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アラカンな私が、平均的な生活をずっと送ってきたので、この歳で少しでも個性的な生き方をしてみたいと、始めたブログです。
野菜の話が多いかと思います。詳細はプロフィールをご覧ください。
また、2月末より私の実家の片づけでの経験をシリーズ化しております。
戦前から戦後のモノのない時代を生き抜いた「モッタイナイ」精神のかたまりである亡父が集めたモノとの闘いの記録です
初めての方はこちらから、お読みください。
私の実家はちょっとしたお店でした。
私の実家がある地方ではその当時はなかったのですが、今でいうところのコンビニのようなお店でした。
もちろん母だけのお店なので、24時間365日開けているわけではありませんでした。
家の玄関のあたりを改装して作った小さなお店です。
タバコ、お菓子、パン、ソーセージや冷凍した食材、アイスクリーム、ジュース、文房具……
その後、クリーニングや宅配の受付も始まり、写真現像の受付もしておりました。
閉店はだいたい20時。
母が用事がある時はお店が閉まっている、という感じでした。
ただ、閉店しても、どうしても必要な場合はお店の脇にある玄関からお客さんが入ってきておりました。
特に明日から学校の新学期が始まる時や日曜日の夜など、文房具や給食当番用の子ども用マスクなどを買いに来るお客さんが多かった記憶があります。
話好きな母には友人も多く、お店はお客さんというか、おしゃべり仲間というか、そういう人たちで賑わっておりました。
そんなお店なので、たまるのが仕入れる際に商品が入っていた段ボールです。
父が元気な頃はまだ規則もなかったので、庭の一カ所でそれらの段ボールを焼却しておりました。
夕方になる頃、一日で出た段ボールを焼く父の姿を良く見かけました。
母がお店を始めた頃はまだサラリーマンだったので、それが会社から戻ってからの仕事でした。
その後、父が退職し、本格的にお店を手伝い始めた頃が一番お店が賑わっていた頃だと思います。
その頃は私も就職をし、結婚して家を出るという人生で少し忙しい日々を送っておりました。
子ども達を連れて実家に遊びに来ると、子ども(父から見れば孫)達と一緒に段ボールを焼く作業を行っていました。
子ども達はダンナの実家では畑作業で出た雑草や木切れを焼く作業を手伝っていたので、段ボールを焼く手伝いなんて手慣れたものです。
それから30年近く経って……
実家を片づける段になって私の前に立ちはだかったのが大量の段ボールでした。
晩年、父はお店をほとんどしていなかったのにも関わらず、ものすごい量の段ボールが溜まっておりました。
その頃は庭で段ボールを焼くことが禁止されていましたので、段ボールは廃品回収に出していたようです。
ただ、お店を少しでもしている以上、普通の家庭よりは段ボールの数が多かったのだと思います。
また、父は工作するのが大好きでした。
ちょっとした工作は段ボールで作っていましたので、そのためにも溜め込むことをしていたのだと思います。
そんな倉庫に溜まっていた段ボールを片づける担当はウチのダンナでした。
実家に行った日はひたすら段ボールを取り出し、ヒモで結んで、段ボール回収の場所へ持っていく、ということをくり返しておりました。
そんな段ボールの片づけに大きな問題が一つありました。
今ではどんな段ボール箱でもほとんど見かけないのですが、昔の段ボール箱は大きなホッチキスの芯のような留め金で止めてありました。
少し重たいものを入れる箱は必ずと言っていい程です。
段ボールを回収場所へ持っていくためには、これらの留め金を外す必要があります。
一つ一つペンチで挟んで外すのは大変です。
段ボールなので若干破りながら外していく方が早いかもしれません。
ヒモで結べないほどに小さくしては元の子もないので、慎重に段ボールを破ったり切ったりしながら金具を外します。
量が半端ないので、一日にできる量は少しです。
ですが、実家に来るたびにくり返して、できた分を夕方に出しに行くことをしているうちに、何とか完了することができました。
ビンの片づけの時にも思いましたが、昔のモノは昔に捨てるべきだったな、ということです。
留め金は金属としてくず鉄屋さんに引き取られていきましたけど……メッチャクチャ大変だった作業の一つです。
今日も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました