2025年もあと少しで終わりとなりますね。今月12月に発行された石川郷土史学会の会誌(58号)に1950年(昭和25年)に金沢市で開催された「全日本宗教平和博」について寄稿しました。個人的に諸々慌ただしい時期だったので、時間の都合で会誌に盛り込めなかった事を中心にブログで紹介していこうと思います。
戦後数年経て、空襲被害を受けた多くの日本の都市では復興記念として博覧会が開催されるようになりました。
金沢では戦後5年の1950年(昭和25年)に同時に二つの博覧会が開かれました。もう75年も前の事ですが、一つは「婦人子供大博覧会」(4月3日〜5月31日開催)で、会場は金沢城址と兼六園、これは戦後一時期存在した地方新聞である石川新聞社が主催したものです。もう一つは「全日本宗教平和博覧会」(4月8日〜5月25日開催)でメイン会場は当時、兼六園テニスコートと呼ばれていた場所(現在のいもり堀)と市内各所の寺社などであり、こちらは石川県宗教連盟、石川県観光連盟、北國新聞が主催していました。どちらも後援に金沢市と石川県がついています。しかし、お互いの新聞誌面上には相手方の博覧会に関する記事は全くと言っていいほど掲載されておらず、ライバル新聞社が宣伝に凌ぎを削って争っていた形跡があります。ほぼ同時期に主要会場も隣り合わせ(宗教平和博は兼六園テニスコート、婦人子供博は金沢城跡)の別々の博覧会開催は他の都市ではおきておらず、異常事態とも言えます(同時期に近隣の市町村で行われることはありました)。
そもそも石川新聞社とはどんな新聞社であったか情報が少ないのですが、明治期に一時存在した石川新聞とも別の新聞であり、当時の地元有力紙、北國新聞や北陸中日新聞とは別の独立した新聞社だったそうです。
石川新聞と北國新聞からそれぞれの関連記事を見ていきます。「全日本宗教平和博覧会」(宗教平和博)が北國新聞紙面上で発表されたのは1950年1月22日。ここでは"会場配置予定"として兼六園、金沢城跡、その他尾山神社境内や東別院など市内の各寺社教会等となっています。それに対して「婦人子供大博覧会」(婦人子供博)は1950年1月29日の紙面上に石川新聞に開催発表が行われており、そこでは会場は金沢城本丸・兼六園内成巽閣となっています。おやおや、違う博覧会なのにどちらも同じ金沢城跡が会場とされていて被っています。宗教平和博の方は”予定”がついているので、発表はフライングで関係各所と調整が取れていなかったのかもしれません。
婦人子供博はその後、順調に建物の建設や展示の準備が進んでいき、3月16日には各館の建設が終わり、同25日には本館の飾り付けが終わっています。それに対して宗教平和博は1月末の段階でGHQの放出品であった飛行機格納庫を本館として使用するという事はほぼ決定していましたが、肝心の会場決定は右翼曲折があり、なかなか決まらず、2月20日になってやっと兼六園テニスコートに決定、2月24日の北國新聞に全会場建設に着手との記事が出ています。そのため宗教平和博の準備は急ピッチで進められました。宗教平和博は当初は4月1日からの開催予定でしたが、工事の遅れから4月8日からの開催に変更されました。(1950年2月17日,北國新聞)
兼六園テニスコートの場所は元々金沢城のお堀があった場所でしたが、明治期に埋め立てられ、戦後はテニスコートとして使用していました。宗教平和博はこのテニスコートを更地にし本会場として、建物はGHQの放出品航空機用格納庫を購入し組み立てて本館としました。また、展示場空間が限られている割に参加宗教団体が多かったので、市内各所の寺社敷地も展示会場として使用することとしました。
この本館は博覧会終了後にスポーツセンターとして使用するということが決定されましたが、これは石川県知事の独断決定として3月18日の県議会で厳しく追求されました。(1950年3月19日,石川新聞1面) この件に関しては国も動き、本館建物が当時の建築基準だと建設省の許可が必要で、県知事だけの許可では違法に当たる可能性があるとの事で、もう直ぐ博覧会が開幕するという3月24日に建設省から建設工事差し止めの命令が出ました。(1950年3月25日,石川新聞1面) 宗教平和博関係者は慌てて対応に追われ、石川県建設課長と建設省住宅局監督課の話し合いが持たれ、最終的には建物の基準が想定以下であったので知事だけの許可で問題なしと判断されました。
婦人子供博の方は前々から計画して進めていたようで、特に問題もなく4月3日に開幕しました。宗教平和博の方は規模の割には準備時間もなく、見切り発車で本会場の決定も遅れ、ドタバタが続いたようですが、こちらも4月8日の開幕にはなんとか間に合ったようです。こんなにも急だったのは、想像ですが、"あの石川新聞が博覧会を主催するなら老舗の北國新聞も博覧会を主催しようじゃないか"というライバル心が燃え上がったからなのかもしれません。
各博覧会の会場施設をざっと羅列していきます。
「婦人子供大博覧会」会場施設 2会場12館
金沢城址会場=婦人文化会館、演芸館、子供とスポーツ館、水産館、ジャングル館、海女館、子供大遊園地、動物園、観光貿易館、教育館、お土産館
兼六園会場=成巽閣(特別館)
↑本会場図,石川新聞,1950年(昭和25年) 3月26日 3面
婦人子供博のメイン会場=婦人文化会館では日本文化向上のためとして、文明国アメリカの文化の紹介がされていて戦後のアメリカの影響の大きさを感じます。子供とスポーツ館では次世代を背負う子供たちがどうやって民主主義を身につけるかという説明に十場面のジオラマがありました。ジャングル館には実物大の電動のライオン、虎、大蛇、象、猿、豹がジャングルのジオラマの中に配置されていました。海女館にはガラス張りの大水槽があり、海女の実演が見れたそうです。動物園には大ワニ、クジャク、オランウータン、七面鳥、クマ、猿、キツネ、タヌキ、羊、河イタチ等の動物がいました。また、特別館として兼六園内の成巽閣が一般公開されて、内部で子供に関する展示も行ったようです。
「全日本宗教平和博覧会」の会場施設 8会場17館 (新聞広告には13会場17館とありますが、兼六園テニスコートの本会場内の建物をそれぞれを1会場と数えているので7会場とします)
本会場=宗教平和館、観光館、演芸館、子ども科学館、子供の国、キリスト館、大本愛善館、産業貿易館、福引館、タバコ製造実演館、電気通信館
兼六園会場=第一仏教館
横安江町東別院内会場=第二仏教館
尾山神社境内会場=神道館
石川県商工会議所内=迎賓館
金沢美術工芸大学会場(現金沢美術工芸大学)=美術宝物館
湯涌温泉=康楽寺
東山会場=第三仏教館
↑全会場図,北國新聞,1950年(昭和25年) 4月7日 7面
宗教平和博は航空機用格納庫だった本館のかまぼこ型の建物の中に宗教平和館、観光館、演芸館の3館が入っていました。メインの宗教平和館の入り口には直径3.6mの大きな地球儀が回転し、その上に乗った慈悲観音、聖母マリヤ、神鏡が背景から光で照らされていてこの博覧会を象徴していたそうです。演藝館は北國第一劇場の大道具部の手によるもので、当時金沢市内一であった同劇場よりも大きく充実していたそうです。タバコ製造実演館はその名の通りタバコ製造の実演コーナーに連日黒山の人だかりだったそうです。特にタバコ嬢と呼ばれた緑色のワンピースとハンチング型ベレー帽、胸から藤かごを街頭販売員も人気を呼んだと言います。こどもの国にはメリーゴーランド、スベリ台、豆自動車などの遊具の他に動物園があり、クマ、ヒグマ、猿、タヌキ、ウサギ、山羊、七面鳥、きじ、アナグマ、ムササビなどがおり、特にタイから呼び寄せた象の「まりちゃん」は戦後日本に来た3頭目の象で、連日北國新聞紙面上を賑わす人気者となっていました。この象のまりちゃんはこの博覧会後は神戸へ行って各地を巡業したという事なので、今後調べて、改めてブログ記事などにしたいと思っています。
会場数は宗教平和博の方が多いですが、会場が市内に点在し、湯涌温泉にも一会場あるので全部回るのは大変です。婦人子供博は金沢城址の中でほぼ完結しているので子供連れには回りやすかったと思います。どちらの博覧会の前売券には福引が付いており、婦人子供博の景品はミシンや自転車など、宗教平和博の景品は行きたい宗教団体の本部や東京、名古屋、京都、大阪を巡れる旅行券など、どちらも豪華な景品の抽選がありました。これも終戦後で物資に悩まされた時代ゆえのものだなと感じます。どちらの博覧会も金沢駅前に広告塔を建てており、シンボルとしたようですが、駅南側に2つの博覧会の広告塔がそびえ立っていたようです。それぞれの写真は残っていますが、2つの広告塔が一枚に写っている写真を探しているのですがまだ見つかっておらず、気になります。
↑宗教平和博の広告塔, 石川新聞,1950年(昭和25年) 3月18日 2面
↑宗教平和博の広告塔(大歓迎塔), 北國新聞,1950年(昭和25年) 3月30日 2面
博覧会開催中は石川新聞も北國新聞も、兼六園、石川門前がごった返したという写真が掲載されており、お互いが自分が
主催の博覧会入場者でごった返しているとキャプションが入っています。新聞紙面上には隣に別の博覧会が行われているという事は書かれてないので、互いに完全に無視しています。
↑石川新聞,1950年(昭和25年) 4月17日 2面
↑石川新聞,1950年(昭和25年) 4月22日 2面
金沢駅の乗降者数は博覧会来場客で記録を更新し、市内の商店や宿泊施設も大いに賑わって売上も伸びたそうです。実際にどちらの博覧会がどれくらいの入場者であったのか、資料が少ないのではっきり分かりませんが、博覧会来場者は福井、富山など近県や大阪などの関西方面、名古屋や長野などの中部方面からも多く、関西圏からの訪問客は山中、山城、片山津、粟津などの観光地で宿泊する者も多かったそうで、各地の宿泊施設も大入り満員となったと言われています。婦人子供博と宗教平和博の競合でお互いに潰し合いになる可能性もあったと思いますが、北陸地方では博覧会が開催されていなかたこともあったのか、結果的には相乗効果があったと言えるのではないでしょうか。金沢は今でも多くの観光客が訪れていますが、戦火を免れた金沢は博覧会開催で当時でも既に相当な集客力があったと言うことなのでしょう。
最後に、石川県郷土史学会々誌の自分の寄稿に一部誤りがありましたのでこちらでも訂正のお知らせを致します。
p104下段,22行目 誤「四月二十八日」 正「三月二十八日」
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参考文献
「全日本宗教平和博覧会誌」全日本宗教平和博覧会/編, 全日本宗教平和博覧会, 1950年
「井村徳二伝」新保辰三郎、新保千代子/著, 井村徳二伝記刊行会, 1965年





