思いやりと人権は別物  | 渾沌から湧きあがるもの

 

 

 

お二人の車いすユーザーがれいわ新選組から選挙にでて国会に行った時もメチャクチャ叩かれてましたけど、当事者が声を上げるとなぜか叩かれる不思議…

 

なんで彼らが人として権利を主張した途端に彼らを檻の中へ押しやろうとするのかなぁ。

 

なんかねぇ…例えば24時間テレビとかを観て「わー、すごい、感動!」とか言いいながら、実際に目の前に障がい者が現れて「こういうところが不便」と声をあげると「贅沢言うな!」「我慢しろ!」「感謝が足りない!」ってなる人は「彼らを消費の対象として感動ポルノとして扱い差別している」わけなんですが、その自覚はないどころか「親切にしてやっている」と思うとかどういう神経してんのって私は思うわけですよ チーン

 

「これは思いやりよ、優しさよ、わたしってなんて親切ないい人♡」と思いながら相手を見下していたらそれは単に優越感に浸りだけの自己満足でしかないよ?
 

 

 

 

ステラ・ヤング

私は皆さんの感動の対象ではありません、どうぞよろしく

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

「合理的配慮」がよく分かる 考え方と具体例

 

 

障害によって生じる困りごとを、話し合うことで解決する「合理的配慮」。50年以上活動を続けてきた障害者運動のリーダーが、合理的配慮の法律が作られるまでの歴史を振り返ります。さらに、“車いすユーザーが多数派になった世界”という設定の不思議なレストランを紹介。障害のある人の立場を体験することで「合理的配慮」の考え方を深めます。

 

 

続きは上記リンクで

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

「やってあげる」感覚では本来の人権は根付かない 

英国在住の学者が「思いやり」重視の日本に伝えたいこと

 

 

 

◆状況を改善する義務は政府に

 

藤田さんが講演で強調するのが「『思いやり』と人権は別物」という点だ。日本の人権教育では優しさや親切さが強調され、「視覚障害者が困っていたら手を引いてあげましょう」などと教えられるが、その場に誰もいなければ問題は解決できない。音の出る信号の設置やバリアフリー化などを政府が進めるべきで、政府には人権が守られていない状況を改善する義務があるなどと説明する。

 

 

 

◆「思いやり」で起こる問題

 

「思いやりも大事だが、思いやりを強調すると『やってあげている』感覚になり、障害者が声を上げると『生意気』となってしまう」。一人一人を尊重する「本来の人権」が日本に根付かない原因の一つが人権教育のあり方だと指摘すると、「はっとさせられた」という参加者が多いと明かす。

 

会場で、虐待されて育ったという人に「自分には人としての尊厳があると著書で知り、助けられた」と声をかけられ、人権意識の低さに苦しむ人の存在にショックを受けたという。一方で、変化の兆しも。人権教育を担う教育委員会や行政関係から「ぜひ話を聞きたい」と講師に招かれる機会が増えた。2月のさいたま市での講演は、年金や生活保護、教育問題などに取り組む20団体が実行委員会を組織して開催、240人以上が集まった。「たこつぼ化しがちの運動を、人権を合言葉に横につなげられた。共闘する地盤ができた」ことに希望を感じた。

 

 

◆受け身では社会は変わらない

 

日本人は「国連が世直ししてくれる」と受け身になりがちだが、自分たちがアクションを起こすことでしか社会は変わらないと藤田さんは訴える。「講演が良かったよ、とSNSで投稿するだけでもいい。一緒に行動しましょう」

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇