こんにちは。。。台風がゆっくりでなかなか進んでくれず、大きな被害が予想されるので、対策は万全に被害が小さくなるようみんなで願いましょう。

 

 さて台風が来るということはそろそろ秋が近づいてきています。秋は人恋しくなりますよね。今年の夏は暑かったので、日に焼けてシミも増えてしまった方もいると思います。人と会う時にシミだらけだと恥ずかしいですよね。

 

 まだまだ暑くなると思いますが、そろそろシミの治療を始めていくとシミだらけの老けた顔にならないので、ご興味がある方はぜひ当院の美容外来へお越しください。

 

 さて、延び延びになってしまっていた「書道家の息子が医師になるまで…」第3弾です。

 

 野球に夢中になっていた小学校高学年でしたが、勉強の方は5年生からなぜかうちの親が近くの個人でやっている小さな学習塾に入れ、そこに週2回通うことになりました。

 

 1クラスは7,8人。違う学校から来ている人もいて、女の子が多く、男は2,3人。ほかの生徒はほとんど中学受験を前提として通っていました。自分は中学受験などすることも考えていませんでしたが、ほかの人に負けたくないので何とか宿題などをこなしていくと、このころはそんなにうちの学区は進学に熱心ではない子が多かったので、成績はオール3からオール5(満点)に変わっていきました。

 

 学区の公立中学に入学し、当然のように野球部に入部しました。同学年の子は20人入部しました。

 

 当時は1年生は全く練習をさせてもらえず、ボール拾いとボール探しとグラウンド整備と試合では応援をすることしかやらせてもらえませんでした。親はキャッチボールすらやってくれなかったので、僕は野球部の同級生の父親に頼んで、部活が終わったあと、夜にピッチング練習やトスバッティングを週2~3回付き合ってもらってやっていました。(多分同学年でも自主的に練習していたのは僕だけだったと思います。一応プロ野球選手になる努力していました。)

 

 1年の夏が終わり、3年生が抜けていくと、2年生の〝天下”になります。そうするとようやく練習中にキャッチボールをすることができます。しかし、その時期に大問題が2つ起こります。

 

 1つは2年生からいじめ。2年生全員がそうするわけではなく、ほとんどの先輩は優しかったのですが、2年の先輩の中に〝や〇ざ”の息子が2人いて、その先輩が気に入らない後輩を部室裏に呼び出して、金属バットで「ケツバット」をします。また、年に2~3回「儀式」として、1年生が横一列に並ばされ、次々に「ケツバット」をされるということもありました。そのあとみんなで泣いてました。

 

 当時は今と違って、そういうことを先生や親に告げ口することはご法度だったので、みんな黙ってその仕打ちに耐えるしかなかったです。(「ケツバット」はある意味とても優秀でものすごく腫れて内出血がひどく出ますが、骨折や肉離れなどは起こらないため、病院に行くこともできず、1~2週間ひたすら痛いのを我慢するしかなかったです。)

 

 でもここで〝ただでは転ばない”のが僕のいいところで、小学生時代にピッチャーをしていて、コントロールがよかったので、怖い先輩のバッティング練習の時に、ピッチャーをして、その先輩の得意なコースに投げるといい当たりをして、機嫌がよくなるので、同学年の中でも2番目に「ケツバット」をされるのが少なくて済みました。

 

 そういうことで、そういう嫌な人とうまく付き合う方法を学びました。(その経験は社会勉強になり、働き始めてからもすごく役に立ちました。)悪い経験も今となっては必要だったのかもしれません。いじめは絶対だめですけど…。(今では考えられないですよね。)

 

 もう1つはピッチャーの決め方。当時の顧問の先生は前学校でバレー部の顧問をしている人でした。その人が急に野球部の顧問になりました。最初は以前からいたコーチなどの意見を聞いていましたが、そのうちそういうコーチがいなくなり、その顧問だけになりました。

 

 その顧問が3年生が抜けた後のある日、「1年の中でピッチャーを決めるからキャッチボールをするように。」と言われ、1年生が並んでキャッチボールをしました。

 

 一通り顧問が見て回った後、ピッチャーが発表しました。結果は…背の高い順に3人!?(僕は背の高さはその当時は真ん中くらいでした。)

 

 僕は小学校時代からピッチャーをしていて、自信もあったので、当然納得がいかないけど、昔は先生は絶対的な存在だったため、文句も言えませんでした。

 

 そして、背の大きくなかった僕は、肩がよく、勉強の成績がよかったため、(たまたま1年の1学期の中間テストで150人中1位を取ってしまった。)キャッチャーにされました。

 

 今でこそキャッチャーは故野村克也監督や古田敦也選手などの活躍により地位が上がりましたが、当時は「ドカベン」という漫画の主人公みたいに「デブがやるポジション」というイメージで、目立ちたがり屋だった僕にとっては、最大の屈辱でした。

 

 ピッチャーの決め方や自分が気に入らないキャッチャーにされ、先輩には「ケツバット」をされる三重苦が重なり、徐々に野球をすることに嫌気がさしてしまいました。(1年の中でピッチャー3人とキャッチャーの僕の4人のみが2年生の練習に参加できていて、そのほかの同級生はまだ球拾いしかさせてもらえなかったので、それでも恵まれていた方なんですけどね。当時はそんなことを考えるほど人ができていなかった。)

 

 何とか上級生の2年〝天下”の1年が過ぎ、ようやく僕らの〝天下”がやってきました。(ちなみに小学校時代から一緒に野球をしていた上級生のA野さんは野球推薦で静岡高校に進学しました。僕の憧れでした。)〝天下”になっても、またいろんなことが起こります。

 

 と今回はここまで…。また気が向いたら書きます。それではまたね。。。