江戸時代の絵師が旅行中に残した四十枚の絵図があります。
その絵は広島県西部のそこここで描かれたもので、道路が良くなった最近では広島から小一時間車を走らせれば訪ねることができるところばかりです。
awakinは湯来の温泉に入りに行ったり、芸北へ軽登山や花の撮影に行ったりした帰りに、絵師の残した日記や絵図を頼りに、現在の風景を探して求めて歩いています。
この絵の、この場所へ行こうと前もって段取りしていても、なかなか一回で行き当たることは少ないのですが、それはそれで楽しいことで、下調べのし甲斐があるというものなのです。

吉木という字も、七曲という字も、豊平町内の小字として21世紀の現在も残っています。
(絵師は地図上の点線の道、中央上部の戸坂から左下の七曲までの下りの山道を歩いたようです。標高差は約50㍍ですが、現在でも川沿いの車道を自転車で上るより、130㍍登って80㍍下る昔の山道を歩いた方が早く着くそうです。)
絵師、岡岷山は、駒か瀧を出立してからの道中を
『是より(龍頭)山を下り南へ向ふ、吉木村に至り、小野周軒所に昼休みす、(中略)夫より南に向て山に登る、嶺を越、坂を下れハ道嶮にして曲折す、七曲りと云、是を下れは穴村なり、道は谷川の上にありて甚危く、左右山高して平地すくなし、(後略)』
と記し、太田川本流を船で城下まで下るために、谷川と記した西宗川沿いの細道を、澄合まで下って行ったのであります。
吉木へ上っていく曲折する山道は、緑の中に埋没していて見えません。
ただ、川沿いに点々と広がっている民家の様子は、二百数十年前に絵師が見た風景とさほど変わっていないような気がしました。
その様子は『甚危く』とはとても思えない、のどかな風景でありました。
絵師が歩いた江戸時代の道はどんな道だったでしょう?
かつてこの川は、これより奥にある集落で採れる物産(麻や薪など)を、消費地の広島へ送るための動脈でありました。
船頭が船を上流に運びあげる道があったはずで、そのような道を絵師は歩いたのでしょうか。


