てざわりの記憶 -14ページ目

てざわりの記憶

目で、手で、耳で、時には舌で触れる日々の手触り。

その記憶。

近いどころか12月いっぴに千葉必着なんですけれどね(笑

今現在もあわててやってる放送大学学生の皆様、こんばんは!

30日に翌朝十時便でまとめて出す予定のaxhighです(笑

まあ、マ-クシ-ト方式の課題の方はそんなに難しいということはないのですが、問題はやはり記述式ですね。

よほどズレていない限り落第は少ないかもしれませんが、逆にある程度の点数を取ろうと思ったらなかなかに悩みます。

書いてみると意外に少ない文字数、その中でいかにまとめていくか・・・・。

おっと、斯く言う私も時間がないのです!

ではサラバ!


はい、ダメでした(笑

試験に落ちたわけではないと思いつつも、残念な結果です。

これで受験費用は一気に増加、大分から福岡までニ往復しなくてはならなくなったわけです。

まあ、そもそも自分のカウンセリング能力に絶対な自信があったわけではないので、再び勉強しなおして、しっかりと専門家に見直してもらうという機会が与えられたのは今後の自分にプラスになるに違いない、なんて思い直して頑張るしかないなあ。


逆境上等!



NHKの深夜放送で、夜回り先生のスペシャルを見た。

う~ん、すごい人だ。

ここ半年カウンセリングの勉強をしてきた私なのだけれど、「強い苦しみを今、この場で訴えている人に対して言えること」というのを改めて考えさせられた。

夜回り先生こと水谷氏の発言は、子供に対する愛と過去の経験に裏打ちされたとても力強いものだ。

ともすれば誤解を招きそうな強い口調で話す時もあり、それに対する批判もあるようだが、それを判断するのはあくまで相手の子供であって我々外野ではない。

彼に救われた、または裏切られたと感じた多くの子供たちだけが、その答えを知っているのだろう。

それにしても「規格外」な人だ。

まっとうなやりかた、と言うものがあるのだとすれば、それからはきっと大きく外れた人だといえる。

そしてその行動は、私のような弱気な大人の心にグサリと突き刺さるものだ。


ほんとうは、そうしたほうがいいだろうことは知っている。

でも、そんなことはできないし、やるパワーも勇気も無い。

だが口では教育を批判し、学校に文句を言う。

あげく、神のように水谷氏を祭って自分とはかけ離れた「超人」に仕立て上げて安心するか、自分が行動できない理由を環境や社会に求めて、いいわけじみた批判を繰り返す。

最悪は、彼に救われた子供のことも含めて「やっかいなひとたち」と言うカテゴリーにおいやってしまうことだ。

さすがにそこまではいっていないけれど。(ホントだよw


どう向き合うべき問題なのか。

傷ついた子供は、無論救われるべきである。

ではなぜ、傷ついた子供は生まれてしまうのだろう。

わかりやすい例だと、「傷ついたまま癒されなかった親」に育てられた、というケ-スだろうか。

愛し方がわからない。

これしか子供の育て方を知らない。

自分が受けた悲劇を繰り返してしまうパタ-ンだ。

もっとひどいことになると、自分の子供時代の復讐を我が子にしてしまう事もある。

自分の子供がねたましいのだ。

だが、これはまだ理由としては理論的で解かりやすい。(まし、と言う意味ではもちろんない)

最近よく耳にするキ-ワ-ド「普通の子」。

大きな事件を起してしまった子供に対して、近所の人も学校も首をひねる。

「普通の子でしたよ」もしくは、「いい子でしたよ」という。

原因がわからないのだ。


夜回り先生いわく、「元気のある子は夜の町に出て行く。だけど、優しい子供は不良になることも、他人をいじめることも出来ずに、たった一人自らを傷つける」。


いじめられたこと、性的虐待をうけたこと、成績の事、先生の事、家族の事。

誰にも言えず、一人思い悩む。

やがて限界を迎えたとき、外に向かえばそれは家庭内暴力となり、内に向かえば自傷、最後まで自分を責めれば、最悪の自殺が待っている。

先日自殺した中学生の少女の遺書に、「よかったね、これでお荷物がいなくなるよ」という一文があったことは印象深い。

彼女は、自分をいじめた人へのあてこすりとしてこの一文を書いたのだろうか?

私には、そうとはおもえないのだが・・・・。


自ら街の、やがて心の闇へと足を踏み入れていった夜回り先生。

そんな「がけっぷちの夜」に佇む子供たちにとって、彼と繋がるメ-ルや電話は、たった一つ遠くに灯る明かりであったろう。

ああ、こんな私の夜にも「夜回り先生」が来てくれた、と。

あれは、幻じゃなかったんだ、と。


短い言葉で、彼は生きることを説く。

今はいきているだけでいい。

明日は来る。

明日さえくれば、昨日とは違う何かがあるかもしれない。

朝日を見、鳥の声を聞け。

美しいものにふれなさい。

求めるばかりではいけない。

やさしさを、自分から。

そうして帰ってきたものが、必ず君の生きる希望になる。


そうして切れかかっていたいのちが、ほそい糸ひとつ残してふんばる。

せめて今日の、朝日を見るために。


そんな事実に比べれば、「正しい批判」なんぞどうでもいいことなのだ。

「隠さず痛みを訴えなさい。手首も人の前で切りなさい。きっと、助けてくれる大人がいる」

そういわれちゃあこっちだって、少なくとも「なにもしてくれない大人」の仲間入りはゴメンだ、と言わざるを得ない。



前々からやろうと思っていて先延ばしになってきたものがいくつか・・・・否、たくさんあるわけだが、良い季節になった事でもあるしここは一つアウトドアだ!と思いたった。

もともとキャンプ願望が強かった事もあり、いそいそとアウトドア専門店へ足を運んでみた。

う~ん。

やっぱり本物と言うのは、それなりのお値段がするものである。

キャンプはまたも先延ばし。

コツコツと道具を集めていこうと思う。

さて、ではどうしよう?

トレッキングやウォ-キングもあるけれど、もう一つ何か面白みがあるものはないかしらん。

と、ぐるぐるぐるぐる考えた挙句思いついた。

「そうだ!オリエンテ-リングをやろう!」

子供の頃、少年自然の家などでやったあのオリエンテ-リング。

あれなら、楽しく歩く事ができるに違いない!

早速、ネットで調べたり本を読んでみたりとリサ-チを開始。

そこで解かった事がいくつかある。

まずは、「オリエンテ-リング、そんなに甘いモンじゃねえぞコラ!」ということだ。

うっすらと解かってはいたものの、子供の時分にやったアレは、本来のル-ルからは離れた形の「レクリエ-ション」に過ぎなかったのだ。

本物は凄い。まさにレ-スである。

基礎体力はもちろん、チ-ムワ-ク、地図読み能力、地形把握能力、プランニングセンス、危機管理能力、それら経験に裏打ちされたカン。

それらを駆使して野山を駆け抜ける、それはサバイバルレ-スであった。

う~ん、なおさらワクワクしてくるじゃないありませんか。

それともうひとつ。

地方に常設されているオリエンテ-リングコ-ス、それが通常「パ-マネントコ-ス」。

管理のための助成金が出ていたのだが、これがずいぶん前に打ち切られているらしい。

検索の結果、大分のコ-スはどれも「廃止」か「整備不良」になってしまっている。

あうう、淋しいなあ。

となると一番近いのは・・・高千穂!?

こまった・・・。

あ、そうだ。

一番最初に思い出した、少年自然の家のコ-スならどうだろう?

あそこなら定期的に学校なんかが利用しているし、ちゃんとあるんじゃないかな!

早速しらべて、国東半島の北端にある「香々地少年自然の家」に電話をしてみた。

「本来は、宿泊した団体が利用する形になるものではありますが」と言いつつ、上の者と相談してみます、とのこと。

う~ん、いいひとだ!

暫くして、担当のHさんが電話をかけてきてくれた。

「団体ではなく個人的にコ-スを周ってみたい、ということなのですけれど・・・」

断られてダメもとだ。

「当日はこちらも仕事がありまして、係りのものをつける事が出来ないのですが、それでも宜しかったら」とのこと。

いえいえ、係りの者なんてもったいない。もちろん大喜びで申し込んだ。

すばらしい、私のアウトドアライフの出だしは上々である。


ただ一人、突然「オリエンテ-リングいこうよ!」と引っ張り出された友人のK氏のポカンとした顔をのぞいて。


田舎に住んでいると、たっぷり一年かけて「お米が出来るまで」を見ることが出来る。

季節はまさに収獲の秋。

先日、契約している農家に(こうかくと大げさだけれど、ぜんぜんご近所さんなのです)に一年分のお米を取りに行った。

新米の匂いに満ちた納屋の空気はなんだか純粋で単純なしあわせに満ちていて、とてもすがすがしい気分だ。

この時期に合わせて、そこここの神社でお祭りが開かれるのもうなづける。

良かろうが悪かろうが、この一年の成果を持って、来年一年を生き抜いていく。

そんなシンプルなライフスタイルの喜びが、この一表につまっているのだ。

精米機にかければ、さらににおい立つ豊穣のかおり。

本日、今年の新米をありがたく頂きました。


・・・こらそ~と~うめえ!


以上!