俺が見た夢の話をしよう。
寝苦しい夜、どこか狭間のようなところに意識が嵌り込んでしまったような、そんな感覚だった。だから夢と言えるのかどうか、よく分からない。
妙に現実感のある夢だった。見るものも、触れるものも、匂いまでもが鮮明だった。そこは森の入口のようなところで、鬱蒼とした木々が生い茂り、ひんやりとした土と苔の匂いが鼻孔を刺激した。足を踏み入れていいのかどうか、俺は躊躇した。背後を振り返るとそこは何もない白い空間で、森を通り抜けるしか進む道はないと判断した。
薄暗く、肌寒いくらいの森の中を、行く手を阻む木々をかき分けながら、俺は歩いた。
どのくらい歩いただろうか。気が遠くなるほど長い距離だったような気もするし、一瞬でたどり着いたような気もする。やがて急に視界が明るくなり、唐突に森は終わった。
気づけば俺は木漏れ日を浴びながら空を見上げていた。桜の大木の幹のそばに、俺は立っている。木漏れ日が揺れて、あたりに不安定な幾何学模様を映し出していた。恐る恐る足を踏み出すと、白く放射状に広がった渡り廊下が見えた。渡り廊下には雨よけの屋根がついていて、年月に風化させられところどころが朽ちて剥がれ落ちていた。飴色の破片が白いタイルの上に落ちているのを見て、俺は胸がざわつくのを感じた。
ふとどこからか、子供の泣き声のようなものが聞こえた。俺は首をめぐらした。目に入るのは、色褪せた紫陽花と掃除用具を乗せたリヤカー、夏草と苔が這いつくばるように続く地面に、狂おしいほど深く遠い夏の青空だけだ。俺は耳をそばだてた。本当にかすかな声だったけれど、子供らしき声は確実に聞こえてくる。俺はどこから聞こえてくるのかとあたりを歩き回ったが、探そうとすればするほど分からなくなってしまう。
まるでかくれんぼをしているような、そんな感覚だった。
やがて俺は、先ほど自分が立っていた桜の大木の下に、少女の姿を見た。10歳くらいの、淡いピンクのパジャマを来た人間の女の子だ。悲しそうな瞳で俺の方を見ている。それはまるで、何かを訴えているような表情だった。
俺が少女の方に向かって一歩踏み出したその時、強い風が吹いた。俺は一瞬、顔を背けた。再び桜の木の下に目を向けた時には、もう少女はいなかった。
俺は思わず駆け寄った。少女がいたはずの地面の上には、子供の手のひらにすっぽりと収まりそうな程の小さな懐中時計が落ちていた。
俺はそれを拾い上げ、ぐっと左手に握り締めた。
たぶん、いやきっと、あの子は俺を呼んでいる。俺に何かを、訴えようとしている。
あの子は俺に、見つけて欲しいと思っているのだと、何故かそう確信した。
遠く、時々近く、少女の声が聞こえた。俺はその声に導かれるように、放射状に伸びる渡り廊下の一つを、奥へと歩き始めた。むせ返るような草いきれの匂いと、横から照りつける西日の熱に包まれ朦朧となる。廊下は延々と続き、視線の先には逃げ水のような揺らぎが見え隠れする。廊下の白いタイルはところどころ端が欠け、煙草の吸殻や脱脂綿のようなものが詰まっていたりした。そして草いきれの匂いに混じって、時々消毒剤クレゾールの鼻を突く時代錯誤的な匂いが漂い始めた。俺はじっとりと汗ばみ、激しい喉の渇きを自覚しつつ歩いた。
いつの間にか西日が陰っていた。ふと見上げると太陽を遮る位置に、3階建ての薄い緑色をした建物が見えた。少女の泣き声はいつの間にか止んでいて、建物の一室から俺を見下ろす視線を感じた。ベランダの物干し竿には古ぼけたシーツのような布がかけられており、風ではたはたとはためいている。そしてその奥にある閉ざされた窓の向こう側に、あの少女が顔を覗かせているのが見えた。俺は廊下のつきあたりにある建物の入り口のドアに歩み寄った。ドアノブに手をかけ、静かに回す。鍵はかかっておらず、カチャッと小さな音がしてノブは回った。静かにノブを引いてドアを開けると、ギギギギギギ・・・と蝶番が軋む音が響いた。薄暗い建物の中に足を踏み入れると、そこは外とは比べものにならないくらいひんやりと冷え切っていた。汗が一瞬にして引いていくのがわかる。俺は思わず身震いした。
そして建物の奥へゆっくりと進んでいくと、徐々にクレゾールのにおいが強くなっていくのを感じた。廊下にはうっすらと埃が積もっていて、俺が一歩進むごとに足跡がくっきりと残った。人の気配はなく、ただツンとする強いにおいが鼻を突く。突き当たりを曲がると右手に階段があり、少女がいた3階へと通じていた。俺は階段を一気に駆け上がった。
階段を登り切った正面にはカウンターがあり、その奥がガラス張りになっていて中が見えた。カウンターの上に据え付けられている埃をかぶった表示板をよく見ると、うっすらと「看護婦詰所」と書かれているのがわかった。汚れてくすんだガラス張りの向こうの部屋に目を凝らすと、使われなくなって久しい元は銀色だったと思われる器械類の乗ったワゴンや、壁にはやはり銀色をした棚の中に、ガーゼとか脱脂綿とか点滴のガラスボトルなんかが収められているのが見えた。そして壁には個人名の書かれたフックの下に、防毒マスクのようなものがいくつも並べてかけられているのが見えた。
俺は理解した。ここはかつて結核病棟として使われていた建物だ。今では使われない消毒のにおいや、器械類の数々、そしてマスクの存在がそれを物語っていた。俺が何故そんなことを瞬時に理解したかはわからない。もちろん医療の知識なんて、これっぽっちもないはずだ。なのにその時の俺は、そのことをすぐに理解した。
「看護婦詰所」と書かれていた部屋は廊下の突き当たりにあった。俺はそこから続く長い廊下の方に向き直った。両側に病室のようなものが並んでいるのが、部屋番号を示すプレートでわかった。俺は少女がいたはずの部屋を探して廊下を歩いた。
やがてベランダに白い布が干されている部屋の前までやってきた。少女がいたのはこの部屋だ。俺は半開きになっている扉を右手で押し開けて、334号室と記された部屋の中に入った。
ベッドが4つ据え付けられている部屋だった。そのどれにも上から埃除けと思われるシーツがかけられていた。天井からは点滴を吊るす棒が下がっており、俺は危うく頭をぶつけそうになった。やがて窓際にある左側のベッドの前で、俺の足は止まった。
ここだ。
あの少女はここにいたんだ。
ベッドの頭側の部分と壁との間の隙間には、日に焼けて色の飛んでしまったクマのぬいぐるみが置かれていた。耳と耳の間にうっすらと蜘蛛の巣がかかっている。そしてベッド脇の台の上には少女のものと思しき生活用品が並べられていた。
俺は胸の中がざわつくのを感じながら、ベッドの脇に置かれている椅子に目を遣った。座面が破れ中のウレタンが少しはみ出してしまった古ぼけたパイプ椅子だった。その椅子の上にもやはりまんべんなくうっすらと埃が積もっていたが、一ヶ所だけ座面の元の色がはっきりとわかる箇所があった。直径3cm程度の円形に抜けた部分だけ、埃が積もっていなかったのだ。たった今の今まで、そこに何かが置かれていて、誰かがその何かを取り除いてできたかのような、そんな不自然な形だった。
気づいたら俺は、それまで無意識に固く握り締めていた左手を開いていた。手のひらの上には、少女が佇んでいたあの桜の大木の根元に落ちていた、小さな懐中時計があった。