とんでもないものを読ませてくれたと思った。

人の内に秘められし嗜虐心、思わず弱者へ向けたくなる加害性、圧迫された環境で開花する異常性、才能、精神異常、こんなものを好く?頭のイカれた奴らの所行だと思った。

気味が悪くて仕方なかった。だから物書きは短命でクリエイティブで脆弱で、儚いんだと、口から血と火を吐きたくなるほど消えてしまいたいような、暴れてしまいたいような気持ちになった。



ある作家の、ある作品。

私の大好きな友人と、大好きなあの人が大好きな小説だ。

友人に、「私が一番好きな本。あの人もそう言ってたから、読んでみて」と言われた。私はあの人が大好きでたまらないのに、なぜかあなたにそう促されたのが悔しかった。まるであなたと私の好きな人が運命の糸で結ばれているような、そんな宿命に包まれているような気がしてならなかった。

そんな私は早速図書館へ行ってその本の所在を検索した。電車の発車時刻まであと30分。忘れ物を取りにも行きたかったので、急ぎ足でカウンターを通り過ぎコンピュータで請求番号を調べ、開架書庫へと向かった。

文庫本を想像していたけれどそれは思ったより分厚くて、表紙もどことなく子どもらしさを感じる一冊だった。迷うことなくそれを手に取り貸し出し手続きを終え、電車に乗った。乗る前に、煙草を1本コンビニの横で吸った。吸い終わった時にはベンチに座っていた友人らが居なくなっていて、私はこういうところで他人が当たり前に歩んでいる道や、交流、社会から少しずつ外れて落ちてゆくのだと思った。あと一歩横に逸れてしまえば、崖から転落してしまう。そんな道を歩いていると、不運か私の馬鹿か、道が崩れて暗闇を落ちてしまうような、そんな感じがした。


最寄り駅へ到着すると、知り合いの先輩がふたりいたので少しだけ会話をして分かれた。ふたりの内ひとりは私のことを気になっているんじゃないだろうか、とまた馬鹿なことを考えていたのだけれど、なんだか今日は素っ気ない気がした。まあどうでもいいか、と思った。

行きたい喫茶店は定休日だった。ああほんとうにこういう所なんだよな、と少しだけ嫌気が差しつつそれならばと別の喫茶店を探す。あまり派手なところは好まないけど、小さすぎて店主と私の距離が狭いところは本の世界に入り込めないからと、こだわりを持ちつつ検索していると良さげな所を見つけたので歩を進める。


そこはビルの2階にあった。お洒落な居酒屋っぽい雰囲気もあったけれど、喫茶店と書いてあったインターネットの文字を信用してドアを開けると、オーナーらしき人がソファに座っており、私と目が合うと「すみませんサボってました、どうぞお好きな席へ」と促した。素直な人だと思って、カウンター席と少し悩んだけれど窓際の席に座った。

座るとメニュー表を持ってきてくれたが、どうにもお酒の種類が多いように思えて「すみません、ここって居酒屋ですか?」なんて変な質問をしてしまった。「一応、喫茶店です。でもお酒、ワイン、ウィスキー、なんでも置いてます」と変な答えをしてくれた。いいお店だなと少し心が弾むのを感じて、アイスカフェラテと季節のデザートを注文した。季節のデザートはレアチーズケーキだった。私はチーズケーキに目がない。


鞄から本を取りだし、早速読書を始めた。飲み物を持ってきてくれたり、入店直後のトンチキな会話のせいで若干会話が弾んでしまった。マイルームを再現したような店内に、こだわり抜いた食材の話、色んな話をしてくれた。よく喋る人だと思ったけれど、きっと悪い人ではない。私が読書に耽ってからは一言も話しかけることなく、放っておいてくれた。いいお店だなと、改めて思った。


そこで本題の、あの小説だ。

身近に好きだという人が二人もいるんだ、きっと多くの人に読まれている本なのだろう。もっとも、私の通う大学がその作者の出身大学だからなのかもしれないけれど。


とある奇妙な事件と、その生き残りの女の子。内にイマジナリーフレンドを持つ男主人公の話だった。二人の出会いは偶然のように思えて人工的で、不可解な事件かと思われたものは人が人に歪な感情をもたらした事で招いた出来事、という結末だった。

頭にこびりついているのは、その男女のやり取りだ。自分を粗末に、けれど愛しているような、それも殺したくなるほど、そんなおかしな人に愛情を感じてしまう頭のおかしな女と、それを全て承知の上でその頭のおかしな女を愛してしまう男とそれぞれの心情が事細やかに文章で綴られていた。共感できる部分や、自分も経験したことのある部分があったが、そう思いたいのは私自身が多くの人に読まれる小説の登場人物になりたがっているような、承認欲求が呼び寄せているものに思えて、その思惑を打ち消しながら読むことにした。

けれどどうしてもわかってしまう自分がいた。


その場にそぐわない、後で自分を不幸や窮地に貶める発言を頭の中で反芻し、言うわけが無いと思っていながら口から出てしまうこと。

抑圧された環境で何かを燃やすこと、燃やしてくれる火に惹かれる気持ち。

自分の前で、自分を殺そうとするほど狂いかけている、人道を外れて堕ちかけている人に満足する気持ち、もっともっととその先を欲しがる気持ち、そうすることで愛を感じてしまう壊れかけの心。

退屈な毎日、に慣れようとしていた自分にいつかの異常性を呼び起こしてくれそうなものに惹かれる気持ち。

だめだとわかっていても飛びつきたくなるような危なさ、恐ろしさに目を奪われる。そんな刺激を無意識のうちに愛している自分。

禁断の行為に踏み切る身近な人を弄び、愉しみ、馬鹿にしては困っている相手をさらに虐めたくなるような、倫理観の欠片もない精神。

どれも思い当たりがある、ような気がした。


男を魅了してしまうほどの、女の危うい魅惑。破壊的衝動を誘う美しさ。それにすっかり翻弄される主人公。

悔しいのか、嫉妬しているのかわからなかった。あの人が好きなこの本をすきな友人に嫉妬しているのか、こんなものが書けてしまう作者の才か、私には無い人を惹き込む女の魅力に羨望を抱かずに居られないのか、わからなくなって、こんな本、読むのを辞めてしまおうか。薄らとそんな思いが何度も心に浮き上がった。

主人公にとってきっと忘れられない人になったであろう女に、私もなりたいと思った。どうしてもなりたいと思った。どうしてこんなに夢中になってしまうのか分からない、振りをしたいけれどわかってしまう。のめり込んでしまう。そんな人になって、あなたにとって忘れられない傷となりずっと私のことを覚えていて欲しい。私という熱でずっと心をジリジリと焼かれて、火傷を負って今後私のことだけを想って生きていって欲しいと思った。


あの本が、最終的に男女の結婚と事件の真相を予測する結末で終わってくれて良かったと思う。

もし男が、あの頭のおかしい、けれど破壊的な魅力を持つ女を殺してしまっていたら、私はもう取り返しがつかないことになっていた気がしてならない。

殺人をも成し遂げてしまうような異常性、それを持ち合わせていたとしても分かり合える誰かがいる。愛し合える誰かがいる。例えそれが正しい愛でなくとも__。そう思えたことで、途中の私の苦しさや不安が拭われた気がした。あの本は、あの終わり方で正解だ。


解説がなくて、心の中で舌打ちしたくなった。

あの気持ちを誰かと分かり合いたい。

共感できたり、経験したことがあるような気持ちだったり、それを持っている人が他にもいるのか知りたかった。その人は、異常性を自分も持っているというのか、その異常性は普遍的であり、異常ではないというのか、はたまた自分のことは述べずにただ内容の魅力や見所を解説してくれるのか、気になった。


あの本の感想は、私の大好きな友人とも、大好きなあの人とも語り合えそうにない。


私の心の奥底に眠っている化け物が、友人にもあの人にも居たらと思うと、恐ろしくて、今までのようには関われないような気がした。

あの二人はどうしてあの本が一番好きだと言えたのだろう。どうしてそんなふうに考えたのだろう。苦しい。これから読むよ、だなんて言わなければよかった。嘘をつくことも苦しいけれど、本当の感想なんて言えやしない。どうか、無かったことに、このまま隠させてくれ。





席を立ち上がって店主を呼んだ際、「ゆっくりできましたか」と彼は言った。私は笑って「おかげさまで」と答えて勘定を済ませ、店を後にした。

また来ます、このビルに喫煙所はありますか、どれか言葉として私の存在を少しでも残していこうかとも考えたが、やめた。

読了後の後味の悪さは、その頃には消えていた。

残っていたのは、ただふわふわした足のつかない浮遊感と、膨大な情報の処理によって働きが鈍っている頭の軽さだった。


ビルを出ると辺りは日が沈んでおり、飲み屋街特有のオレンジ色の光で溢れていた。

煙草を吸おうと思った。

残り一本しかない潰れた箱をポッケにコンビニにより、同じ銘柄のものを一箱買った。

駅にある喫煙所へ入り、一本吸い終わるまで、スマホを触ることもせずただ煙草の味と喫煙所から見えるビルの窓のあかり、一羽だけ見たムクドリ、まだ青さを感じさせる暗い空をぼんやりと眺めた。

だれか、誰か、喫煙所へ入ってこないかと思った。

私が待っているのは一体誰なんだろうと思った。

わたしの人生を変えてくれるような運命の人、いや、もはや悪役でも殺人鬼でも、恐ろしく顔の整った人でもなんでもいい。ガラッと一転させてしまうほどの何かを、だれかを私は喫煙所で待っている。

そんな自分がいると、私は再認識した。

私が煙草を吸っている理由はそれなんだと、頭のどこかで考えていた。

このいい様なわるい様な気持ちを抱えて一人で家に帰ろう、と思った。

厚底のサンダルのせいかしら、地下道の天井がいつもより頭の近くにある気がした。

自転車に乗って浴びる夜風が、すこし涼しいものに思えた。

私は今、ソファに寝転びこの文章を書き綴っている。



あとで、一本煙草を吸おうと思う。