今年も既に8月になり、後半に入ってきました。8月は終戦記念日があるので戦争の記憶を思い起こす月ですね。長岡空襲がキーになっているアニメ映画「君と花火と約束と」を観たこともあって、最近初めて東京大空襲・戦災資料センターに行きました。東京に住んでいながら今まで足を運んだことがなかったのですが、当時被災された人々の記録(証言や絵など)が多く残されていて、民間で小さいながらも見ごたえのある施設でした。
また、8月1日は北國新聞文化センターにて北陸の電鉄文化として粟崎遊園と涛々園について講演をさせていただきました。今回はそこで少しだけ触れた金沢の防空訓練について取り上げたいと思います。
高室信一は「粟崎遊園物語」の中で、昭和13年10月15日に東蚊爪に金沢飛行場が完成してから、近くに飛行場ができたことで踊り子たちにも実感として戦争の緊張が伝わり、当時はやっていた和服の矢がすりが遊園の踊り子たちの中でもブームになったと書いています。「粟崎遊園物語」はその昭和13年(1938年)になってやっと戦争が身近に迫っているのが実感されるようになったように描いているのですが、実際には金沢周辺ではもっと以前、1932年(昭和7年)以降から防空演習や軍事演習が行われており、金沢でも戦争の影は早くも訪れていました。
大都市での防空訓練は1928年(昭和3年)に大阪防空演習が最初で、翌1929年(昭和4年)には名古屋防空演習が行われ、金沢は1932年(昭和7年)9月17日に防空灯火管制演習が行わます。1933年(昭和8年)には関東防空演習が大規模に行われました。金沢ではその1933年以降、官民参加で定期的に防空訓練が行われます。
↑北國新聞,1933年(昭和8年) 9月18日
金沢での1934年の防護演習の内容を北國新聞からざっと説明します。
敵機に模した爆撃機が市内上空にやってきて、宮市大丸屋上と(金沢城の)本丸の上にあった高射砲からその敵機に射撃。敵機は野町広小路から犀川大橋、香林坊周辺にガス弾を投下。ガス弾の白煙は周辺市内を覆い、救護班、交通整理班が活動を開始し、小学校、工業校の生徒たちが避難民として演習に参加し、防毒覆面をした防毒班も活動をしたとあります。またその後、武蔵ヶ辻、尾張町方面にも模擬敵機が再び現れ、三越屋上の高射砲が射撃、避難民は避難所とされた尾山倶楽部と高岡町に向かうがガス弾の為に中毒患者が続出しここでも防毒面に身を固めた防護団が出動して対応。三越からは白煙が上がり、消防隊のポンプ車が消火活動に従事、工作班は破壊されたとされた高射砲の修理に即座に対応し、敵機を撃退。犀川上流の菊橋と下菊橋の間では壮烈な爆破作業実演が行われ「付近沿岸一帶の群衆は思わず快哉を叫んで爆破威力に驚嘆した」とあります。この河原では戦車爆破実演も行われ、勇敢な工兵が模擬戦車の前に出て爆弾を投じ、一方で火炎放射器をもった工兵が戦車に近づいて戦車を焼却し、威力を発揮したとあります。この年の防空訓練も市内繁華街で市民を動員した大規模なものでした。
三越ホールではこの演習に合わせて防毒展が開催されており、北國新聞には会場が人で賑わう写真が掲載されていて、市民の関心も強かった事が伺えます。
↑北國新聞,1933年(昭和8年) 9月16日,三越ホールで防毒展開催
1939年(昭和14年)8月13日の北國新聞記事には北國新聞主催の「海上大爆破」が粟崎の海岸と金石の海岸(おそらく涛々園下海岸ではなくもう少し西の日和山下の方が会場だと思われる)で行われるとの広告があります。また、「救急術の講習」が粟崎で、ちょっと唐突ですが金沢商店員とその家族による運動会が金石日和山下で行われるとあります。翌日の新聞には粟崎砂丘を中心に空陸大総合演習が行われたとの記事があるので、この演習の関連企画として行われたイベントでしょう。
この粟崎遊園近くの粟崎砂丘では軍事演習が度々行われており、特に大きな軍事演習としては1933年(昭和8年)10月の北陸一帯(福井、石川、富山)で行われた陸軍特別大演習で、昭和天皇も総監として参加しました。
1940年(昭和15年)7月4日には濤々園下で毒ガス弾への対応訓練が行われています。
↑北國新聞,1939年(昭和14年) 8月13日
↑北國新聞,1939年(昭和14年) 8月14日
↑北國新聞,1940年(昭和15年) 7月4日
↑北國新聞,1944年(昭和19年) 3月2日
本土空襲が本格化する年の1944年(昭和19年)3月2日の北國新聞記事には一般市民を安心させるために、空襲にあっても物資の蓄えは万全であるとし、石川県の各課が貯蔵と配給に責任を持つと書かれています。とは言え、不安は尽きなかったと想像します。
幸いにも金沢では空襲はなかったと言われていますが、東京大空襲・戦災資料センターの全国空襲被害のパネル展示には金沢市での死者が1名とあり、何かしら知られていない事があるのかもしれません。
↑東京大空襲・戦災資料センター パネル展示






