2025年も本日で終わりとなりますが、駆け込みで一つアップします。前回に引き続き全日本宗教平和博覧会(宗教平和博)に関連する話題です。これも今回の郷土史学会々誌に時間と誌面の都合で載せられなかったので、備忘録としてまとめておきます。

 

 1950年(昭和25年)に金沢市で開催された宗教平和博は目玉の一つとしてタイから象を呼び寄せることにしました。当時、日本の動物園の動物たちのほとんどは戦時中に殺処分か栄養失調、温度管理などの環境維持ができなくなったためにいなくなっており、特に象で戦前から生き延びたのは名古屋・東山動物園の「マカニー」と「エルド」の2頭だけでした。戦後の1949年(昭和24年)に上野動物園にはタイから「はな子」が、インドからは「インディラ」がやってきており、娯楽の少ない当時は大人気となっていました。

 象は仏教徒の多いタイ人にとっては徳や忍耐、力強さ、国の守りの象徴であって、特別な存在でした。また、仏教説話には釈迦の母である摩耶夫人が釈迦を身籠る際に六牙の白像が体内に入る夢を見たという話もあり、仏教でも象は重要な存在でした。終戦から5年を経ても日本は未だ連合軍の占領下であり、復興途上で、象を海外から呼び寄せるというのは一大事業で、宗教平和博の阿部壮次郎事務局次長は上野動物園長の古賀忠道やスコタイ・パニツチ商会のウイドル・ノツパクーンらの協力を得て、タイとの難しい交渉の末に、象が寄贈されることになりました。

 

 日本に来ることになった象はタイの東部、カンボジア国境近くのスリンの農村で生まれた9歳の非常におとなしい雌象でした。その象は3月31日にデンマーク船のへルター・マースク号に乗ってバンコク港を出発。約3週間1万6000キロを航海し、4月12日に横浜港のメリケン波止場(現在の大さん橋)に到着しました。このメリケン波止場には進駐軍の兵隊や各新聞のカメラマンが押し寄せ、200人余りの人々でにぎわい、金沢から出迎えた宗教平和博の阿部事務局長は感激で目に涙を浮かべたといいます。長い船旅で疲れていた象はぐったりしていましたが、餌を与えるとまたたく間に7〜10キロの若草とリンゴを平らげました。象は東海道本線で米原経由、北陸本線を通って4月15日に金沢駅に到着。金沢駅からはトラックで宗教平和博の子供の国に運ばれ、象のために建てられたガラス張りの建物の中で暮らすこととなりました。この建物の前には直径約13メートルの円形の象専用の運動場も用意されていました。

 

↑北國新聞,1950年(昭和25年) 4月14日2面

 

 この象は名前が公募され、北國新聞紙面上でも告知がさなれ、2万通の応募がありました。抽選の結果、各宗教共通の「真理」を象徴として「まり」の名前が選ばれ「まりちゃん」と呼ばれることになりました。宗教平和博では少年少女を背中に乗せたり、子供たちと綱引きをしたり、市内を散歩したりして人気を博し、宗教平和博開催中の北國新聞の記事にはこの象に関連する話題が多く掲載されています。宗教平和博の広告にも象のイラストが描かれたものが多く、宗教博の象徴とも言える存在となっていました。

 

↑北國新聞,1950年(昭和25年) 4月16日1面

 

 宗教平和博終了後にまりちゃんを譲り受けたいという声が神戸、長岡、岡山、高知、北海道などから上がってきており、最終的に神戸へ譲渡することになりました。この時期の日本では戦後復興のための博覧会が各地で開催されていて、神戸市では宗教平和博とほぼ同時期、3月15日から6月15日まで日本貿易産業博覧会(神戸博)が開催されていました。この神戸博は王子公園一帯や湊川公園を会場として行われていて、当初この神戸博でも金沢の宗教博と同じように目玉の一つとして子供達に人気の象を会場に呼び寄せようとしていましたが、海外から買い付けるのが難しかったこともあり、神戸博より早く終了する宗教博から象を呼び寄せることにして交渉を始め、5月10日に金沢との交渉がまとまり、宗教平和博の終了後の5月22日に神戸へ移動することになりました。まりちゃんの移動は貨車を使っての移動でしたが、象は大きな体に比べて繊細な動物であり、移動は細心の注意を払うものでした。まりちゃんが横浜に着いてからずっと体調管理をしていた金沢の川原獣医と神戸の松村諏訪山動物園長が神戸まで移動する貨車に一緒に乗って付き添っていました。また、移動で乗せる貨車も前もって象舎に設置して慣れさせるという入念な準備してからの移動でした。

 

 神戸博では地元紙・神戸新聞によって新しい名前が公募され、新たに「まや子(摩耶子)」と名付けられました。この摩耶は神戸市内にある山の名前でもありました。まや子は5月23日に神戸博会場内の新設されたガラス張りのスマートなゾウの家に落ち着き、神戸博でもまや子は人気で、子供達を喜ばせていました。

 

 

↑神戸新聞,1950年(昭和25年) 5月28日2面

 

 神戸博終了後はまや子は同じ神戸市内の諏訪山山中にある神戸市立諏訪山動物園に移動することが決まっていました。

 諏訪山動物園についてですが、明治初頭に整備された「諏訪山遊園」に動物園が造られたのが1928年(昭和3年)、経営悪化のために動物園は1937年(昭和12年)に神戸市に移管され神戸市立諏訪山動物園となっていました。この諏訪山動物園にはオオヤマネコ、ディンゴ、ライオン、トラ、アシカやインドゾウの「ダンチ」もいましたが、やはり空襲で動物たちが逃げ出す恐れがあるという理由でほとんどの猛獣が殺処分とされ、代わりに豚や鶏などが檻に入って細々と営業を続けていましたが、1946年に閉鎖に追い込まれました。以降は財団法人国際動物愛護協会に委ねられ、1950年7月に再開するまで細々と運営管理が続けられました。神戸博の会場は博覧会終了後、金沢の宗教平和博の本会場と同じようにスポーツセンターになることが内定していたのですが、最終的に諏訪山動物園に代わる広く新しい動物園、「王子動物園」となることが決定しました。摩耶子が諏訪山動物園に移った後に、もう一頭の雌象「諏訪子」がやってきて、すぐに2頭の象は仲良くなりました。

 1951年に神戸市立王子動物園が開園となり、象たちは徒歩で諏訪山から約4kmの道のりを移動して引越ししました。途中、2頭は走ってきた市電に驚いて暴れ、綱を引っ張っていた飼育員達を吹き飛ばし、民家の壁を壊すなどアクシデントがありました。新しい動物園はゾウ舎も含めて実はまだ建設が終わっておらず、多くの動物が仮の場所で生活を始め、まや子と諏訪子は隙間風に吹かれ足を鎖でつながれた状態で過ごしました。ようやく1953年になってゾウ舎が完成。これは当時としては日本一の大きさでした。

 

 まや子は神戸についてから芸を仕込まれていて(後から来た諏訪子は芸が覚えられなかった)、象が珍しかった当時は各地から象を見たいとの声が上がっていて、資金調達や動物園の宣伝も兼ねてまや子は兵庫県内や各地の都市、近畿、中国、四国、北陸を中心に巡業を行い、一時期は頻繁に貨車に乗って出張に出ていました。同時期には上野動物園のインディラも関東、東北を中心に巡業を行っていて、全国の子供達を喜ばせていました。しかし、まや子にとって巡業はストレスだったようで、体調を崩し、死期を早めたと言われています。象の寿命はおおよそ60〜80歳までといわれていますが、まや子は1956年8月27日に15歳で亡くなりました。

 神戸博からまや子の飼育を担当していた亀井一成さんは全くの素人から飼育員になり、まや子に芸を教えることになるのですが、松村園長からの指示でまや子に芸を仕込んで巡業に出たことを後で非常に悔やんでいます。神戸にやってきたまや子や諏訪子については亀井一成さんの著作に詳しく書かれています。

 

↑神戸新聞,1956年(昭和31年) 5月26日5面

 

 象という大型動物が飼育できるようになったのは平和になったという証でもありました。ですが、1950年当時の日本周辺は中国で国共内戦が続き、朝鮮戦争の開始、ベトナムでも内戦が続き、本格的な冷戦が各地で始まっていました。今日の世界も混沌としてきていますが、決して明るくない世界情勢の中、当時の日本の子供達、人々は象に希望、未来を託して見ていたのだろうと思います。

 2026年は平和な世界になる事を祈って、今回のブログを終わります。


 

【参考資料】

北國新聞 1950年1月〜6月

神戸新聞 1950年5月〜6月

「全日本宗教平和博覧会誌」全日本宗教平和博覧会/編、全日本宗教平和博覧会、1950年

「日本貿易産業博覧会 神戸博会誌 1950」日本貿易産業博覧会事務局/編、1950年

「諏訪子と歩んだ50年 : 王子動物園開園50周年記念誌」神戸市立王子動物園、2001年

「王子動物園開園70周年記念誌 : 「タンタン」と迎える70周年にありがとう」神戸市立王子動物園、2021年

「ぼくはチンパンジーと話ができる」亀井一成/著、PHP研究所、1976年

「ゾウさんの遺言」亀井一成/著、ポプラ社、1980年

「ありがとう、諏訪子さん 日本で一番長生きしたインドゾウの話」深山さくら/文、末崎茂樹/絵、佼成出版社、2011年