房総里見氏の歴史・文化を活かす“館山まるごと博物館” | Blog 安房国再発見

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房総里見氏の歴史・文化をみる


房総里見氏の歴史のなかで最も注目される出来事は、

天文の内乱(1533年)と呼ばれています。

この内乱は当主里見義豊が叔父実堯とその子義堯

との間で戦った里見一族の主導権争いであり、

同時に江戸湾岸で争っていた北条氏などの諸勢力を巻き込んだ

戦国期の戦いでもありました。


実堯・義堯側が勝利したことで、

里見氏の家督が本家から分家に移ることになったことが、

里見氏の実像を歪めていくことになったのです。
今日の研究史では

里見義実から義豊までの本家の流れを前期里見氏

義堯以降の分家の流れを後期里見氏と呼んでいます。


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ここで重要なことは,勝利した側によって

本家里見家の歴史を大幅に書き換えたり,

都合のいいように歴史的事実を

ねじ曲げたのではないかとされています。

それは本家から家督を奪った出来事を

歴史的に正当化しようとするあまり,

系図などの人物や年代を作り替えた可能性があり、

たとえば従来より義実の次の当主は成義とされていますが

この人物は里見氏系図の年代を調整するために

どうも挿入された架空の人物ではないかと考えられています。

さらに房総里見氏の始祖である義実に関わった

結城合戦から白浜上陸までの話も系図にあわせて

創作したのではないかと考えられています。


海の戦国大名里見氏
里見実堯が殺害されたことで始まった天文の内乱は,

その子である義堯が小田原の北条氏からの援軍を得て

当主義豊を滅ぼし、里見氏の宗主権を握ったのです。

しかし、まもなく義堯は北条氏と断交することになります。


その後は上総国に進出して奪取した久留里城を拠点に、

最大の敵である小田原の北条氏とは

江戸湾の海上交易権支配をめぐって,

下総の国府台や三浦半島などで戦ったり、

江戸湾海域で水軍の戦いを繰り広げていきました。


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当時、関西や東海方面からの多くの交易船は、

江戸湾岸の品川や金沢などの湊だけでなく、

江戸川や利根川流域の水上交通とも結びつき、

関東各地と取引していました。

それぞれの湊を拠点にさまざまな分野の商人や職人と海民が

活発に交易活動に従事していました。

里見氏が北条氏と互角に戦っていた源には、

江戸湾の交易船往来や海民の生活に

強い影響をおよぼしていた海賊の力があったといわれています。

その海賊が里見水軍になっていったわけです。

江戸湾の航行に強い権限を握った里見氏に対抗するため、

北条氏は紀伊半島から海賊衆を雇ってきたといいます。


里見氏は鎌倉公方足利氏と、その一族を盟主とあおぎ、

反北条勢力を結集して江戸湾海域や

房総半島全域に勢力を広げて

房総最大の戦国大名にのし上がっていったのです。

ただ北条氏との戦いでは、

危機的な状況のたびに北条氏の背後にいた

上杉謙信と軍事同盟を結んだり、

ときには上杉氏と対立していた武田信玄と結ぶなど、

さまざまな外交戦略で対抗していきました。


しかし、義堯の死後は北条氏に押され気味となり、

義堯の子義弘は,1577年に北条氏政からの和議

を受け入れるという大転換を図り、

房総半島と三浦半島をはさんで江戸湾海

で繰り広げられていた40年にわたる長い抗争に

終止符を打ったのです。

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和議が結ばれると、義弘の子義頼によって

平和外交は強力に推し進められていったので、

江戸湾の海上交易は活発になっていきました。

里見氏と後北条氏はともに和平外交のなかで国力を高めていき、

とくに後北条氏は上杉謙信などとの戦いを通じて

関東支配を広げていきました。

しかし、最後は全国支配を進めていた

豊臣秀吉との戦いに敗れていきました。

一方、里見氏は源氏の流れをもつ外様大名として、

うまく立ち回っていましたが、16世紀後半になると、

豊臣秀吉から上総領を没収され、

里見義康は安房国のみの支配地となっています。


そこで支配の拠点を江戸湾口部にある

館山に移して館山城をつくり、城下町には商人を集め、

高の島を湊に、江戸湾の海上交易の

拠点づくりをはじめました。

関ヶ原の合戦では里見義康が

徳川家康側として働いたので3万石が増やされ

12万石という関東では最大の外様大名になりました。

しかし、3年後に31歳という若さで亡くなってしまい、

わずか10歳の梅鶴丸が相続することになります。


梅鶴丸には将軍徳川秀忠が

一人前の大人とみなす元服の儀式のときに、

秀忠の忠をつけることを許し、

忠義と名乗ったといわれます。

妻も徳川家康の側近であった大久保忠隣の孫娘をもらいます。


ところが突然、外様大名里見氏に悲劇が襲いました。

慶長19年(1614)年9月9日に伯耆国への国替となり、

館山城は壊され堀は埋められたのです。

忠義は、20余年住んだ館山から伯耆国倉吉に移され、

元和8 年(1622)に病気になり29歳の若さで亡くなり、

数名がその後を追って自死したと伝えられています。

17世紀のはじめ、江戸湾の入り口という

軍事的に重要な拠点を支配して、

しかも強力な水軍をもっていた外様大名の里見氏は、

家康からさまざまな口実をつけられ、改易されたのです。


こうして房総半島南部の安房国は、

江戸幕府が直接支配する地になっていきました。

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