個別具体的に考えていくブログ
Amebaでブログを始めよう!
学校は、戦時でも、戦場でもなかった。教科書の後ろ三分の一は応用問題だった。生徒たちはそれを解くのを楽しんだ。最後の半分、生徒たちはまだ取り組んでいたが、やや飽き始めていた。本来ならそこでやめるべきであったが、この試みに悪影響をにあたえはしなかった。生徒たちは、リラックスし、教師や手助けしてくれている人とのおしゃべりを楽しんでいた。この個人教授が教師たちに証明したことは、生徒たちは、落第点がつかず十分な手助けが得られる意味ある状況では、勉強をする試みがあるということだった。これからの問題は、同じようなやり方をどのようにして、実行できるかということであった。しかし、何か大きなことをする土台はできたと思う。そして放課後、教師と一対一の会話を続けた。さらに多くの教師が来た。彼女は、教師たちに繰り返し、いちばん欲しいと思っているものは何か尋ねた。教師たちは、少人数のクラスと妨害する生徒のいないクラスが欲しいと言った。妨害する生徒は、ほとんとが年のいった生徒だった。そういう生徒が何人かいた。
年齢についての考え方


書道などの美術書を専門に出版していたところから自動車専門誌を創刊することになる。創刊メンバーには、同じくモーターマガジンの編集部員がいた。モーターマガジンの編集方針とは合わず、とび出し「新しい雑誌をつくりましょう」ということになったようだ。ここに初めて自動車を紹介するのではなく評論する雑誌が生まれたといわれている。当時、モータージャーナリストなんて言葉もなかったし、職業として成立するかどうかもわからなかった。それに新聞社にいても車の記事は書けた。実際に、自動車の記事のスペースをもらって書いていた。当時、車を持っているのは芸能人などの有名人が多かった。そこで「なぜ、あなたはこういう自動車を持っているのでしょうか」と有名人に聞く企画がすんなり成立し、写真撮影も含めてすべてやることになった。おまけに新車が出ると、経済記事でその自動車会社の株はどうなるか、サプライヤーの株の動きは、ということなどを、一般の人にもわかりやすく解説するなんてこともやっていた。東京新聞に籍を置きながら、いくつかの自動車雑誌にも記事を書き飛ばし、写真も撮っていたから、本当に忙しく充実していた。