こんにちは。。。梅雨に入りましたが、あるあるで梅雨に入ると雨が降らない…。笑。しかし気温は今日も静岡は35度近くまで上昇し、着々となつが近づいてきています。夏バテしないように頑張っていきましょう。

 

 当院は、静岡市でも皮膚腫瘍の手術を結構しているところだと思うのですが、手術をしたあとに、結構な確率で言われること。それは

 

「こんな簡単に取れるなら早くやっておけばよかった。」という言葉。

 

 皆さん手術と聞くとすごく大事(おおごと)と思われますが、手術もピンキリ。

 

 ほくろや粉瘤などの皮膚腫瘍は決して自然に良くなることはなく、むしろ大きくなります。

 

 よく「大きくなったら取る。」や「これくらいなら放っておいていい?」という方がいらっしゃいますが、大きくなってから手術すると傷跡も大きくなり、麻酔で注射する回数も増えるので、手術される側にいいことは一つもありません。

 

 ですから、気になる皮膚腫瘍があるときはまず形成外科と書いてあるクリニックに受診することをお勧めします。皮膚科では必ずしも手術はしません。

 

 また、手術に季節は関係ありません。夏でも汗をかいても治りが悪くなることはないし、シャワーは原則毎日浴びることが可能です。

 

 ですから夏でも小さいうちに手術をすることをお勧めします。

 

 さて書道家の息子が医師になるまで…第2弾です。

 

 小学校4年生になって、軟式野球に目覚めて野球ばかりしていると、運動神経もよくなり、当時昼休みにやっていたドッジボールはいつも目立っていました。

 

 小学生はドッジボールがうまい人がモテるので、その年のバレンタインデーは15個いただき、クラスでトップ(自慢です。)でした。当時のK山先生にも終わりの時間に言われて、かなり天狗になったのを覚えています。

 

 一方勉強の成績は体育と図工は5段階で5。音楽が4。それ以外は全く勉強をしていなかったので国語、算数、理科、社会はオール3で全く優秀ではなかったです。

 

 5年生になると、頑張っていた軟式野球に成果が出てきて、たまに6年生に交じってファーストなどで試合に出れるようになってきました。(当時5年生で試合に出ていたのは僕だけだった気がします。)

 

 そのチームには6年生にA野さんがいて、野球が抜群にうまく、5年生から完全レギュラーでみんなのあこがれの的でした。(A野さんはのちに静岡高校でも野球部のキャプテンになり、現在は静岡県内の某ノンプロの野球部監督をしています。)

 

 たまに5年生同士の試合も組まれ、その時はキャプテンでピッチャーで4番というA野さんほどではなかったですが、エースになっていました。

 

 しかし、そうすべてがうまくいっている期間は続きませんでした。

 

 5年生の途中からO田君が入団してきました。O田君は僕よりも背が高く(それまでは僕が5年生の中では一番背が高かった。)、球も速くピッチャー向きで、バッティングもよい、まさにエースでした。

 

 6年になると当然O田君がピッチャーで4番。それに当時の少年野球団のキャプテンは、父親が試合や練習の時に必ず来ていろんな世話をしてくれる人が選ばれるのが暗黙の了解で、うちの父親は書道教室をしているので、土曜日や日曜日に野球団の手伝いをすることができないため、キャプテンにもなれなくなってしまいました。(キャプテンはショートを守っていたT永君になりました。)

 

 1年でキャプテン、ピッチャー、4番のすべてを奪われ、当時は父親の仕事のことなどわからず、父親に「お父さんのせいでキャプテンもピッチャーも4番もなれなくなった。」と泣いて困らせたことをよく覚えています。

 

 それでも野球が好きだったので、腐らず野球の練習はまじめにやり、サードで3番か5番。たまにO田君が調子が悪いと4番やピッチャーをやらせてもらうこともありました。

 

 だから小学校時代は将来はプロ野球選手になることしか考えてませんでした。

 

 今日はこの辺で…。それではまたね。。。