村井武生の詩集「樹蔭の椅子」は1925年(大正14年)1月1日に抒情詩社から出版されました。序文は室生犀星と佐藤惣之助、扉絵は恩地孝四郎の木版画で飾られています。
同年2月11日には室生犀星が音頭をとって「樹蔭の椅子」出版記念会が燕楽軒(えいらくけん)で盛大に開催されました。この燕楽軒とは今の文京区本郷三丁目にあったフランス料理店で、当時は中央公論社が近くにあった事もあり、芥川龍之介、菊池寛、久米正雄、宇野浩二ら作家たちがよく来ていたハイカラなレストランだったようです。
 
東京での村井武生は室生犀星に師事し、武田麟太郎、藤沢恒夫、小笠原啓介、宮崎孝政、月原橙一郎ら作家や詩人仲間と交流を深め、「少女の友」などの雑誌に詩を発表していました。
 
 
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小曲「明るい散策」
 
プラタナスの新緑(みどり)の下を
うちつれて歩む親しげな二人の少女よ。
 
ー無邪気なそして仲の良い少女達よ。
蜻蛉のやうな軽やかなあしどりで、
どちらへお出かけなさいますー。
ーどちらへ?
わたし達はそんなことは考へて居りません。
ただ 気の向くままに、
この新緑(みどり)の並木のつきるところまで、
いいえ、もつともつと向ふの
青い野原や小川の見えるところまで、
胡蝶のやうに舞ふてゆきますわ。
 
お行きなさい、愛する少女達よ。
七月こそたのしい君達の時です。
たとへこの並木が海邊までつづいてゐやうとも、
気の向くままにお行きなさい。
若しも そのいとしい足が疲れてきたなら、
どこにでも 若草がこころよく迎へてくれるでせうし、
又人知れぬ静かな樹蔭には
寂しい白いベンチが、どんなにか君達を待って居やうものを。
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村井武生は東京に出た始めは雑司ヶ谷の鬼子母神近くにあったキチキチ茶房(童話詩人・玉置光三がやっていた)というお店の奥の方のアパートに住んでいたようです。
 
鬼子母神は安産、子育て、立身出世にご利益があるとされていて、東京・池袋駅から地下鉄副都心線で行くと次の雑司ヶ谷駅の近くにあります。
ここは1561年(永禄4年)に雑司の役(下級役人)であった山村丹右衛門が現在の目白台のあたりで地面を掘っていた時に鬼子母神像見つけ出し、東陽坊というお寺に祀ったのが始まりとされています。
 
(↑写真は年明けの鬼子母神)
 
今の参道は住宅の多い静かな佇まいですが、江戸時代の一時期(18世紀初め)にはこの鬼子母神は参拝客で大いに賑わい、参道には料理茶屋や蕎麦屋、飴屋、風車を売るお店などが立ち並ぶ門前町だったそうです。
鬼子母神境内には駄菓子屋を売るお店「上川口屋」は創業が1781年と看板に書かれていて、元は加賀藩御用達の飴屋「川口屋」から続くお店です。それから今はないのですが、昭和の初期までは雑司ヶ谷の名物といえば芋田楽と雀焼きだったと「東京名物食べある記」(時事新報家庭部 編/正和堂書房/1930)には記載されています。
芋田楽は里芋を半分に切ったものを串に四つ刺し、味噌を塗ってこんがりと焼いたもの。雀焼と言うと京都の伏見稲荷のものが有名ですが、雑司ヶ谷にも江戸時代から雀焼きを出すお店はあったようで、鬼子母神門前の一杯飲み屋の名物だったそうです。
この本が書かれた1930年(昭和5年)には雀焼き屋は2軒あったそうで、作者によると「雀その物の味はないが、タレが鰻のタレと兼用らしくなまぐさいのには閉口した。」とあり、芋田楽の方のお味は「口に入れると里芋の甘味と味噌の味が口の中で渾然として禪味とでも云ひたい様な面白い味がする」と書かれています。
 
雑司ヶ谷の鬼子母神周辺は都心にしては珍しく、戦災を免れた地域なので、歩いていると時折、古い建物や狭い路地に昔の面影を見つけられます。ですが、副都心線雑司ヶ谷駅の開通が2008年に開通してから、川越街道と明治通りのバイパス工事、新しい豊島区庁舎のオープンなど、隣の池袋駅周辺も含めて大規模な再開発が行われていて、雑司ヶ谷周辺は更地や新しい建物が増えてきていて、昔の面影は徐々に消えつつあります。
 
ところで、昔の雑司ヶ谷は現在より広い地域だったようで、北は雑司ヶ谷墓地のある南池袋から、西は自由学園明日館がある西池袋の一部、南は文京区目白台の一部にまたがる地域が雑司ヶ谷と呼ばれていました。(地名としては1966年(昭和41年)まで残っていました。)
江戸時代は江戸の町外れで農村地帯でしたが、明治以降に東京が発展していくと1900年(明治33年)以降から都市化が始まり、住宅や商店が増えていきました。
雑司ヶ谷周辺の土地には豊島師範学校や学習院、立教大学、自由学園が置かれ、新しい教育が実践されました。また、婦人之友社の創立場所も雑司ヶ谷で、婦人之友社の社屋は出来た当時は麦畑の真ん中にありました。敷地内には庭やテニスコートがあり、創立者の羽仁夫婦や編集で協力していた竹久夢二らがテニスをしていたようです。竹久夢二も一時期、雑司ヶ谷に住んでいました。
村井武生が住んでいた1920年代の雑司ヶ谷は、雑誌「赤い鳥」の鈴木三重吉をはじめ、菊池寛、小川未明、秋田雨雀など多くの作家や児童文学者、教育者ら文化人が住んでいた時期でした。
 
雑司ヶ谷は池袋に近いからか、のちに池袋モンパルナスと呼ばれる画家達とも村井武生は交流があったようです。
長谷川利行の1929年6月19日付けの葉書には
「本日、村井武生ガ友人ト白昼銀座ヲ酔払ツテ歩イテイマシタ。」という一文が挿入されています。
(「長谷川利行の絵 芸術家と時代」(大塚信一 著/作品社/2020)より)
 
村井武生は金沢の青年時代も貧乏で、東京でも金銭的には恵まれなかったようですが、お金が入った時には友人と銀座や新宿に繰り出して楽しく飲み歩いたという事を宮崎孝政や月尾橙一郎は回想しています。
 
 
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「捨椅子」
 
金がなくなってから
もういくにちたつことか
夜のまちをしたひ よろよろと出ては来たが
何のなぐさめられやうもなく
せいそな貴婦人や白靴やのあひだにまざつて
あかるいかふえの窓下を
おそろしいもののやうに通りぬけ
いつもの樹蔭に来てみると
かけなれし捨椅子には もう見知らぬ人が坐つてゐる
けふも 一本の煙草を見つけるために
ひつくり返へしてさがしたのだが
あらう道理もなく
売る本とても一冊もありはしない
ああ あのすばらしい虹のやうな幻想も
しだいにいやしいものとなり
自分をなぐさめるために もうつかれはててしまった。
 
(詩集「樹蔭の椅子」より)
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1927〜1928年(昭和2〜3年)に村井武生は根津愛染町にある清秀館という下宿に移りました。ここには画家・矢部友衛、同じく画家の岡本唐貴らが住んでいました。少し遅れて詩人で画家・美術批評家の矢野文夫も住みはじめました。
 
多くの詩人、作家、芸術家達の出会いが新しい潮流を生み出します。
 
 
次回に続く。
 

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参考文献

「村井武生 詩集(樹蔭の椅子・着物)」 美川町教育委員会 1992

「村井武生 散文集」 美川町教育委員会 1991

「わがまち雑司ヶ谷」 1989-1995