しばらく間があいてしまいましたが、今回はコーヒーのお話をお休みにして、粟崎遊園の閉園について北國新聞を元にまとめていきたいと思います。

 高室信一の「粟崎遊園物語」では「オリンピック観光博覧会を最後のエベントとして、その年の秋、旧粟崎遊園の建造物は、処分のため売りに出された。」とあります。また「粟ヶ崎遊園資料集 砂丘に咲いた夢と浪漫」に掲載されている年表によると

1943年(昭和18年)8月31日に最後の公演が行われる。

1944年(昭和19年)粟ヶ崎遊園の施設が陸軍の仮兵舎など多目的に使用される。

同年3月29日に日本タイプライターの疎開工場に転用される。

1945年(昭和20年)10月1日浅野川電気鉄道が北陸鉄道と合併。

1951 年(昭和26年)4月粟ケ崎遊園の施設を利用し、オリンピック観光博覧会が開催される。その後、処分のため施設が売却される。

とあります。

 粟崎遊園は現在残っている資料では1943年(昭和18年)8月31日を最後に閉館したとなっています。太平洋戦争中でも遊園は春から夏の時期だけオープンしていたので、当時は来年もまた開園する予定だったようです。次第に厳しくなる戦局に対応して翌年1944年(昭和19年)2月29日に政府が「決戦非常措置要網」を閣議決定。その後に発表された「高級享楽停止ニ関スル具体策要網」では高級料理店・飲食・接待業の休業・転廃、劇場や映画館の閉鎖と従業員の時局産業への転業を推奨され、転廃業者への経済的支援も打ち出しました。そして、実際に東京の劇場では歌舞伎座、東京劇場、新橋演舞場、東京宝塚劇場、帝国座、明治座、国際劇場、日本劇場、大阪では北野劇場、中座、角座、梅田映画劇場、宝塚市の宝塚大劇場などが指定され、実際に閉鎖されることとなりました。一部劇場はその後再開されることにはなったのですが、国際劇場や日本劇場は風船爆弾の製造工場となったり、公会堂や官庁舎などに転用されることとなりました。

 粟崎遊園がそれらの決定によって閉鎖されたという資料は今のところ見つけられていないのですが、1944年に粟崎遊園は軍の兵舎として利用され敷地も訓練場とされたり、その後日本タイプライターの疎開工場として使用された事からわかるように、やむなく休業、施設の引き渡しをしたのだろうと想像します。また、戦争が長引くにつれて俳優や楽団、スタッフらも徴収されるなどして人材不足となり、本土空襲の本格化によって金沢市も空襲の恐れがあり集客も難しく、運営としても厳しかっのだろうと思います。ちなみに東京のムーラン・ルージュ新宿座は終戦間近まで公演を続けていて、公演中に空襲警報が出たら観客、俳優、スタッフ皆で防空壕に逃げ込み、警報が解除されたら公演を続けたという逸話もあります。

 涛々園は以前のブログに書いたように1943年(昭和18年)10月に金石電気鉄道が北陸鉄道に吸収合併された時に不二越に売却されています。

 

 粟崎遊園は終戦後も日本タイプライターの金沢工場として使用されていたようで、1946年(昭和21年)5月28日の北國新聞に工員募集の広告が掲載されており、住所も金沢市外向粟ケ崎(旧粟ケ崎遊園地)となっています。

 日本タイプライター株式会社は1917年(昭和6年)に設立された会社で、漢字も打てる実用的な和文タイプライターを発明した杉本京太氏が創立しました。彼は岡山県生まれ、大阪市電信技術者養成所卒の発明家であり、日本政府によって1985年(昭和60年)に「日本の十大発明家」として選ばれています。彼は小型のトーキー映写機も発明しています。現在、日本タイプライター株式会社はキヤノンセミコンダクターエクィップメント株式会社と社名を変更していて、半導体露光装置、FA機器装置、エアベアリンなどの開発・製造を行なっています。タイプライターから創業を始め、今では工業生産現場の根幹を支える産業機械の生産を担っています。

 

↑北國新聞 昭和26年 9月8日4面より / 国会図書館 所蔵

 

 その後はしばらく日本タイプライターの工場として使用されたようです。そしてこれも以前ブログで紹介しましたが、1951年(昭和26年)4月10日〜5月30日までは粟崎遊園の施設はオリンピック観光博の会場として使用されました。

 

 
 しかし、オリンピック観光博終了後のおよそ3ヶ月後、1951年9月8日の北國新聞には「粟ケ崎遊園地身売り 復活の望みなく、分解して」という記事が掲載されています。その記事によると「平沢翁の死後、経営不振に陥り、戦争とともに昭和十六年休業閉鎖され、昭和十九年日本タイプライター会社の疎開工場に転身」とあり、この時の所有者は石川郡鳥越村藤田与次郎氏となっており、「資金難から遊園地復活の望みを捨てて、近く建物の分解売却をおこなうこととなったものである。」とあります。ここでは昭和16年休業閉鎖と書かれていますが、実質的な閉園は昭和18年なので、事実誤認であり、長らく粟崎遊園の休園が昭和16年とされていたのはこの記事が元なのかも知れません。藤田与次郎氏も遊園の復活を計画していたようですが思うように資金が集まらなかったのか、断念して建物の売却を決意したようです。その後本館は金沢市藤花学園の藤花会館となるなど移築、解体されました。

 戦後復活していた涛々園は1951年6月に金沢市堅町市議須田太吉氏に売却されましたが、同年11月から経営不振に陥っています。そして翌年の1952年4月30日の北國新聞に「身売りする涛々園 行楽シーズン前に経営難で取壊し」という記事が掲載され、粟崎遊園と同じように建物は売却されました。

 ほぼ同時期に粟崎遊園も涛々園も完全に解体されてしまったのは象徴的な感じがします。そして、気になるのは1952年5月26日の北國新聞の記事に北陸鉄道が粟崎海浜にバンガロー村を建設する計画を立てているという記事です。浅野川電鉄を合併した北陸鉄道は粟崎遊園を既に手放していましたが、レジャー施設建設の意欲はあったようです。ですが、残念ながらこのバンガローは利用料が高かったからか敬遠されて「終日一人の利用者もいない」と7月7日の記事にあります。

 

↑北國新聞 昭和27年 5月26日2面より / 国会図書館 所蔵

 

 戦後、連合国の占領下にあった日本は1952年(昭和27年)4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効し独立します。しかし、朝鮮半島では戦争が始まっており、米軍は当時の小松製作所や神戸製鋼に砲弾の製作を要請していました。砲弾は納品前に性能確認が必要だったため米軍と日本政府は全国各地で極秘に候補地を探し、最終的に粟崎砂丘(内灘砂丘)が試射場として選ばれました。1952年9月に日本政府は試射場として粟崎砂丘の接収を発表します。これは明治以来陸軍の演習地として砂丘が使用されていたこと、国有地が多かったこと、農地が少なかったので補償が少なくてすむと見越してのことでした。突然の発表に地元住民らの激しい反対運動が起こります。内灘闘争の始まりです。

 粟崎遊園の残照も跡形もなくかき消されていきました。

 

↑北國新聞 昭和27年 9月20日1面より / 国会図書館 所蔵

 

 

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参考文献

 

北國新聞,1939年〜1952年

内灘町教育委員会「粟崎遊園物語」,1998年

内灘町教育委員会「砂丘に咲いた夢と浪漫 : 粟ヶ崎遊園資料集」,2021

戸ノ下達也「戦時下日本の娯楽政策: 文化・芸術の動員を問う」,青弓社,2023

内灘町教育委員会社会教育課,「郷土内灘」 ,1988

内灘町学校教育研究会「わたしたちの内灘」 ,2006