てざわりの記憶 -18ページ目

てざわりの記憶

目で、手で、耳で、時には舌で触れる日々の手触り。

その記憶。

自分の中の掃除をするためにいろいろな扉を開けていく作業を進めていくと、カギの掛かった扉の向う、まるでヘドロのように渦巻いていた怒り、恨み、憎しみ、寂しさ、妬み、絶望、恐怖たちと出会う。

押し込められ、無視されつづけてきたそれらの感情たちはめったに表に出る事はなかったけれど、それでもなくなる事も無くひっそりと心の深淵にありつづけ、時々溢れそうに膨れ上がりながらもそれを更なる圧力で封じ込められてきた。

・・・私は、彼らと仲直りしなくはいけない。

怒ること、恨み憎むことは、辛い。

寂しく妬むことは、どこからみてもやっぱり寂しい。

怖いこと、絶たれたことは、未治療のままほっておかれた今も痛む傷口だ。

それは、世界でたった一人、受け止めて癒す事の出来る「自分」に見捨てられ、ずっとずっと置き去りにされてきた過去たち。

でも、いざ彼らと接触すると、そのあまりの力に圧倒されてしまう。

人間は感情の生き物だと、いまさらのように思い知らされる。

自分の事が好きになれていない所を見ると、まだまだ彼らを引き受けきっていないようだ。


そんな日々の中、少しだけわかったこと。

時々、愚痴としてこの日記に書かれる、前の職場の上司の事。

「お前の父親になってあげる」と言ってくれた日から、私は彼に心酔した。

変わり者だったがその筋では有名な人だったし、無論仕事も出来た。

「○ー○○(彼が決めた私のニックネ-ム)の考えている事くらい、何だって解かる」とよく言ってくれたし、実際、沢山の事をわかってくれた。

普通に考えてみれば無論、他人の事を何もかも理解できるハズなどないし、その他人の父親になどなり得ないのだが、私は彼の言葉をあまりに真に受けすぎていた。

そういう意味では、彼は少々意地の悪い人だったと思う。

たとえ、私を喜ばそうと言ってくれた言葉だったとしても。

感情に素直な人(もしくは、そうであろうとした人)で、部下相手でも嫉妬したり、見栄を張ったり、自尊心の強さを見せつける人だった。

今思えば、私の彼に対するスタンスは単に上司と部下を超えたものだったように思う。

私は、彼の何気ない言葉をきっかけに、ありもしない幻想をかってに彼に抱いていた。

エピソードをあげていけばいくらでも恨みつらみは書けるけれど、静かに振り返ってみれば、当然感謝すべき事も沢山ある。

ただ、彼の持ち物は一つしかなく、例えて言うなら何にでも「ソース」をかけて調理しようとしていたのだとわかる。

相手がオムライスだろうがソバだろうが、そのたった一つのソースをふりかけて食べる。

不味ければ、食材の悪口を遠慮なく言った。

ただひとつ、彼は一流のソースであろうと努力をする人だった事は間違いない。

よく、「誰か俺を上手く使ってくれないかな」と言っていたのを思い出す。

結局、私という食材はソースには合わなかった、というただそれだけの事だったのだろう。

その事に気ガついてみれば、彼に対していろいろとあった感情は、さらりと溶けて流れていってしまった。

いずれ、私が抱え込んできたいろいろなことも流れていく日が来るだろう。

きっと、こんな風に。


・・・・もう、日記に彼の悪口を書く事はなくなりそうだ。

そして、それはもちろん、気分のいい事でもある。

先日、初めてのカウンセリング実技指導があった。

何をやるのか具体的にはわからないのだけれど、朝からどうにも緊張してしまう。

訳がわからなくなってチンプンカンプンなことを言い出さなければ良いのだけれど・・、と自分の事ながら心配になってしまった。

まだまだこの世界に入って(入ってもいないかな 笑)日の浅い私、むしろ気の利いた事なんて言えないのが当たり前なのだけれど、不安の先取りが大得意な私はもう朝からガチガチなのでした。


結果から言うと、とっても良かった。

なんだかへんな言い方だけど、とっても良かったのだ。

もちろん有意義だったし、勉強にもなったのだけれど、なんだかこの授業でカウンセリングを一回受けてしまったようなお得な気分だった。

なにをやったのかおおまかに言うと、まずはじめに自作の名刺を数枚作って、ランダムに名刺交換と自己紹介。

そのときに、お互いのことを肯定的に受け止めあうのがルール。

それが終わると、数人ずつのグループをつくって、一人づつ改めて自己紹介。

このとき、自分の肩書きや家庭環境なんかは話してはいけない。

自分がこんな人間である、と自分が知っている自分象を発表する。

そして、その発表に対して、他の人たちが質問をする。

そうして一周したあと、今度は一人づつに対して、その人の印象を皆が発表しつつまた一周する。

もちろんここでもお互いを肯定的に捕らえあう、というルールは健在だ。

このころになると不思議なもので、決められたルールとはいえお互いを尊重しあう空気が場に出来上がっていて、話すのが苦手な人も好きな人も、皆同じようなゆったりとした雰囲気で話ができるようになる。

だからといってもちろんこの場で私自身の悩みをぶちまけたわけではないけれど、なんというか、すごく軽い気持ちになれた。

一時的なものとはいえ、休息があればまた立ち上がっていけるもの。

心の休息、というのは取るのが意外に難しいくて、物理的な休日があったからといって(もちろんあったほうがいいのだけれど)必ずしも心が休まるとは限らない。

そう言う意味では、この日の授業は私にとってお得な、きっと私以外の人たちにとっても新鮮な出来事だったのではないか、とおもう。

この関係がカウンセラーとクライアントの間で結ばれたなら、ここが安全な場所であって、目の前に居る人がが安全な人である、と気持ちで理解できたなら、それだけでそのカウンセリングは大きな前進があったと言えるのかもしれない。

鑑みて自分が相談をしたときや相談を受けたとき、果たしてどうだったか。

頼りにされる事は嬉しく、それに答えようと「何かアドバイスを、解決に繋がるカギを」、「あたえてあげよう」などと不遜な事を考えていたような気ガする。

それでいて「私の言いたいことはいった、あとはあなた次第」なんて言いたい事を言って最終的には放り出していたような。

そんなわけだから、相談する時には、今度はなんだか自分がへりくだっているようだった。

なるほど、さすがに「カウンセラー」の名を冠する職業だけの事はある。

その技法は、そんじょそこらのお説教屋や自称癒し系とは訳が違うんだなあ、と反省しきりだった。

(失礼、あたりまえですね 笑)


昔、どうにもならなくなって精神科の門を叩いた日を思い出す。

カウンセリングをしてくれたわけではないけれど、急かさず、共感的に私の話を先生は聞いてくれた。

幾分落ち着いた私は、その事を職場の上司にも相談した。

上司の答えは、「お前は医者なんかの言葉と、俺の言葉とどっちを信じるんだ」だった。

要は上司の意見としては私がどうにも怠けているということだった。

正式にうつ状態の診断が下り、私は職場を去った。


みなさん、餅は餅屋ですよ(笑



ここ大分に移り住んでからよく言われることがあって、一つは「大分はいいところでしょう」というもので、もう一つは「東京の方がよかったでしょう」というもの。

前者は主に大分の人から、後者は東京の人から聞くことが多い。

私としてはどちらもYESであり、大分はいいところもあるし不便なところもあるし、東京もまた同じ。

そもそも比べる事が間違っていると思うのだ。

お寿司とステーキを比べたって意味が無いのと同じで、どちらが食べたいかなんてそのときの気分だ。

どうしたって東京がいい人間はだから東京に行けば良いのだし、その土地が好きならばそこにいれば良いのだし。

要はその土地らしさなのだとおもう。

もし大分が大都市を目指して、福岡や東京の真似ごとを始めたら一気につまらない土地になってしまうだろう。

質の低いコピー都市になど人々は興味を無くすだろうし、だったら東京や福岡に移り住めばいいのだから。

発展の意味を取り違えてはいけない、とおもう。

ますます大分らしくなることこそが発展なのだとおもう。

なので、そんなことは歯牙にもかけない金儲け主義の企業には注意しなければならない。

おかげで私の故郷、坂ノ市の街は壊滅してしまった。

そんなことにならないよう・・・。


行って来ました第一回産業カウンセラー養成講座。

ここ大分ではわりと受講生が少ないようなのだけれど、それでも全国では4千人超の人たちが今期の受講と試験合格を目指しているのだそう。

朝九時にスタ-トした初日の講義は、産業カウンセリングの成り立ちとその社会的意義などを中心としたものだった。

・・・・そう、春なのです。

ねむいのです(笑

気合が入っていないと言われれば返す言葉も無いのだが、不覚にもニ、三回ほどコックリときてしまった。

一番前の席だったこともあり、その様子をしっかりと見られてしまった。

先生が気を使ってくれて、予定に無かった休憩を入れてくれる始末・・・。

面目次第もゴザイマセン><

今回から少し講義や試験の内容が変わったとかで、去年よりも講義時間が延びたらしい。

就職するのもしてからも間違いなく大変な心理系の職業が、今とても人気らしい。

こういった方面はいささか苦手な日本だけれど、メンタルヘルスの重要性を多くの人が感じ始めていることなのだと思う。

資格者のレベルアップも含めて、今年から少し講義内容等が変わったのではないだろうか。


産業カウンセラーは普通のカウンセラーと少し違って、労働者をクライアントとする職業だ。

通常の悩み相談(フツウの悩みなんてものはないのだが)はもちろん、人事や労働環境などに関わっていかねばならない。

そのため、多くの機関との連携が重要になってくる。

ただでさえ企業、カウンセリングにも効率が求められてくる。

その回数は3回を原則とし、それ以上かかるようなら速やかに外部機関へとその処置を委ねる。

より上級の専門カウンセラー、精神科医、悩みの内容によっては児童相談所、婦人相談所、弁護士、調停員、等々。

組合があれば、そことの連携も重要だ。

実に多岐にわたる知識を求められる事になる。

そうなった時にカウンセラー自身が抱え込まず、専門機関と情報のやり取りを惜しまず、臨機応変に対処していかなければならない。

・・・・とまあ全部受け売りなわけなのだけれど、学ぶ事は多く、道は険しそうだ。

ま、ちょっとくらい大変なほうがこちらとしてもやりがいがあるというものだ!

これが楽に受かるようなら、私自身がカウンセラーに対しての信用をなくしてしまうというもの。

よ~し、いっちょこい!わっはっは!である。

・・・・少なくとも次の講義ではコックリこないようにせねば・・・。

そんな言葉に、世界中の(凄い)野球バカがあつまった。

それほど熱心というわけではなく、ほどほどに野球が好きな私なのだけれど今回のWRCは本当に楽しめた。

130余試合を闘うシ-ズンももちろん面白いのだけれど、やり直しの効かない一発勝負の連続、という高校野球にも似たこの緊張感はたまらない。

大の大人が、それもプロの面々が一球に泣き一発に踊り、悔しさも喜びも全開にして挑んだ。

日本戦のみならず他国同士の戦いも十分に面白く、この最高の舞台を全ての選手が楽しんでいた。

準決勝の試合の解説だった大魔人こと佐々木投手も、アナウンサ―から「もしこの大会が4年前にあったなら、ここで押さえに登板したのは間違いなく大魔人、佐々木さんでしたよね」と言われ、しみじみと「もう、大喜びででたでしょうね」と語った。

同じように考える元野球人の方々は多いことだろう。

イチロ―の言葉でもあったけれど、今、このタイミングで現役で野球をやっている、ということはまさに運命だったのだろう。

だが、この今を迎えるために、過去の野球人たちの、語られる事の無い数え切れない人たちの奮闘があったのだとおもう。

道具をつくる人、グラウンドをつくる人、整備する人、報道する人、ファン、街角の野球用品販売店、あらゆるチ-ムのプレイヤ―、監督コ-チ、審判、選手の家族、等々・・・。

そう言った全ての人たちに捧げられるべき勝利だとおもう。

いろいろな国の人々が、多くのものを背負って挑んだ大会。

でも、人種のしがらみも、国の期待も、グラウンドの中にまでは彼らを追っては来れない。

全てから解き放たれて、ひたすらに白球を追いかけた彼らの姿はとても美しかった。

早くも次の大会が楽しみだ。