4.4 思考の基本レベル

・対象のIdeaが何を含んでいると解しているかを説明する。

・対象のIdeaはそのような諸対象の世界についての概念理解の一部であり、基本的な仕方で互いに区別される。

・すべての対象に対して、「この種類の対象がひとつではなく二つあるということを証拠立てるのは何か」という問いに対しては一般的な解答が存在する。

・例えば、色はその現象的性質によって、形はその幾何学的性質によって、集合はそれらが異なるメンバーを含んでいるということによって、そのメンバー同士は無限列における互いの位置によって、チェスのポジションは盤上における駒の位置によって。

p.107

・時間的な諸対象の場合には、何が或る対象を他の対象から或る時点において(at a time)区別するのかという問いへと移行しなければならない。

・或る空間的対象を他のものと或る時点において区別するのは、それらがその時点において特定の空間的位置を占めることであると考えるのは誤り。二つのGという性質は同時にひとつの位置を共有することはできないかもしれないが、ひとつのGは他のものと位置を共有することができる(例えば、彫刻と粘土の欠片)。これらを区別するには、(1)その時点でそれが占める位置、だけではなく、(2)それが彫刻であるという事実、も引き合いに出す必要がある。

・いかなる対象にも、その対象の差異の基本的根拠(the fundamental ground of difference)と呼ばれるようなものが存在する。これは「その対象を他のものと区別するのは何か」という問いに対する特定の答えである(3は数列の三番目であること、正方形は直角に結合した四つの等しい角をもつこと)。

・或る対象が差異の基本的根拠の担い手であるとみなすならば、当人はその対象の基本的Ideaをもつ。こうした基本的Ideaは定義上、対象の弁別的知識を構成する。

p.108

Gという対象の基本的Ideaは、Gを含む事態についてのわれわれのすべての概念理解に入り込んでいなければならない。基本Ideaが前提とされなければ、ひとつの対象についての思考は成立しない。

・「Gの一部はFである」という形式の命題は、[δはFである]という形式の命題の真によって、真を与えられる。δはGのひとつの基本的Ideaを表す。

・「Gの一部はFである」という思考は、この種の([δはFである])単称命題が真であるという思考である。

・「Gの一部はFである」という存在言明が真であると概念理解するのは、単称諸命題の空間的部分集合の成員がもつ真理のおかげであり、この単称諸命題とはGの基本的Ideaの使用によって抱きうるようなものである。

・この存在言明は上の部分集合の選言ではない。Gすべての基本Ideaをもたなくとも、「Gの一部はFである」という思考を把握することはできる。

・特殊‐命題の関連する系列(「…はGである」の「…」に単称名辞が入るような命題の系列)を把握することは、Gがそこにおいて互いに区別されるような一般概念によってなされる。特殊‐命題とは、その内容の詳述が単称名辞の使用を含むような命題である。

p.109

・以上が正しければ、Gにも適用可能な、Fであることの概念を持つためにはどんな知識が要求されるのかを非常に一般的に述べることができる。

・それは、特殊者Gの基本Idea δを所有することを構成する知識と結合したとき、[δFである]という命題が真であるとはどのようなことかについての知識をもたらすような知識である。

・これは、少々不正確に言えば、[δはFである]という形式の任意の命題にとって真であるとはどのようなことかについての知識である。

p.110

・同様の論点は特殊-思考にも適用可能。

・対象a‐の‐非‐基本的Ideaを含んだ「aFである」のような特殊‐命題を、「Gの一部はFである」といったたんなる存在命題から区別するのは次のものである。

・含まれている思考‐要素の本性の問題として、その真理が特殊‐命題を真にするような[δはFである]という形式の命題が高々ひとつ存在する。どの基本命題([δはFである]という形式の命題)が特殊‐命題の真理と固有に関連するかはIdea aによってあらかじめ決定されている(或るδと[δ=a]という形式の事実を結ぶということによって)。

・それゆえ、主体のもつ対象a‐の‐Ideaは、[δ=a]という形式の任意の命題にとって真であるとはどのようなことかについての知識から成るとみなすことができる。

・空間‐時間的対象を考察するためには、時間相関的な基本的Ideaと時間相関的な特性を扱わなければならない。

Ftであるという性質の概念を所有しているということは、[δt [is] Ft]([]はその中に含まれる動詞が無時制であることを表す)のような形式の任意の命題が真であるとはどのようなことかを知っているということである。

・[δt’ [is] Ft](tt’)のような形式の命題の場合、主体には時間を通じての対象の同定条件についての知識が必要とされる。このような命題が真であるとはどのようなことかについての知識は、[δt=δt’]と[δt [is] Ft]の結合であり、[δt=δt’]が真であるとはどういうことかについての知識が対象の同定条件についての知識である。

・対象の非基本的Ideaも同様に扱える。

・[a [is] Ft]という命題の真は、[δt’a][δt’=δt][δt [is] Ft]という三つの命題の真によって与えられる。

p.111

・〈或る命題にとって真であるとはどのようなことかについての知識〉がいまだ不明瞭なままに残されている。

・しかし、ここまでの提案はわれわれの思考がいかにして一般性制約に従うのかを理解させる。

・対象のIdeaが対象の基本的Ideaである場合、[δ is F]という命題の真についての知識をもたらすのにFであることの概念についての知識が直接適用可能。

・対象のIdeaが対象の非基本的Ideaである場合、[a is F]の真は、[δ=a][δ=F]それぞれの真によって与えられる。

p.112

・[δ=a]の同定の真について主体が知っているならば、彼のもつ〈Idea a〉と〈概念能力の全範囲〉との間にはリンクが生まれ、彼はFであることの概念を持っているのと同数の[a is F]という命題を把握することができる。ここでIdeaと概念は基本レベルにおいて接触している。

Chapter 4

Russell’s principle

4.1 その意味と重要性

p.89

ラッセルの原理

「主体は自らの下す判断がどの対象についてのものであるかを知ることなしに、何かについて判断を下すことはできない」

・ラッセルの原理は或る特殊な個体(特殊者)としての対象についての思考を主体に帰属する場面に関わる。

・ここに表れているような知識(「知る」)はいかなるものであるのか?

・ラッセルの原理を実質的なものにするために必要とされるのは、その知識を実際の発話行為によってもたらされる「どれがそれであるか」についての知識としてではなく、「弁別的知識(discriminating knowledge)」とみなす解釈である。すなわち、主体は自らの判断の対象を他のすべてのものから弁別する能力をもたなければならないのである。

・弁別可能性の十分条件

①現在において主体が対象を知覚できるとき

②もし対象が提示されたならば、主体がそれを再認できるとき

③対象についての識別的な諸事実(distinguishing facts)を主体が知っているとき

p.91

・これら三つの弁別能力(①直示的同定、②再認に基づいた同定、③記述的同定)の統一性についての理論的考察が必要。

・弁別的知識の概念がラッセルの原理を介して思考や判断の概念と結び付けられるような理論を与えることによってのみ、弁別的知識についてのよりよき理解は得られる。

p.92

・直示的同定の境界についての問いに答えるために、ラッセルの原理の擁護が必要とされる。

・直示的同定に関連する様々な問いがあり、それらは容易には見通しがたく思える(「対象の知覚はつねに主体に対してその対象についての弁別的知識を与えてくれるのか」、「写真によって見られたりラジオによって聞かれたりした対象を主体は直示的に同定しうるか、それともそのような対象については記述的に思考しなければならないのか」)。

・同定や弁別的知識といった概念は、ラッセルの原理を媒介して、思考の帰属と結びついている。それゆえ、これらの問いは単なる用語上の問題ではなく、真正なものである。

・なぜ特殊な個体についての思考や判断に対して課せられる要求を探究することが問題となるのか?

・なぜなら、〈個体についての思考〉という概念は〈個体についての言明の理解〉という概念に結びついているから。

aFである」というラッセル的な指示表現を含んだ文の発話を理解するための必要条件

=当の指示対象について思考をもつ、あるいは判断をなすこと

(これはそうした発話を生み出すための必要条件ではない。なぜなら、自身が適切に理解していないような言語的装置を用いて主体が発話を生み出すことも可能だから。ソクラテスについて情報基盤的思考(後述)をもつことはできないが、にもかかわらず固有名「ソクラテス」がもつ言語共同体における役割に応じた適切な使用が可能)

p.93

4.2 検証主義と理想的検証主義

・ラッセルの原理についての理論的説明の一形態としての検証主義について考える。

・検証主義者にとって、対象の同定についての基本的な様態は直示的様態である。

・他の様態の同定が同定であるのは、それが直示的に同定された対象を――それが関連する対象であろうとなかろうと――決定する実効的手続きを構成するからである。

・主体が或る対象に決定可能性の基本的な層の一部を適用することを決めることのできる立場にいるならば(主体が対象の現前を利用して自らの直示的思考の真偽を決定することができる立場にいるならば)、その主体は対象を直示的に同定することのできる立場にいることになる。

・直示的思考の場合、弁別的知識はある現前する出来事をその思考の真偽を決定するものとみなす主体の傾向性に存する。

・それ以外の場合、弁別的知識は部分的に主体の再認能力からなる。ここで働くのは「二段階検証手続き」であり、この第一段階は「これはaである」という判断によって、第二段階は「これはFである」という判断によってもたらされる。

・「これはaである」という命題の真理値を決定する二つの方法:①記述的同定、②再認への傾向性(ダメット)(=再認に基づく同定)

p.94

・それゆえ、検証主義は上述の三つの種類の弁別的知識に関する区別を与えることができる。

・しかし、無論ラッセルの原理は検証主義のそれではない。

・対象が真であることが実効的に決定可能でなかったとしても(検証主義者の挙げる条件が満たされなくても)、ラッセルにとって、個体化する事実の知識は弁別的知識とみなされるだろう。

・ダメットはこれに対して反論するだろう。実在論者の枠組みでは検証主義的解釈が一定の妥当性をもつ、と。実在論は理想的検証主義(普遍量化を含んだ文において、ドメインをサーチする能力は無限の能力となるが、こうした理想的条件を許容するような検証主義)を要求することによって自らを保持する。

p.95

・理想的検証主義モデル(IVモデル)は以下の問題点をもつ。①われわれの思考の重要な諸側面を極端に不自然な形でしか組み込むことができない。②それらの諸側面は他のモデルによってよりよく組み入れられる。

p.96

・①を考察するために、微視的な対象へと思考を拡張することの容易さを考える。

IVモデルは微視的対象との可能なエンカウンターが意味をなすように要請される。

・ダメットはこうした対象へは意味(sense)のアナロジカルなモデルしか適用されないと考えていた。

・しかし、ダメットは同時に、①自らがそのなかに存在することによって直示が成立するような事例(都市や太陽系についての判断)、②或る対象の道具を媒介して同定がなされるような事例、へと直示的同定を拡張できると考えていた。

・このような直示的同定の拡張は真偽の決定に対する結びつきを取り除いてしまう。

・検証主義的モデルは対象の思考のすべてを被覆するようなモデルとなるには不十分。

p.98

・抽象的対象の名前、過去時制の命題についてもダメットのモデルは問題含みである。

p.99

・現前していない特殊な対象についての思考を抱く者は、彼の思考がそのなかでその特殊な対象に的を絞っているような事態を概念把握している(conceiving)(想像している)。

・主体が行う時間的‐空間的対象を含んだ概念把握に対して本質的なのは、彼の思考が関わっている対象がどこかに存在するということを概念把握することである。

・空間的世界についてのわれわれの思考はモデルや地図を必要とする。

・抽象的対象の名前や過去時制の命題については、モデルや地図が重要な役割を果たすのであり、それらにまで直示的同定の概念を拡張する必要はない。

p.100

4.3 一般性制約

・概念把握の本性について、われわれのすべての反省のなかに観察されるに相違ないひとつの根本的な制約が存在する。それは「一般性制約」である。

・そのなかで諸々の思考が構造化されているようなひとつの意味(sense )が存在しなければならない。「ジョンは幸福だ」という思考は「ハリーは幸福だ」という思考と何か共通なものをもち、「ジョンは幸福だ」という思考は「ジョンは悲しむ」という思考と何か共通なものをもっている。

・これは「思考の言語」という考えを導くかもしれない。しかし、思考を要素的なシンボルの操作として説明することへコミットすることは避けたい。

・むしろ、諸々の思考が構造化されるひとつの意味を、〈それらの思考はいくつかの異なった概念能力の行使の複合である〉という観点から説明したい。

・「ジョンは幸福だ」と考え、さらに「ハリーは幸福だ」と考える者は、それら二つの機会において、「幸福の概念の所有」と呼ばれるような同一の概念能力を行使している。同様に、「ジョンは幸福だ」と考え、さらに「ジョンは悲しむ」と考える者は、それら二つの機会において、ジョンについて思考するという単一の概念能力を行使している。

p.101

・主体による‘Fa’という文の理解は、二つの能力(彼による‘F’の理解、ならびに‘a’の理解)の結果であると言うとき、われわれは〈その主体が理解できるであろう他の文についての予想〉へとコミットし(‘Fa’と‘Gb’についての理解から‘Fb’と‘Ga’が予想できるように)、さらには、〈いくつかの異なった文についてその主体がもつ理解に対する、部分的ではあるが共通な説明が存在するということ〉へとコミットしている((‘Fa’と‘Ga’についての理解に対する共通の説明と、‘Fa’と‘Fb’についての理解に共通の説明が存在し、その共通の説明は――彼による‘F’の理解、ならびに‘a’の理解という――状態に中心を置く)。(一番目を合成性、二番目を分析性と呼べるかもしれない)。

p.102

・これら合成性と分析性は文だけではなく思考に対しても適用しうる。

・「aFである」という文に含まれる二つの能力は、分離可能ではあるが、ひとつの(全体的)思考においてのみ行使されうる。(語に対する文の優越性においても然り)

・文は必ずしも構造化されている必要はないが、思考は必ず構造化されていなければならない。(規約によって構造化された文と同じ意味(meaning)を担わされた一語文を想像せよ)

・「私は痛みを感じている」という内容を主体の内的状態に帰属することができるのは、その主体が〈誰かにとって痛いとはどのようなことか〉についての考えを有し、さらに当の内的状態がこの考えの行使を含んでいる場合である。

p.104

・主体が「aFである」という思考をもっていると認めうるならば、彼がそれについての概念理解をもっている「Gである」のあらゆる特性に対して、彼は「aGである」という思考を抱くための概念的な資源を持っていなければならない。これが「一般性制約」の条件である。

Idea=特定の人物の概念能力であり、トークンのレベルにある(ギーチからの借用語)

Fregean sense=誰の把握からも客観的に存在し、タイプのレベルにある

p.105

・一般性制約を犯すような危険は、「或る人のもつ信念がしかじかの対象についてのものであるということを事実にするのは何か」という問いに対して排他的に注意が向けられたときに生じる。

・ドネランはこの問いに対してあらましこう答える。「aFである」という言葉によって自然に表現されるような信念状態が対象xについてのものであるのは、〈何かが‘F’を充足する〉という主体のこの信念に対してxが――適切な仕方で――因果的に応答可能な対象であるとき、かつそのときに限る。

・これは信念の表出にのみ制限されており、一般性制約に違反している。一般性制約のもとでは、そこで行使された概念能力は信念の表出以外の他の様態においても行使されうるのでなければならない。


ミュラーの特殊神経エネルギー説を導いた動因のひとつに、質的には異なっているはずの刺激が同一の感覚受容器官を触発し、同一の感覚様相に属する感覚を生じさせる、という事実がある。例えば、瞼を閉じてその上から眼球を圧迫すると、圧力刺激の変化に応じた色の変化が見える。質的にはまったく異なり、通常は別々の感覚器官に働きかけると考えられているはずの圧力と光というふたつの刺激が、同一の感覚様相に属する共通する感覚を生じさせるのである。こうした事実をひとつの引き金として、ミュラーはそれぞれの感覚器官に固有に備わっている「特殊神経エネルギー」が存在するという仮説を導いたのである。


アルヴァ・ノエは『視覚的意識の大脳基盤について:感覚運動的説明』というケヴィン・オレガンと共同執筆した論文において、ミュラーの仮説やその現代版(特殊神経エネルギーではなく神経経路の特殊性に訴える説)に反対し、感覚器官の内側に伸びる神経的過程だけでは感覚様相の差異を説明することはできないとする。それに代えて、感覚様相の差異は感覚運動随伴性によって、つまり、環境のなかで行われる、異なった諸感覚とそれに関連した運動の経験的随伴性の形成によって初めて与えられるとするのである。しかし、その説明はいまだ略図の域を出ないものであり、ミュラー説に対する批判の論点も不明確である。例えば、感覚運動随伴性によって感覚様相の差異を説明することはできたとしても、今度は異なる刺激が生じさせる感覚の同一性をどうやって抽出することができるのかについての説明が残されている。皮膚上の冷点を50℃の物体を用いて刺激すると、温感ではなく冷感が生じるが、こうした事例をノエの依拠する感覚運動随伴性によってどのように説明することができるのだろうか。

 伝統的に「感覚は欺かれやすい」と言われてきた。実際、錯視を例にとるまでもなく、われわれの知覚がもたらす知覚判断はしばしば知覚対象の「本当の姿」と食い違う。だが、欺かれるのは本当に「感覚」なのだろうか。もしそうなら、錯覚が生じた場合、感覚とその判断は矛盾しているはずである。しかし、感覚と判断とは矛盾することはできない。なぜなら、矛盾が生じるのは関係する項が文同士の場合に限られるからである。判断にもたらされる以前の感覚はたんなる事実であり、矛盾関係を構成する文としての資格をもたないのである。事実の世界には矛盾も否定もない。したがって、錯視において欺かれるのは感覚ではなく、その感覚に基づいた判断の方なのである。たとえば、ミュラー=リヤーの錯視の場合、見えにおいては二本の線の長さは異なっていると判断される。だが、実際に物差しを当ててみれば、二本の線の長さは同一であることがわかる。長さという対象の特性に関してより信頼のおけるのは、見えによる視覚的な長さではなく、測量による触覚的な長さである。それゆえ、一方に視覚的な見えに基づく判断があり、他方に触覚的な測量に基づく判断があるのだが、これらが食い違って矛盾が生じる場合、対象の「本当の姿」は触覚的な判断の方に帰属されるのである。錯視がその位置を占めるのは、感覚と判断の関係にではなく、異なる感覚様相の間に生じた異なる判断同士の関係にである。したがって、伝統的な警句の告げるところとは異なり、「感覚は欺かれない」のである。

 これは、「経験と経験判断は独立的だ」とする「信念独立性」のテーゼに対して何ほどか疑問を投げかける。知覚と知覚判断は食い違ってはいない。なぜなら、知覚者に対してすでにそのからくりが知られているミュラー=リヤーの錯視の場合においても、「二本の線の長さはどのように見えるか」と問われれば、「錯視が生じているその通りに異なって見える」と答える(=知覚判断を行う)だろうから。一方で、「二本の線の長さは本当はどうなっているのか」と問われるならば、「本当には二本の線の長さは同一である」と答えるだろう。したがって、錯視の場合においても経験と経験判断は独立的であるという結論は導かれない。錯視の場合に特異なのは、もしそれが対象の客観的特性についてなされたのであれば矛盾をきたすであろうような二つの判断が並立しているという点である。しかし、実際にはそれらは「二本の線の長さは異なって見える」と「二本の線の長さは同じである」という風に、「…見える」と「…である」という異なった語りにおいて表現を与えられており、それゆえ、それらが並立していても矛盾は生じないのである。これはエヴァンズに対する批判となり、マクダウェルに対する擁護となる論点であろう。

[1] 所与の神話はわれわれが正当化を欲するところに「無罪証明」を与えるにすぎない。所与は、自発性の範囲外から自発性に対して与えられる衝撃(impingements)であり、それが信じるように導くところの信念に対してわれわれは責を負う(be blame for)ことができない(第一講義五節)。マクダウェルはこれを次のような比喩で説明する。立ち入りを禁じられた場所へとある人が竜巻に巻き込まれ運ばれてきたとき、その事実に対してその人は責を負うことはなく無罪放免とされる(exculpated)のである(第一講義三節)。

[2] 「内的経験(=内的感覚や感情の経験)」においては気づき(awareness)の対象が気づきと不可分であるという点で、マクダウェル流の経験概念――経験とは概念能力が作動しつつある状態ないしは出来事である――を適用する際には困難が生じる。たとえば「痛み」の経験に関して、その対象は「痛みの内的な印象」であって、それを生じさせる状況である「身体的外傷」ではない。だが、痛みに適用される概念能力がまさに概念能力であることを保証するのは、異なる文脈における(たとえば第三者による)その対象の思考可能性である(第六講義五節)。しかし、痛みの対象がその「状況」ではなくその「内的印象」に限られるなら、それは少なくとも第三者には思考可能ではない。マクダウェルは「状況」を痛みの「潜在的対象」と呼んでいるが(第二講義六節)、こうした対象を二重化するような用語法自体の妥当性について必要と思われる議論をしてはいない。

Mind and World, John McDowell

Lecture 3 : Non-conceptual Content

内容要約

1.

・マクダウェルは両極的な二つの認識論的立場を採り上げ、それらをともに批判しつつ議論を進めていく。それらの両極的な立場とは次の二つである。

①整合主義………思考に対して経験が与える外的な因果的制約は認めるが、合理的制約は認めない。それゆえ、思考に対して経験が持つ正当化の役割を認めない。理由の空間の境界は概念の空間の境界と一致し、そこから経験は排除される。これは経験内容の成立する可能性を掘り崩すものである。マクダウェルによれば、こうした描像は「真空における摩擦なき回転」にすぎない。

②所与の神話……非概念的な「所与」を認め、それが思考を正当化すると主張する。理由の空間の境界は概念の空間の境界よりも広く、前者は経験を含む。しかし、マクダウェルによれば、これは正当化ではなくせいぜい「無罪証明(exculpations)」を与えるにすぎない。

・マクダウェルが主張するように、整合主義と所与の神話の間での振り子状態を逃れるためには、経験的知識を感性(受容性)と悟性(自発性)の協働として理解しなければならない。この協働は特殊なものである。すなわち、悟性はすでに感性の担い手である経験のなかに含み込まれているのである。経験はすでに自発性の能力を含んで概念化されており、経験内容は徹頭徹尾「概念的」なのである。

・経験内容が概念的であるとは、そこに現れる概念能力が能動的な思考――それ自体がもつ合理的な信憑性について反省することへと開かれた思考――においても利用可能であるということである。

・本章の主題は、この「経験内容は概念的である」という主張の擁護である。

2.

・エヴァンズは「知覚経験の内容は非概念的である」と主張する。エヴァンズによれば、経験に基づいて判断を形成するとき、人は非概念的内容から概念的内容へと移行する。概念把握あるいは判断の過程は、主体を一種の情報状態(非概念的内容を伴う)から他の認知状態(概念的内容を伴う)へと移行させる。

・情報システムは知覚(perception)・伝聞(testimony)・記憶(memory)の諸能力から成る。

・情報システムは、判断や信念といった概念能力の操作に比べ「よりプリミティヴ」である。われわれは自発性をもたない他の動物と知覚・伝聞・記憶の諸能力を共有している。

・エヴァンズは知覚経験を〈非概念的内容を有した情報システムの状態〉と同定する。エヴァンズによれば、概念能力は経験判断を行うときに初めて作動し、異なった種の内容(=概念内容)が働き出す。

・ただし、知覚経験は意識的な主体の状態であり、それゆえ知覚経験は非概念的情報状態であるが、非概念的情報状態はそれだけで知覚経験であるというわけではない。知覚経験であるためには、非概念的情報状態であることに加えて、それが自発性によって利用可能であることが必要である。

・これに対しマクダウェルの描像では、知覚経験の内容はすでに概念的である。経験判断によって、人は新たな種の内容を導入するのではなく、たんに概念内容を是認するのである。概念内容はすでにそれが基づくところの経験によって所有されている。

3.

・マクダウェル流の経験概念――経験とは概念能力が作動しつつある状態ないしは出来事である――は次の帰結をもつ。すなわち、「内的経験」であれ「外的経験」であれ、われわれはそこに現れる概念能力を多くの動物に対して帰属することができない。痛みを感じたり、環境の諸特性を知覚したりすることができるのは能動的で自己批判的な思考者だけではないが、自発性を欠いた動物は「経験」をもつことができないのである。

・経験概念を自発性の概念から完全に切り離すならば、自発性を欠いた動物にも経験概念を認めることができよう。しかし、こうした方向をとるならば、もはやエヴァンズを味方にしておくことはできない。エヴァンズの描像においては、経験は自発性による利用可能性を条件としており、経験概念は自発性の概念との広義におけるカント的な結びつきによって制御されているのである。

4.

・経験的思考に要求される外的制約を認めるために、われわれは受容性へと訴える必要がある。所与の神話に陥るのを避けるために、われわれは「受容性が自発性との協働に対してなす寄与は、たとえ名目上であれ自発性と分離可能ではない」と考えなければならない。

・エヴァンズはこのルールを尊重していない。エヴァンズの経験についての説明によれば、受容性は知覚的情報システムであり、この知覚システムは自発性のいかなる操作とも独立な内容保有状態を産み出す。それゆえ、受容性としての情報状態の操作は、自発性と分離可能な寄与をなすとされるのである。

・この場合、エヴァンズの描像における経験と概念能力との関係は、経験的知識の描像における直観と概念との関係とまさに同じものである。カントによれば、経験的なレベルにおいては、経験が諸感官を通じて取り入れるのは思考可能な領域の内部にある実在の要素であり(第二講義九節)、それゆえ自発性と分離可能な直観による経験的知識への寄与は認められない。超越論的なレベルにおいては、カントはこの分離可能性にある種の正しさを認めようとしたのだが(物自体からの触発)、エヴァンズによる経験の説明は超越論的説明を意図したものではない。それゆえ、もしマクダウェルのカント的考察が正しければ、それによってエヴァンズによる経験の説明は否定される。

・エヴァンズに所与の神話を帰すには考察すべき問題がある。カントのテーゼによれば、もしエヴァンズの考える経験が概念なき直観であるならば、それは盲目でなければならない。しかし、エヴァンズは、経験が表象内容を伴うということを注意深く認めている。なるほど、その内容は非概念的である。しかし、盲目であるものは完全に表象内容を欠いていなければならないのではないか。

・エヴァンズの立場は、以前(第一講義五節)考察した立場と同種である。その立場は概念能力が経験において作動していることを認めると称するが、経験としての状態や出来事を自発性とは隔絶したものとして扱う。その狙いは、自発性のもつ自由という性格から経験の受動的性格を隔離することである。

・しかし、経験を外側に置く境界の内部に自発性を閉じ込めるならば、経験(≠自発性の操作)と判断(=自発性の操作)の間のいわゆる合理的な関係は自発性の作用域内にあることはできない。それゆえ、われわれは経験と判断の関係を理由構成的なものとして認めることはできない。理性の自発性に境界を設けることは妥当性を欠くのである。

・エヴァンズの用いる「内容」という語は問題を孕んでいる。一見したところ、(それが概念的であろうとなかろうと、)ある表象内容を所有する項は他の表象内容を所有する項と合理的な関係に立つことができる、ということは明らかであるように思われる。しかし、自発性が閉じ込められているならば、われわれはある項が他の項に対する理由でありうるという帰結を引き出す権利を失う。非概念的なものに「内容」というレッテルを貼ることは、次のような要求の不整合さを覆い隠すものである。その要求とは、合理的探求の範囲外にあるにもかかわらず、経験が判断の理由となるのに適切なものであるべき、というものである。

・経験が盲目ではないということは、主体にとってその経験が客観的現実の特徴について意識しているものとして理解可能であるということである。

・エヴァンズは次のように主張する。主体が知覚と実在の関係についての理解という背景をもつならば、経験は盲目的ではない。その背景とは、〈自身の運動に依存して世界の異なった諸相を知覚する主体に対して、世界が自らを開示する〉という考えを理解させるものである。そのような背景は経験と世界との関係についての自己意識的な概念理解を有する主体に対してのみ場所を得ることができる。そして、われわれはその概念理解を自発性の能力を欠いては理解できないのである。

・エヴァンズの描像において「経験的思考は盲目的ではない」ということを理解可能にするのは、「その内容が自発性に対して利用可能である、すなわち、それが概念的に組織された自己意識的な思考者の世界観に統合されるための候補である」という主張である。

・しかし、自発性への利用可能性とは独立に経験が非概念的な内容をもつということは錯覚であり、こうした意味でエヴァンズの考える経験は盲目である。

・認知心理学における非概念的内容の使用は、それがその領分を守っている限り有用であり尊重すべきである。

5.

・エヴァンズをして経験を概念領域の外部へと位置づけねばならないと考えさせた動機は三つある。以下の三つの節でこれらが順に考察される。

(1) ディテールの規定性

・知覚内容がもつディテールのすべてを主体の自由になる概念によって捉えることはできない、とエヴァンズは主張する。

・エヴァンズは、われわれの色彩概念のレパートリーは色合いを識別する能力よりも肌理が粗く、それゆえ色彩経験の細かいディテールを捉えられないと主張する。このとき彼が念頭に置いているのは「赤」、「緑」あるいは「赤褐色」のような色彩表現に結びつけられた概念能力である。そのような語はスペクトル上の帯域についての概念を表現するが、色彩経験はスペクトル上の幅を持たない線に近いようなものと関連する諸特性を表示する。

・しかし、マクダウェルは次のように主張する。色彩概念が既成の色彩語彙によって表現可能な概念へと制限されているということを受け入れる必要はない。色合い(a shade of colour)についての概念を習得することは実際上可能である。人は視覚経験において示されるのとまさに同じ規定性をもって、色合いを概念的思考へと包含する能力を備えている。それゆえ、人のもつ概念は経験に劣らぬ規定性をもって色彩を捉えることができる。人はサンプルの現前を利用する直示を含んだ「あの色合い」のような言い回しを発話することによって、経験とまったく同程度に肌理細かい概念に対して言語表現を与えることができる。

・この能力を行使することができるのはサンプルが現前している時に限られはしない。もしある色を心に包含するための概念能力が、原理的に経験それ自体の持続を越えて存続することが可能ならば、この能力は真に概念能力として認められる。サンプルを直示して「あの色合い」と発話することによって、人はある色合いの概念に表現を与えることができる。それが概念であることを保証するのは、たとえ短い時間であっても、関連する能力が未来へと存続しうること、ならびに、たとえ直前の過去からであっても、その能力が存続してきたということ、つまり、その能力がそれまで過去であったものについての思考にもまた使用されうるということ、である。

・ここで働いているのは、(短命かもしれないが)経験とともに組み込まれた〈再認能力〉である。もし適切なサンプルとともにふたたび経験が示されるならば、その能力はその後半生においてふたたび言語表現を与えることができる。しかし、たとえサンプルが不在であったとしても、記憶に基づいた思考のなかで、その能力はそれが存続する限り利用可能であり続ける。

・こうした短命な再認能力がもつ同一性は、感受性に対するある衝撃タイプの特殊ケースと結びついており、その衝撃タイプは関連する概念によって捉えられるとされている。「その色合い」のような思考へと色合いを包含する能力は、経験のなかにその色合いの事例が現れることによって授けられる。このようにして、その能力は〈実際の視覚生活のなかに現れる肌理細かい感覚的なディテール〉が〈視覚経験の概念内容〉へと引き上げられるのを可能にする。

・この能力は直示を含んでいるがゆえにその構成自体に直観が混合しており、概念と直観の二分法の観点からすれば、概念的なものの候補としてされ認められない。エヴァンズは一方の〈概念的なもの〉と他方の〈感覚器官への世界からの衝撃〉との間に存在する距離を強調しているが、もし「この能力の構成における直観の役割が、それを概念的なものとみなすことを妨げる」ということがあらかじめ想定されているならば、その距離は前提されていたのであって、論じられてはいないのである。

6.

(2)情報システムの信念独立性

・エヴァンズは、情報システムの状態は「信念独立的」である、と主張する。たとえば、すでに知られている錯視は、たとえ主体が物事は彼に見えている通りであると信じていないとしても、なおその錯覚的な見かけを示し続ける。それゆえ、経験内容は実際にもっている信念内容とは独立である。

・一部の人々はこの点を認めつつも、経験内容を「信念への傾向性」と捉えることで、経験内容と信念内容の間に定義的な関係を保持しようとする。エヴァンズは、「信念」はさらに一層洗練された(判断や理由と関連する)認知状態のためにとっておくべきである、と主張することでこれを批判する。信念の概念は自発性の概念に照らしてのみ理解されうる。なぜなら、人が抱いているのがたんなる知覚的な信念の場合でさえ、それに対する権利問題がつねに提起されうるからである。エヴァンズの示唆は次のように要約できる。信念は判断をなす傾向性であり、判断は本質的に自発性の作用である。

・エヴァンズは、自発性のもつ能動的な働きは概念能力を位置づけるのにふさわしい場所を与えてくれる、と主張する。これはマクダウェルの主張と重なる。しかし、エヴァンズはこの論点を「経験内容は概念的ではない」という主張のために使用している。この論点はマクダウェル流の経験概念とって不利にはならない。その経験概念によれば、自発性に属する能力はすでに受容性において作動しているのであり、受容性によってその能力へと独立に供給される何かに対して作用するのではない。これはエヴァンズが考察する諸可能性のなかには入っていなかった。

・〈知覚において働いていると主体が了解している概念能力〉と〈判断における自発性の能動的な行使〉との間のつながりを、エヴァンズはそれが取りうるひとつの形においてしか考察していない。それは経験を〈判断をなす傾向性〉と同一視する立場である。この立場は、この傾向性が実際の判断において実現されるのは、「他の条件が同じなら」という条項が満たされるときのみである、と考える。この条項によって、その立場は経験が「信念独立的」であるという事実に適応しようとする。

・エヴァンズはこの立場が知覚の現象学を歪めるものであるとしてそれに反対する。なぜなら、われわれは自身が〈ある概念を適用しようという欲求〉や〈その概念が近傍において適用されているという確信〉をもっているとただ気づくだけだ、というのは事実と異なるからである。もしある人が経験判断をなすなら、それは当の判断の理由である経験によってその人から引き出される。しかし、判断の背後にあるものがそれをなす傾向性に限られるような描像においては、経験それ自体は所在不明となる。

・マクダウェルの立場によれば、概念能力はすでに経験それ自体のうちで作動している。これは「実際の概念能力の操作は、まず始めに(その内容が経験と同一であるような)判断への傾向性を実現することのうちにのみ現れる。それゆえ、経験は可能的にのみ概念と結びつけられる」ということではない。ある人に物事が特定の仕方で現れるということは、すでにそれ自体が概念能力の実際の操作なのである。

・概念能力の操作のこの様式は特別なものである。なぜなら、主体の側において、それは受動的であり、すなわち感受性の反映だからである。その能力が真に概念的なものとして承認できるということを保証するのにはそれなりの労を要する。必要とされるのは、そのまさに同じ能力が能動的な判断においてもまた利用されうるということである。さらに、〈現れ(appearances)において作動している能力〉と〈判断において作動している能力〉との同一性を保証するのは、現れが自発性全体と合理的に結びつけられるその仕方(理由構成的関係)である。

・マクダウェルの描像は、経験を「判断への傾向性」と解する立場と違って、「判断についての理由」として経験を判断と結びつけるものである。これはマクダウェルの描像がエヴァンズの批判を免れるということを意味する。つまり、傾向性は「ある概念が近傍において適用されている」という説明しがたい確信しか与えないが、マクダウェルの描像はその確信が知覚内容に基づいて十分に根拠づけられるということを可能にする。

・もし概念能力が感受性それ自体において作動しうるということを理解し損ねるならば、人は次のふたつから選択を迫られる。すなわち、デイヴィドソンのように、経験は経験的思考と合理的にではなく因果的にのみ関係づけられていると主張するか、あるいは、エヴァンズのように、所与の神話へと退行し、それでもなお、概念外のものとして考えられた経験が経験的思考と合理的な関係をもっているということを保証しようとするか、いずれかである。

・デイヴィドソンは、所与の神話を避けることができるのは経験が認識論的に重要であるということを否定することによってのみである、と主張する。エヴァンズは逆に所与の神話の一形態を採用することによって、自身の立場がデイヴィドソンの見方と選択肢の可能性を二分しているということを示している。マクダウェルが言うように、われわれは自身をこの可能性の枠内に限定する必要はない。

7.

(3)人間と動物の感受性

・われわれは「動物」と知覚や記憶を共有している。エヴァンズとマクダウェルはともに、自発性をもつ生物ともたない生物ではその知覚機構の振舞いについて異なった説明を要すると考える。われわれは、前者に対しては概念能力と結びついた狭義の意味における経験の観念を適用できるが、後者に対してはできない。

・エヴァンズの立場は、両者の生物に端的に共通するものを提供しているように思われる。それはつまり、非概念的内容を有した情報システムの状態である。

・われわれはこのエヴァンズの立場を情報システムの第三の要素である「伝聞システム」を考察することによって多少なりとも揺さぶることができる。まず次のように想定しよう。自発性を欠く生物とわれわれが知覚を共有しているということは、われわれの知覚経験が非概念的な内容をもっていることを保証するための正当な理由である。これは、もしわれわれの経験内容が概念的であるならば、共有しているはずの内容がそれら他の知覚者の手の届かないところに置かれることになる、ということに基づく。

・類推によって、伝聞システムについて次のように考えることができる。すなわち、われわれが耳にする言語的振舞いを理解する際に、非概念的内容はわれわれの成熟した伝聞システムの処理にも含まれている、と。それでは、もしそこに含まれる内容が非概念的なものであるならば、われわれの成熟した伝聞システムの処理に含まれる概念能力の役割は何なのだろうか。経験における概念能力の役割についてのエヴァンズの描像と単純に類比させれば、その答えはこうなるだろう。ある人が言語的振舞いを理解する際に行使する概念能力はその情報システムの内容の決定には関与せず、その内容への〈当人のアクセスを説明すること〉にのみ役立つ。しかし、この答えは極めて魅力を欠いた考えである。

・人は〈われわれが動物と共通にもっているもの〉から〈われわれがもつ特殊的なもの〉を分離してゆくことで、動物の知覚的生において現れる残留物へと達することができるに違いないと考えるかもしれない。この残留物とは、エヴァンズにおける非概念的内容をもった情報状態を生み出す情報システムである。しかし、この因数分解的な方法によって、われわれの知覚的生が〈動物の知覚的生においても認められる核〉とそれに加えて〈余剰な成分〉とを含んでいると想定するのは強制的なことではない。

・その代わりに、「われわれは動物ももっているところの〈われわれの環境の諸特性に対する知覚的感受性〉をもっているが、それを特殊な形態においてもっている」と言うことができる。われわれのもつ環境に対する知覚的感受性は自発性の領域へと組み入れられており、それが動物と人間とを分かつのである。

ラッセルの言うセンスデータは感覚与件とされるが、それは同時に世界の側の対象の位置を占めるべきものである。センスデータは心の側にあると一方的に位置づけることのできるものではない。

まず、作用主体ないしは意識主体を仮定しよう。この仮定においては、主体はある色の断片に対して「意識すること」という関係をもつことができる。この場合、心的出来事としての感覚はその色の意識から成るが、色の断片そのものは物的であることをやめず、それを感覚とは区別するためにセンスデータと呼ぶことができる。

しかし、ラッセルは主体を論理的虚構だとみなす。それは観察によって示されるのではなく、文法上の必要性や有益性によって要求される名目的存在者である。もし、主体をなしで済ませるならば、〈作用‐内容‐対象〉という関係もそれと相関して消え去ることになる。それゆえ、内容である感覚と対象であるセンスデータという区別をつけることはもはや可能ではない。こうして色の断片の感覚は色の断片そのものとなり、物理的世界の構成要素となるのである。心的なものと物的なものとは重なり合うことができるのである。また、この感覚は色の断片でもあるから認知的なものではなく、それをそれ自体で知識とはみなせない。

さて、こうした所与の神話を消し去るためには、ラッセルが拒否した実質的主体の地位をどのように再興するかを考える必要がある。セラーズの心理的唯名論についての議論やマクダウェルの自我論を読む場合、こうしたラッセルと関連する論点にも注意が必要である。セラーズの場合は、心的志向性の脱構築を行ったことにより、志向性の〈作用‐内容‐対象〉という構造を前提することなしに心的なものを違った回路から確保することが可能であると考えられる。

B.ラッセル 『心の分析』 講義Ⅵ 内観

伝統的な心理学における、何が存在するのかを知る二つの方法

①感覚と外的知覚、②内観

この二分法を否定するラッセルの論拠

・われわれの心的生活の素材はすべて感覚とイメージから成る。

・感覚は或る物理的対象である系の成員である。逆に言えば、物質的対象とは本性において感覚に類似した個物の系である。物理的対象を構成する素材は心的素材の一部と関係づけられる。(ここで物理的対象が感覚そのものから成る個物の系ではなく、感覚と類似関係にある個物の系とされているのはなぜか?)

・イメージと感覚を区別するのは、鮮明さの在・不在という点ではなく、その原因作用の相違という点である。イメージは感覚との連合によって引き起こされるのであり、大脳および神経系の外部からの現在的な刺激によって引き起こされるのではない。

・感覚は現在の物理的対象の知識をわれわれに与えるように見えるが、イメージはそうではない。イメージは過去の感覚のコピーであり、それゆえそれがもつ物理的対象との因果的な結びつきは過去に属する。

・しかし、感覚とイメージはそれらが起こる全体の文脈が異なるだけであり、本性上の深い相違をもつというわけではない。それらの知り方は相異なってはおらず、それゆえ独自の種類の知識としての内観は消滅する。

 

セラーズの述べる非概念的内容としての感覚印象は、直接的には経験されえないが、理論的に要請される仮説的概念として考えられているという点で、「仮説的構成主義」と呼ばれる立場に近い。これに対し、ドレツキのアナログ表象としての感覚やエヴァンズの情報状態の一種としての非概念的知覚内容は、それ自体が直接的に経験されうると考えられている点で、むしろ「感覚知覚段階説」に近い。しかし、後者は、非認知的な感覚素材という概念以前のものから概念的なものを構成すると主張する点において、所与の神話に対する批判を免れてはいない。前者のように理論的措定物としてのみ非概念的内容を導入するという仕方は、所与の神話をどのように免れているのだろうか(所与の神話への批判の嚆矢となったセラーズ自らが所与の神話の犠牲になっているとは考えにくいが)。また、たとえ所与の神話を免れているにしても、それはマクダウェルの述べるように整合主義の一種へと陥ってしまっているのだろうか。


Sensibility and Understanding



21.カントが「直観」と呼ぶところのもののなかで、多様としての〈多様の表象〉であるようなものは、悟性がもつ表象の特別なクラスを構成する、と私は論じてきた。〈多様の表象〉は自発性に属する。それらの「受容性」は〈表象の多様〉を処理せねばならない悟性の問題である。〈多様の表象〉が悟性にかかわるのに対し、〈表象の多様〉はより根本的な意味における「受容性」によって特徴づけられる。その根本的な意味における「受容性」は、「(なま)の事実」あるいは知覚経験の抑制的要素をものとしての「受容性」である。


22.〈表象の多様〉は次のような興味深い特徴をもつ。すなわち、その多様の存在は、独立的な実在からの衝撃に基づいたもの(≠その衝撃によって構成されたもの)としての人間的知識という概念について反省したのちに、一般的な認識論的根拠(=超越論的根拠)に基づいて要請される、という特徴である。それは「発見される」のではなく要請される。〈表象の多様〉の概念は――現代的に言えば――理論的構成物なのである。カント(と少なくともアリストテレスまで遡る長い伝統)にしたがって、そうした〈表象の多様〉を構成するものを「感覚印象」と呼ぼう。そして感覚印象の存在を要請することが合理的であるという考えを考察しよう。例のごとく、視覚経験が事例として検討されるが、そこで得られた結論は容易にすべての知覚様相へと拡張されうる。


23.感覚印象を扱った古典的な主題のなかで、下記の三つのものが基礎的である。作業仮説として、私は次のような表現が感覚印象を指示する表現のもっとも標準的な形式であると想定する。それは、


  赤い長方形の印象(an impression of a red rectangle


である。この例に即せば、三つの主題は次のように定式化できる。


a)赤い長方形の印象は意識の状態である。

b)赤い長方形の印象は表面が赤くかつ長方形である物理的対象(以下、「赤い長方形の物理的対象」と略)によって通常の状況下においてもたらされる。

c)赤い長方形の印象は赤い長方形の物理的対象を表象する(この語は分析を要する)。


24.「意識の状態」という句は曖昧かつ不明瞭である。その不明瞭さ(obscurity)は記述と説明の異なるレベルにおける多くの観念を寄せ集めた結果である。視覚印象を意識の状態とする概念理解は、視覚印象が身体感覚と感情とに同化させられていたと指摘することによって幾分か明瞭にされうる。他方、その曖昧さは多様である。第一に、意識の概念的状態と非概念的状態との区別があり、これが本章で探求すべき目的である。感覚印象は意識の非概念的状態である。次に、意識の「状態」と「対象」との区別がある。「意識の対象」という句はそれ自体非常に曖昧であるが、少なくとも当座は、粗雑ながらも「注意されたもの(noticed)」と等値なものとしてそれを使用することにする。身体感覚のように、しばしば視覚印象は意識の状態だけではなくその対象として解釈されてきた。デカルト本人がどのように考えたとしても、意識の状態はそれが統覚されapperceivedなくとも生じる、という考え(ライプニッツはこの事実を正しく認めていた)に不合理なところは何もない。より驚くべき、そして多くの者にとっては不合理な考えは、その成員のどれもが統覚されないような意識の状態の広いクラスが存在する、というものである。驚くべきものであれ不合理なものであれ、その考えは少なくとも一見して自己矛盾的というわけではない(これはその不明瞭さによるものかもしれない)。いずれにせよ、私はそれを徹底的に問い詰めるつもりである。


註1

ライプニッツは統覚されない表象作用についての事実を正しく認めたが、彼による統覚された表象作用と統覚されない表象作用との間の区別についての説明はけっして曖昧さを免れてはいない。彼は表象作用の統覚が数的に区別される表象作用を含んでいるという論点をつかみそこなったのである。その区別とはすなわち、〈統覚的表象作用(an apperceptive representing)〉と〈それが統覚するところの表象作用(the representing it apperceives)〉との区別である。しばしば、統覚された表象作用と統覚されない表象作用との間の区別は「大きい(grandes)」表象作用と「小さい(petites)」表象作用との間の「量的な」区別と一致すると思われる。しかしながら、彼はそれが「小さい表象作用は(通常は?)統覚されない」という総合的命題になることを意図したかもしれない。


Note

〈 統覚的表象作用 〉=二階の表象作用=悟性的

〈それが統覚するところの表象作用〉=一階の表象作用=感性的


25.私が擁護したい立場によれば、たとえ視覚的感覚印象がけっして統覚されないとしても、それはある統覚される他の内的エピソードと非常に密接に関係しているので、その感覚印象の存在を認める者にとっては、とりわけ、すべての関連する区別がなされなかったときに、その感覚印象がそれ自体として統覚されると言ってしまいたくなる抵抗しがたい誘惑が生じる。


26.「視覚的感覚印象は存在するが、それはけっして統覚されない」と述べるのを避けるために、デカルト的武器庫からお馴染みの武器を取り出し、それに新たな使用法を与えるという誘惑が生じるかもしれない。「(デカルト的な混同はさておき)〈表象作用(representing)の統覚〉はつねに概念作用を含んでおり、それは〈統覚された表象作用〉とどれほど密接に関係しているとしても、後者から数的に区別される」という事実に訴えることによって、人は次のことを示唆しようとするかもしれない。視覚印象は統覚されるが、統覚作用の概念的枠組みはそれが統覚するところのものの状態を「十分」に表象しないという点で、「不十分」なものである、と。


27.それゆえ、哲学者たちは次のように主張したことで知られている。すなわち、われわれはストローソン的形態のもとでは(sub specie Strawsonii)世界を不十分にしか知覚しないが、真空における諸原子の回転としてのスマート的形態のもとでは(sub specie Smartii)世界を十分に知覚するかもしれない。それゆえ、ワーノック的形態のもとでは(sub specie Warnockii)不十分にしか統覚されない意識の状態が存在するが(「まるで私が一個のオレンジを知覚しているかのように私には思われる」)、それをわれわれはいつの日かより適した理性(ratio)のもとで統覚するかもしれない。そして確かに、科学的理性と常識との間の対比についての近代的再解釈にもかかわらず、「日常生活の要求に巧妙にも順応している諸概念はそれでも依然として「不十分」であるかもしれない」というデカルト的な見解はその命脈をつないでいるのである。


Note

ストローソン的形態=日常的世界

スマート的形態=科学的世界


28.しかしながら、ワーノック的形態のもとでの統覚は「不十分」であるという観点は、感覚印象の措定がまさに訂正しようともくろむところのものであることが明らかになるので、私はこの「不十分な概念的枠組み」という主題から(少なくともさしあたりは)手を引き、統覚されない意識の状態の存在を措定することが合理的であるかもしれないという考えを考察するという元々の仕事に集中しよう。私はすでにこの考えが本質的にカント的な立場であったということを指摘した。カントは「意識」という語を統覚作用と統覚されたものに制限したのであるが。たとえその議論における諸々の細部が深刻な疑義にさらされているとしても、カントが認識論的(「超越論的」)根拠に基づいて外官の多様の存在を措定したことは正しいということを私は主張したい。


29.無論、次のように言う者は多い。仮説的存在者を導入するのは科学の仕事であり、それゆえ、哲学者の仕事ではない」、と。知的労働の実践的に有用な分業――それはアカデミックな部門と分野の増加を反映している――は多くの必要悪を招いたが、なかでもこの考え以上に有害なものはない。哲学は高潔な明晰さの女神であるかもしれないが、それはまた仮設の母でもある。明晰さは洞察と混同されるべきではない。後者こそが哲学の究極因であり、哲学が求めつつ常に得られないその洞察こそが全体的洞察なのである。もし「仮説を作らず(hypotheses non fingo)」という格言が古代ならびに中世哲学を捕らえていたとしたら、明晰さは豊富にあるかもしれないが、いかなる科学――とりわけわれわれが今日知っているような理論科学――も存在しなかったかもしれない。


30.もし仮説的存在者の言語ゲームに対する純粋に道具主義的な説明が当然のこととされるのでなければ、哲学者たちは仮説的存在者が日常生活のより馴染み深い対象に関係づけられる諸々の仕方に関心をもたなければならない。次のことは明らかである。すなわち、もし哲学的伝統によって束縛されていない科学的心理学が、知覚のある諸特徴について自らが与える説明のなかに、ワーノック的でない意識の状態を措定したならば、哲学者たちはこの行程を哲学的反省に際立って適したトピックであるとみなすだろう、ということは。行動主義が方法論的なものではなく実質的なものであったとき、独立した分野としてのこの「行動学(behaviouristics)」がこの方向へと進むことを妨げられていたということは、今やその概念的な拘束衣は緩められたのだから、無論、そのような方向へ進まないという保証を与えない。


31.いずれにせよ、哲学者たちに問いを投げかけるパズルがもうひとつの専門のタグのもとで十分に引き受けられたとき、哲学者が説明仮説を探すのを終えるべき時が到来する。疑いなく、今日の哲学者たちがもつ特別な才能は――中世後期においてそうであったように――概念を切り刻むことであるが、しかし、中世諸学派の偉大な最初の科学者たちが行ったように、切り刻むべき新たな概念を発掘するための頑強な精神を必要とするような、昔日と変わらぬまさに同じ欲求もまた存在するかもしれないのである。