”汚染水 決まらぬ処分法” | あ~どうしたものか

あ~どうしたものか

社会問題=PTSD現象。

“郷土なくして人生なし”
ということで[複合汚染]時代をサバイバル、平穏死を子々孫々繋いで生きましょう。

トリチウムは大した問題ではないと思って計画してしまったプラントを知らん顔して動かしたらダメでしょう…という話に飛び火すると嫌だから…
「大丈夫だと思いたい」ようで…

『トリチウムはどうなっているの? :放射線診療への疑問にお答えします』

https://ndrecovery.niph.go.jp/trustrad/tritium-2.html
無機物として宇宙線として降ってくるトリチウムは絶対量は結構ありますが空間密度は極めて小さいから、ラ・アーグやセラフィールド、六ヶ所村再処理施設のほうが少ないから大丈夫ということにはならないのです。「海洋放出で生命体に取り込まれたら?」という話にきちっと耳を傾けておくのは大事なことです。そこを誤魔化して《有機結合型トリチウム》のリスクはシーベルト換算すれば極わずかで、リスクの捉え方は主観=「気分の問題」と強弁しては困ります。

(誤)「リスク認知は主観による」
(正)「リスク認知は《観察主体》による」
これは、どういうことかと言うと、ベテラン科学者でも《観察主体》にダメージを受けてしまったら解離性不注意で重大なリスクを見落とすことがある…ということです。日本に於ける悲惨な実例は胎児水俣病を引き起こした有機水銀でしょう。


是非、リブログ元記事でご紹介のビデオを視聴して、市民の各人が健康な《観察主体》によるリスク認知を発揮してください。リスクの大きさは線量(←シーベルト換算)から客観的に推計できると強弁するガクシャさんは小学生からスルーされていますよ。

「健康な《観察主体》を維持しよう」
ということですから。


皆さまも、お大事に。