久しぶりにこの話題ですが、今回はコーヒーと関わりの深い国ブラジルを中心に話を進めていきます。
ブラジルといえばリオのカーニバルとサンバ、サッカー大国、アマゾン、最近では政治経済でBRICSの一員としてニュースでも話題になることがあります。また、日本国外では最大の日系人社会があり、日本とも関わりが深い国なのですが、ブラジルの歴史についてなかなか知る機会は少ないと思います。ブラジルの歴史はコーヒー産業と共に発展していった経緯があり、今回はそんなブラジルの歴史とコーヒーとの関わりを中心にお話をします。
ブラジル最古の人類痕跡は紀元前8000年のものとされる石斧、石斧、水晶の破片、貝殻の装飾品がミナスジェライス州のラゴーアサンタで見つかっています。ブラジルへ人類が辿った経路は、遠く北極圏に近いシベリアとアラスカの間にあるベーリング海地方からで、モンゴロイド系民族が北アメリカからパナマ地峡を通り、さらに南下して南半球のブラジルまではるばる移動してきました。南アメリカでは太平洋沿岸、アンデス地方には文明が芽生えますが、南米大陸東のブラジルは広大なアマゾン川があり、ジャングルとゆるやかな高原が広がる地域で、狩猟採取を行う多くの民族が暮らしていました。
ヨーロッパの大航海時代、1500年にポルトガル人のペドロ・アルヴァレス・カブラルによってブラジルが「発見」されたとされています。これは以前のブログでも紹介したように、ヨーロッパの国々が中東のイスラム世界を通らずに直接インドや東南アジアとの交易を始めるために、航路を開拓して行く中での出来事で、カブラルはインドへの航路を探している途中で、ブラジルを見つけましたが、発見当時は島だと思われ「ヴェラ・クルス島」と名前が名付けられました。その後の探検によって大陸だと分かるようになり、当初のブラジルからヨーロッパに運ばれたものは、赤い染料の取れるブラジルボク(パウ・ブラジル)という木でした。当時のヨーロッパでは赤い染料は大変貴重だったので、多くの木が伐採され、ヨーロッパに運ばれていきました。また、後にパウ・ブラジルは弦楽器の弓の材料としても重宝されたこともあり、乱伐されて今では自生するブラジルボクはほぼなくなり、大変貴重な木となっています。
ブラジルボクの乱伐後16世紀半ば以降から、ポルトガル人たちはブラジルにサトウキビを持ち込み、奴隷を導入した大規模なプランテーション栽培を始め、現地のインディオやアフリカから奴隷商人の手により連れてこられた奴隷が労働力として酷使されました。ブラジル奥地には黄金があると言う噂があり、バンデイランテスと呼ばれる探検家達がブラジル奥地へとわけ入っていって行ったことが、のちの内陸部の開発につながっていきました。このバンデイランテスと言う人たちは冒険心あふれるロマン溢れる者達に思えますが、実際はならずものや盗賊というか、本国で仕事にあふれてしまって新世界で一旗あげようと言うような人々であり、暴力的な人々も多く、奥地で出会った先住民との関係も決して良いとは言えませんでした。18世紀に入ると南部内陸のミナスジェライスで実際に金が発見されゴールドラッシュが起こり、その後ダイヤモンドも発見され、ブラジル内陸部に人々が流れていき、開発が進んでいきました。しかし、18〜19世紀頃になるとブラジルをはじめとする南アメリカは実際にはイギリスの経済的な支配下に入っていきます。ブラジルで産出された金はポルトガルからイギリスへと渡り、後のイギリスの産業革命発展の資金ともなったのですが、ブラジルはその恩恵を受けることができませんでした。
ナポレオンがヨーロッパを席巻した19世紀初頭、1807年にポルトガルがフランスに占領されるとポルトガル王室はブラジルのリオデジャネイロに逃れ一時的に首都をここに移しました。続けて1808年にスペインにもナポレオンは侵攻し、南アメリカの大半を支配していたスペイン本国の力が弱まったのを機にスペイン植民地化の諸地方は次々と独立をしていきました。ポルトガル王室は1821年にポルトガル本国に復帰しますが、ブラジルの人々は自分たちの主権を弱めようとするポルトガル本国からの独立を目指し、ブラジル摂政だったペドロ王太子を中心にまとまり、1822年にブラジル帝国として独立を果たします。
ところで、ブラジルにコーヒーが渡ったのは1727年とされています。ポルトガルの外交官のフランシスコ・デ・パルヘッタは当時ブラジルの地を巡って起きていたオランダ、フランス、ポルトガルの戦争を解決するためにフランス領ギアナ(ブラジルの北西隣の地域)へ派遣されました。当時コーヒーノキはギアナから国外へ持ち出し禁止だったのですが、パルヘッタと愛人関係となったフランス領ギアナ総督夫人からもらった花束にコーヒーの種子を隠してブラジルに帰ったと言う逸話が残っています。ですが、1822年まではブラジルのコーヒー生産量はごくわずかでした。18世紀末にフランス革命の影響でそれまでコーヒー生産の大半を担っていたハイチの社会経済が崩壊したため、コーヒー価格が上がり、ブラジルではその不足分を補うためにリオデジャネイロの南方・パライバ渓谷でコーヒー栽培を始めました。また、19世紀末に砂糖の価格が下落すると、ブラジルではサトウキビに代わってコーヒーの栽培が盛んになりました。
ブラジルのコーヒー生産はファゼンダ(農場、農園)という大農場で行われました。コーヒーのファゼンダは土地が肥沃で降水量と気温が最適なパライバ渓谷の急勾配の山地で本格的に始まりました。コーヒーファゼンダは自給自足の社会で大農場主と労働者と使用人たちが集まって暮らしており、コーヒー農場が見渡せる小高い丘に大邸宅があり、その二階に農場主が住み、一階にに奴隷と使用人たちが住んでいました。コーヒー畑以外にも野菜畑、家畜小屋、食料倉庫、礼拝堂などの施設があり、これらの建物の建設自体も奴隷に頼っていました。このファゼンダの所有者は他にもいくつかのファゼンダを所有していることが多く、それぞれが独立したコミュニティとなっていました。労働力であった奴隷は主にアフリカから連れてこられており、北アメリカの奴隷貿易業者がアメリカの商品をアフリカへ持込んで奴隷を手に入れ、その奴隷をブラジルで売ってコーヒー豆を手に入れ、コーヒー豆をアメリカへ持ち帰るという三角貿易が行われていました。1888年の奴隷解放以降はヨーロッパから移民を呼び寄せ、イタリアやポルトガル、スペインなどから「コロノ」がやってきました。1890年から1901年の11年間でコーヒー生産は約3倍にも増え、1901年から1905年のブラジルでの生産量は世界全体で73パーセントにもなり、そのほとんどはサンパウロ州で生産されていました。1906年にはコーヒー豆の世界シェアは85パーセントまでになりましたが、供給量が需要を上回ったため、価格が下落し、ブラジル政府は価格維持のためにコーヒー豆をシンジケートに購入させ市場に出ないようにさせたり、コーヒーを燃やしたり、海へ捨てるなどして処分して対応しました、これはアメリカや中米諸国から強い批判を受けました。その後、ブラジル以外の中南米諸国でのコーヒー生産の拡大もあり、大量生産の品質の低いブラジル産コーヒーよりも中南米やメキシコの品質の良いコーヒーが市場に出てきたことでブラジルのコーヒーの優位性は揺らぎ、世界全体に占めるシェアは徐々に減少していきました。
ブラジルではコーヒー産業の発展に伴って19世紀後半から都市部ではカフェが急増し、特にリオデジャネイロやサンパウロでは、カフェは上流階級や中産階級の人々が集う社交の場として機能しました。当時のフランスなどと同じくカフェは単なる飲食店にとどまらず、政治的・文化的議論の場となり、ブラジル社会の知識人やリーダーたちの活動拠点となりました。 コーヒー産業の成功は、ブラジルの鉄道や港湾などのインフラ整備を促進し、ブラジルの経済基盤を大きく強化した一方で、コーヒー生産に依存する経済構造、モノカルチャー経済はその後のブラジル経済の多様化を妨げる一因ともなりました。
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参考文献
シッコ・アレンカール、ルシア・カルビ、マルクス・ヴェニシオ・リベイロ「世界の教科書シリーズ7 ブラジルの歴史 ーブラジル高校歴史教科書ー」明石書店, 2003年
関眞興「一冊でわかるブラジル史」河出書房新社, 2022年
中岡義介 川西尋子「ブラジルの都市の歴史 –コロニアル時代からコーヒーの時代まで」明石書店, 2020年
ジョナサン・モリス「コーヒーの歴史(「食の図書館」)」原書房, 2019年
マーク・ペンダーグラスト「コーヒーの歴史」 河出書房新社, 2002年