NHKの深夜放送で、夜回り先生のスペシャルを見た。
う~ん、すごい人だ。
ここ半年カウンセリングの勉強をしてきた私なのだけれど、「強い苦しみを今、この場で訴えている人に対して言えること」というのを改めて考えさせられた。
夜回り先生こと水谷氏の発言は、子供に対する愛と過去の経験に裏打ちされたとても力強いものだ。
ともすれば誤解を招きそうな強い口調で話す時もあり、それに対する批判もあるようだが、それを判断するのはあくまで相手の子供であって我々外野ではない。
彼に救われた、または裏切られたと感じた多くの子供たちだけが、その答えを知っているのだろう。
それにしても「規格外」な人だ。
まっとうなやりかた、と言うものがあるのだとすれば、それからはきっと大きく外れた人だといえる。
そしてその行動は、私のような弱気な大人の心にグサリと突き刺さるものだ。
ほんとうは、そうしたほうがいいだろうことは知っている。
でも、そんなことはできないし、やるパワーも勇気も無い。
だが口では教育を批判し、学校に文句を言う。
あげく、神のように水谷氏を祭って自分とはかけ離れた「超人」に仕立て上げて安心するか、自分が行動できない理由を環境や社会に求めて、いいわけじみた批判を繰り返す。
最悪は、彼に救われた子供のことも含めて「やっかいなひとたち」と言うカテゴリーにおいやってしまうことだ。
さすがにそこまではいっていないけれど。(ホントだよw
どう向き合うべき問題なのか。
傷ついた子供は、無論救われるべきである。
ではなぜ、傷ついた子供は生まれてしまうのだろう。
わかりやすい例だと、「傷ついたまま癒されなかった親」に育てられた、というケ-スだろうか。
愛し方がわからない。
これしか子供の育て方を知らない。
自分が受けた悲劇を繰り返してしまうパタ-ンだ。
もっとひどいことになると、自分の子供時代の復讐を我が子にしてしまう事もある。
自分の子供がねたましいのだ。
だが、これはまだ理由としては理論的で解かりやすい。(まし、と言う意味ではもちろんない)
最近よく耳にするキ-ワ-ド「普通の子」。
大きな事件を起してしまった子供に対して、近所の人も学校も首をひねる。
「普通の子でしたよ」もしくは、「いい子でしたよ」という。
原因がわからないのだ。
夜回り先生いわく、「元気のある子は夜の町に出て行く。だけど、優しい子供は不良になることも、他人をいじめることも出来ずに、たった一人自らを傷つける」。
いじめられたこと、性的虐待をうけたこと、成績の事、先生の事、家族の事。
誰にも言えず、一人思い悩む。
やがて限界を迎えたとき、外に向かえばそれは家庭内暴力となり、内に向かえば自傷、最後まで自分を責めれば、最悪の自殺が待っている。
先日自殺した中学生の少女の遺書に、「よかったね、これでお荷物がいなくなるよ」という一文があったことは印象深い。
彼女は、自分をいじめた人へのあてこすりとしてこの一文を書いたのだろうか?
私には、そうとはおもえないのだが・・・・。
自ら街の、やがて心の闇へと足を踏み入れていった夜回り先生。
そんな「がけっぷちの夜」に佇む子供たちにとって、彼と繋がるメ-ルや電話は、たった一つ遠くに灯る明かりであったろう。
ああ、こんな私の夜にも「夜回り先生」が来てくれた、と。
あれは、幻じゃなかったんだ、と。
短い言葉で、彼は生きることを説く。
今はいきているだけでいい。
明日は来る。
明日さえくれば、昨日とは違う何かがあるかもしれない。
朝日を見、鳥の声を聞け。
美しいものにふれなさい。
求めるばかりではいけない。
やさしさを、自分から。
そうして帰ってきたものが、必ず君の生きる希望になる。
そうして切れかかっていたいのちが、ほそい糸ひとつ残してふんばる。
せめて今日の、朝日を見るために。
そんな事実に比べれば、「正しい批判」なんぞどうでもいいことなのだ。
「隠さず痛みを訴えなさい。手首も人の前で切りなさい。きっと、助けてくれる大人がいる」
そういわれちゃあこっちだって、少なくとも「なにもしてくれない大人」の仲間入りはゴメンだ、と言わざるを得ない。