“Mind and World”, John McDowell
Lecture 3 : Non-conceptual Content
内容要約
1.
・マクダウェルは両極的な二つの認識論的立場を採り上げ、それらをともに批判しつつ議論を進めていく。それらの両極的な立場とは次の二つである。
①整合主義………思考に対して経験が与える外的な因果的制約は認めるが、合理的制約は認めない。それゆえ、思考に対して経験が持つ正当化の役割を認めない。理由の空間の境界は概念の空間の境界と一致し、そこから経験は排除される。これは経験内容の成立する可能性を掘り崩すものである。マクダウェルによれば、こうした描像は「真空における摩擦なき回転」にすぎない。
②所与の神話……非概念的な「所与」を認め、それが思考を正当化すると主張する。理由の空間の境界は概念の空間の境界よりも広く、前者は経験を含む。しかし、マクダウェルによれば、これは正当化ではなくせいぜい「無罪証明(exculpations)」を与えるにすぎない。
・マクダウェルが主張するように、整合主義と所与の神話の間での振り子状態を逃れるためには、経験的知識を感性(受容性)と悟性(自発性)の協働として理解しなければならない。この協働は特殊なものである。すなわち、悟性はすでに感性の担い手である経験のなかに含み込まれているのである。経験はすでに自発性の能力を含んで概念化されており、経験内容は徹頭徹尾「概念的」なのである。
・経験内容が概念的であるとは、そこに現れる概念能力が能動的な思考――それ自体がもつ合理的な信憑性について反省することへと開かれた思考――においても利用可能であるということである。
・本章の主題は、この「経験内容は概念的である」という主張の擁護である。
2.
・エヴァンズは「知覚経験の内容は非概念的である」と主張する。エヴァンズによれば、経験に基づいて判断を形成するとき、人は非概念的内容から概念的内容へと移行する。概念把握あるいは判断の過程は、主体を一種の情報状態(非概念的内容を伴う)から他の認知状態(概念的内容を伴う)へと移行させる。
・情報システムは知覚(perception)・伝聞(testimony)・記憶(memory)の諸能力から成る。
・情報システムは、判断や信念といった概念能力の操作に比べ「よりプリミティヴ」である。われわれは自発性をもたない他の動物と知覚・伝聞・記憶の諸能力を共有している。
・エヴァンズは知覚経験を〈非概念的内容を有した情報システムの状態〉と同定する。エヴァンズによれば、概念能力は経験判断を行うときに初めて作動し、異なった種の内容(=概念内容)が働き出す。
・ただし、知覚経験は意識的な主体の状態であり、それゆえ知覚経験は非概念的情報状態であるが、非概念的情報状態はそれだけで知覚経験であるというわけではない。知覚経験であるためには、非概念的情報状態であることに加えて、それが自発性によって利用可能であることが必要である。
・これに対しマクダウェルの描像では、知覚経験の内容はすでに概念的である。経験判断によって、人は新たな種の内容を導入するのではなく、たんに概念内容を是認するのである。概念内容はすでにそれが基づくところの経験によって所有されている。
3.
・マクダウェル流の経験概念――経験とは概念能力が作動しつつある状態ないしは出来事である――は次の帰結をもつ。すなわち、「内的経験」であれ「外的経験」であれ、われわれはそこに現れる概念能力を多くの動物に対して帰属することができない。痛みを感じたり、環境の諸特性を知覚したりすることができるのは能動的で自己批判的な思考者だけではないが、自発性を欠いた動物は「経験」をもつことができないのである。
・経験概念を自発性の概念から完全に切り離すならば、自発性を欠いた動物にも経験概念を認めることができよう。しかし、こうした方向をとるならば、もはやエヴァンズを味方にしておくことはできない。エヴァンズの描像においては、経験は自発性による利用可能性を条件としており、経験概念は自発性の概念との広義におけるカント的な結びつきによって制御されているのである。
4.
・経験的思考に要求される外的制約を認めるために、われわれは受容性へと訴える必要がある。所与の神話に陥るのを避けるために、われわれは「受容性が自発性との協働に対してなす寄与は、たとえ名目上であれ自発性と分離可能ではない」と考えなければならない。
・エヴァンズはこのルールを尊重していない。エヴァンズの経験についての説明によれば、受容性は知覚的情報システムであり、この知覚システムは自発性のいかなる操作とも独立な内容保有状態を産み出す。それゆえ、受容性としての情報状態の操作は、自発性と分離可能な寄与をなすとされるのである。
・この場合、エヴァンズの描像における経験と概念能力との関係は、経験的知識の描像における直観と概念との関係とまさに同じものである。カントによれば、経験的なレベルにおいては、経験が諸感官を通じて取り入れるのは思考可能な領域の内部にある実在の要素であり(第二講義九節)、それゆえ自発性と分離可能な直観による経験的知識への寄与は認められない。超越論的なレベルにおいては、カントはこの分離可能性にある種の正しさを認めようとしたのだが(物自体からの触発)、エヴァンズによる経験の説明は超越論的説明を意図したものではない。それゆえ、もしマクダウェルのカント的考察が正しければ、それによってエヴァンズによる経験の説明は否定される。
・エヴァンズに所与の神話を帰すには考察すべき問題がある。カントのテーゼによれば、もしエヴァンズの考える経験が概念なき直観であるならば、それは盲目でなければならない。しかし、エヴァンズは、経験が表象内容を伴うということを注意深く認めている。なるほど、その内容は非概念的である。しかし、盲目であるものは完全に表象内容を欠いていなければならないのではないか。
・エヴァンズの立場は、以前(第一講義五節)考察した立場と同種である。その立場は概念能力が経験において作動していることを認めると称するが、経験としての状態や出来事を自発性とは隔絶したものとして扱う。その狙いは、自発性のもつ自由という性格から経験の受動的性格を隔離することである。
・しかし、経験を外側に置く境界の内部に自発性を閉じ込めるならば、経験(≠自発性の操作)と判断(=自発性の操作)の間のいわゆる合理的な関係は自発性の作用域内にあることはできない。それゆえ、われわれは経験と判断の関係を理由構成的なものとして認めることはできない。理性の自発性に境界を設けることは妥当性を欠くのである。
・エヴァンズの用いる「内容」という語は問題を孕んでいる。一見したところ、(それが概念的であろうとなかろうと、)ある表象内容を所有する項は他の表象内容を所有する項と合理的な関係に立つことができる、ということは明らかであるように思われる。しかし、自発性が閉じ込められているならば、われわれはある項が他の項に対する理由でありうるという帰結を引き出す権利を失う。非概念的なものに「内容」というレッテルを貼ることは、次のような要求の不整合さを覆い隠すものである。その要求とは、合理的探求の範囲外にあるにもかかわらず、経験が判断の理由となるのに適切なものであるべき、というものである。
・経験が盲目ではないということは、主体にとってその経験が客観的現実の特徴について意識しているものとして理解可能であるということである。
・エヴァンズは次のように主張する。主体が知覚と実在の関係についての理解という背景をもつならば、経験は盲目的ではない。その背景とは、〈自身の運動に依存して世界の異なった諸相を知覚する主体に対して、世界が自らを開示する〉という考えを理解させるものである。そのような背景は経験と世界との関係についての自己意識的な概念理解を有する主体に対してのみ場所を得ることができる。そして、われわれはその概念理解を自発性の能力を欠いては理解できないのである。
・エヴァンズの描像において「経験的思考は盲目的ではない」ということを理解可能にするのは、「その内容が自発性に対して利用可能である、すなわち、それが概念的に組織された自己意識的な思考者の世界観に統合されるための候補である」という主張である。
・しかし、自発性への利用可能性とは独立に経験が非概念的な内容をもつということは錯覚であり、こうした意味でエヴァンズの考える経験は盲目である。
・認知心理学における非概念的内容の使用は、それがその領分を守っている限り有用であり尊重すべきである。
5.
・エヴァンズをして経験を概念領域の外部へと位置づけねばならないと考えさせた動機は三つある。以下の三つの節でこれらが順に考察される。
(1) ディテールの規定性
・知覚内容がもつディテールのすべてを主体の自由になる概念によって捉えることはできない、とエヴァンズは主張する。
・エヴァンズは、われわれの色彩概念のレパートリーは色合いを識別する能力よりも肌理が粗く、それゆえ色彩経験の細かいディテールを捉えられないと主張する。このとき彼が念頭に置いているのは「赤」、「緑」あるいは「赤褐色」のような色彩表現に結びつけられた概念能力である。そのような語はスペクトル上の帯域についての概念を表現するが、色彩経験はスペクトル上の幅を持たない線に近いようなものと関連する諸特性を表示する。
・しかし、マクダウェルは次のように主張する。色彩概念が既成の色彩語彙によって表現可能な概念へと制限されているということを受け入れる必要はない。色合い(a shade of colour)についての概念を習得することは実際上可能である。人は視覚経験において示されるのとまさに同じ規定性をもって、色合いを概念的思考へと包含する能力を備えている。それゆえ、人のもつ概念は経験に劣らぬ規定性をもって色彩を捉えることができる。人はサンプルの現前を利用する直示を含んだ「あの色合い」のような言い回しを発話することによって、経験とまったく同程度に肌理細かい概念に対して言語表現を与えることができる。
・この能力を行使することができるのはサンプルが現前している時に限られはしない。もしある色を心に包含するための概念能力が、原理的に経験それ自体の持続を越えて存続することが可能ならば、この能力は真に概念能力として認められる。サンプルを直示して「あの色合い」と発話することによって、人はある色合いの概念に表現を与えることができる。それが概念であることを保証するのは、たとえ短い時間であっても、関連する能力が未来へと存続しうること、ならびに、たとえ直前の過去からであっても、その能力が存続してきたということ、つまり、その能力がそれまで過去であったものについての思考にもまた使用されうるということ、である。
・ここで働いているのは、(短命かもしれないが)経験とともに組み込まれた〈再認能力〉である。もし適切なサンプルとともにふたたび経験が示されるならば、その能力はその後半生においてふたたび言語表現を与えることができる。しかし、たとえサンプルが不在であったとしても、記憶に基づいた思考のなかで、その能力はそれが存続する限り利用可能であり続ける。
・こうした短命な再認能力がもつ同一性は、感受性に対するある衝撃タイプの特殊ケースと結びついており、その衝撃タイプは関連する概念によって捉えられるとされている。「その色合い」のような思考へと色合いを包含する能力は、経験のなかにその色合いの事例が現れることによって授けられる。このようにして、その能力は〈実際の視覚生活のなかに現れる肌理細かい感覚的なディテール〉が〈視覚経験の概念内容〉へと引き上げられるのを可能にする。
・この能力は直示を含んでいるがゆえにその構成自体に直観が混合しており、概念と直観の二分法の観点からすれば、概念的なものの候補としてされ認められない。エヴァンズは一方の〈概念的なもの〉と他方の〈感覚器官への世界からの衝撃〉との間に存在する距離を強調しているが、もし「この能力の構成における直観の役割が、それを概念的なものとみなすことを妨げる」ということがあらかじめ想定されているならば、その距離は前提されていたのであって、論じられてはいないのである。
6.
(2)情報システムの信念独立性
・エヴァンズは、情報システムの状態は「信念独立的」である、と主張する。たとえば、すでに知られている錯視は、たとえ主体が物事は彼に見えている通りであると信じていないとしても、なおその錯覚的な見かけを示し続ける。それゆえ、経験内容は実際にもっている信念内容とは独立である。
・一部の人々はこの点を認めつつも、経験内容を「信念への傾向性」と捉えることで、経験内容と信念内容の間に定義的な関係を保持しようとする。エヴァンズは、「信念」はさらに一層洗練された(判断や理由と関連する)認知状態のためにとっておくべきである、と主張することでこれを批判する。信念の概念は自発性の概念に照らしてのみ理解されうる。なぜなら、人が抱いているのがたんなる知覚的な信念の場合でさえ、それに対する権利問題がつねに提起されうるからである。エヴァンズの示唆は次のように要約できる。信念は判断をなす傾向性であり、判断は本質的に自発性の作用である。
・エヴァンズは、自発性のもつ能動的な働きは概念能力を位置づけるのにふさわしい場所を与えてくれる、と主張する。これはマクダウェルの主張と重なる。しかし、エヴァンズはこの論点を「経験内容は概念的ではない」という主張のために使用している。この論点はマクダウェル流の経験概念とって不利にはならない。その経験概念によれば、自発性に属する能力はすでに受容性において作動しているのであり、受容性によってその能力へと独立に供給される何かに対して作用するのではない。これはエヴァンズが考察する諸可能性のなかには入っていなかった。
・〈知覚において働いていると主体が了解している概念能力〉と〈判断における自発性の能動的な行使〉との間のつながりを、エヴァンズはそれが取りうるひとつの形においてしか考察していない。それは経験を〈判断をなす傾向性〉と同一視する立場である。この立場は、この傾向性が実際の判断において実現されるのは、「他の条件が同じなら」という条項が満たされるときのみである、と考える。この条項によって、その立場は経験が「信念独立的」であるという事実に適応しようとする。
・エヴァンズはこの立場が知覚の現象学を歪めるものであるとしてそれに反対する。なぜなら、われわれは自身が〈ある概念を適用しようという欲求〉や〈その概念が近傍において適用されているという確信〉をもっているとただ気づくだけだ、というのは事実と異なるからである。もしある人が経験判断をなすなら、それは当の判断の理由である経験によってその人から引き出される。しかし、判断の背後にあるものがそれをなす傾向性に限られるような描像においては、経験それ自体は所在不明となる。
・マクダウェルの立場によれば、概念能力はすでに経験それ自体のうちで作動している。これは「実際の概念能力の操作は、まず始めに(その内容が経験と同一であるような)判断への傾向性を実現することのうちにのみ現れる。それゆえ、経験は可能的にのみ概念と結びつけられる」ということではない。ある人に物事が特定の仕方で現れるということは、すでにそれ自体が概念能力の実際の操作なのである。
・概念能力の操作のこの様式は特別なものである。なぜなら、主体の側において、それは受動的であり、すなわち感受性の反映だからである。その能力が真に概念的なものとして承認できるということを保証するのにはそれなりの労を要する。必要とされるのは、そのまさに同じ能力が能動的な判断においてもまた利用されうるということである。さらに、〈現れ(appearances)において作動している能力〉と〈判断において作動している能力〉との同一性を保証するのは、現れが自発性全体と合理的に結びつけられるその仕方(理由構成的関係)である。
・マクダウェルの描像は、経験を「判断への傾向性」と解する立場と違って、「判断についての理由」として経験を判断と結びつけるものである。これはマクダウェルの描像がエヴァンズの批判を免れるということを意味する。つまり、傾向性は「ある概念が近傍において適用されている」という説明しがたい確信しか与えないが、マクダウェルの描像はその確信が知覚内容に基づいて十分に根拠づけられるということを可能にする。
・もし概念能力が感受性それ自体において作動しうるということを理解し損ねるならば、人は次のふたつから選択を迫られる。すなわち、デイヴィドソンのように、経験は経験的思考と合理的にではなく因果的にのみ関係づけられていると主張するか、あるいは、エヴァンズのように、所与の神話へと退行し、それでもなお、概念外のものとして考えられた経験が経験的思考と合理的な関係をもっているということを保証しようとするか、いずれかである。
・デイヴィドソンは、所与の神話を避けることができるのは経験が認識論的に重要であるということを否定することによってのみである、と主張する。エヴァンズは逆に所与の神話の一形態を採用することによって、自身の立場がデイヴィドソンの見方と選択肢の可能性を二分しているということを示している。マクダウェルが言うように、われわれは自身をこの可能性の枠内に限定する必要はない。
7.
(3)人間と動物の感受性
・われわれは「動物」と知覚や記憶を共有している。エヴァンズとマクダウェルはともに、自発性をもつ生物ともたない生物ではその知覚機構の振舞いについて異なった説明を要すると考える。われわれは、前者に対しては概念能力と結びついた狭義の意味における経験の観念を適用できるが、後者に対してはできない。
・エヴァンズの立場は、両者の生物に端的に共通するものを提供しているように思われる。それはつまり、非概念的内容を有した情報システムの状態である。
・われわれはこのエヴァンズの立場を情報システムの第三の要素である「伝聞システム」を考察することによって多少なりとも揺さぶることができる。まず次のように想定しよう。自発性を欠く生物とわれわれが知覚を共有しているということは、われわれの知覚経験が非概念的な内容をもっていることを保証するための正当な理由である。これは、もしわれわれの経験内容が概念的であるならば、共有しているはずの内容がそれら他の知覚者の手の届かないところに置かれることになる、ということに基づく。
・類推によって、伝聞システムについて次のように考えることができる。すなわち、われわれが耳にする言語的振舞いを理解する際に、非概念的内容はわれわれの成熟した伝聞システムの処理にも含まれている、と。それでは、もしそこに含まれる内容が非概念的なものであるならば、われわれの成熟した伝聞システムの処理に含まれる概念能力の役割は何なのだろうか。経験における概念能力の役割についてのエヴァンズの描像と単純に類比させれば、その答えはこうなるだろう。ある人が言語的振舞いを理解する際に行使する概念能力はその情報システムの内容の決定には関与せず、その内容への〈当人のアクセスを説明すること〉にのみ役立つ。しかし、この答えは極めて魅力を欠いた考えである。
・人は〈われわれが動物と共通にもっているもの〉から〈われわれがもつ特殊的なもの〉を分離してゆくことで、動物の知覚的生において現れる残留物へと達することができるに違いないと考えるかもしれない。この残留物とは、エヴァンズにおける非概念的内容をもった情報状態を生み出す情報システムである。しかし、この因数分解的な方法によって、われわれの知覚的生が〈動物の知覚的生においても認められる核〉とそれに加えて〈余剰な成分〉とを含んでいると想定するのは強制的なことではない。
・その代わりに、「われわれは動物ももっているところの〈われわれの環境の諸特性に対する知覚的感受性〉をもっているが、それを特殊な形態においてもっている」と言うことができる。われわれのもつ環境に対する知覚的感受性は自発性の領域へと組み入れられており、それが動物と人間とを分かつのである。