本日、ネット環境が復活いたしました。
これでまた、ブログの方も更新していけます。
私の実家は、後ろは山、前には海、まわりには田んぼがたくさん。
そう、なんだってあるのだ。
家に居たくない時は、ふらりと山に入って誰も居ない小さな神社で本を読んだり、(無論、携帯なんて届かない!)海岸通りを散歩したり、川に沿ってふらふら歩いてみたり。
弟が暇なときは、ドライブにでかけたりもする。
「水を汲みに行こう!」なんて言いだしては、山奥の湧き水を巡ったりするのだ。
やっぱり自然はいい。綺麗な空気を吸うと人心地がつく。
水道の水も美味しいし、昔見た星も夕日も、私の想いなどそ知らぬ顔で、変わらずそこにあった。
故郷は場所ではない、人だ。
と私はずっと思っていて、現に東京に居たころに田舎の友人が遊びに来ると、私はすっかり懐かしい空気に包まれた気分だった。
それでもこうして、かつて私を取り巻いていたものたちと再会すると、どうしたってふわり、と心を包まれてしまう。
考えてみればそれらは、人間達の中に居場所を見出せなかったころの私の「避難所」だったのだと思う。
星も夕日も、私の存在などとは何も関係の無いもの。
たった今私が死んだとしても、何も変わらず明日も在りつづけるもの。
その事が何だか無性にたのもしくて、つかの間の安心をそこで手に入れていた。
自分の癒しに着手すると、いろいろな思い出がよみがえってくる。
つい先日、ずっと昔の謎が一つ解けたので、そのことでも。
幼稚園のころ、私にはたった一人友人が居た。
彼は「ちょこちょこくん」と言う名前で、それは私の右手だった。
人差し指と中指ですっくと立ち上がり、机の上や椅子の周りを大冒険するのだ。
空を飛ぶ事は出来ないが、足(?)をぱたぱたと動かす事で、高いところからゆっくりと降りる事が出来る。
彼がピンチになると私本体がやってきて、彼が閉じ込められたり、動けなかったりするような事体に対して力を発揮して、それを解決する。
幼稚園の先生など、この奇行が心配のあまり家に相談に来たほどだった。
その一人遊びの謎が、先日とけた。
「ちょこちょこ君」は、友人などではなかった。
彼は私自身の在り方、その願望そのものだったのだ。
言うまでも無く右手は右腕につながっていて、手の先が如何に大冒険をしようともその事で危険な目にあうことなど(落としたり無くなったり)ない。
さらにピンチになると、今まで何も口を出さなかった本体がやってきて、それを救ってくれるのだ。
つまり私は、安心して冒険がしたかった、と言うことなのだろう。
私自身が親代わりになって「ちょこちょこ君」を見つめ、見守り、本当に危ない時には助けに行く。
子供である「ちょこちょこ君」は安心して無邪気に遊びまわり、時々わざと危ない目に会って、親を試してみたりもする。
私と親との間に無かった関係を、一人芝居で再現していたのだ。
私は今、そのころの自分と一緒に遊ぼうと懸命になっている。
なかなかこっちを向いてくれないし、近づくと怯えるので上手くいかないけれど、これには時間が必要なのだ。
まったく、子を持つ親の苦労が偲ばれる(笑