を強化しましょう。
《観察主体》の説明図


皆さまも、お大事に。