続き
11.
いまやわれわれは〈「直観する」ことはこれ(a this)を表象することである〉という先述の示唆を精緻化すべき位置にいる。直観のうち少なくとも産出的構想力によって綜合されたものは、次のように例示される形式をもっているように思われる。
(a)この‐立方体(this-cube)
これは判断ではないが、次の判断と明らかに密接に結びついている。
(b)これは立方体である(This is a cube)
もしこの示唆が正しければ、われわれは同時に、〈経験の対象に適用される基礎的な一般概念は産出的構想力によって綜合された直観から(悟性の分析活動によって)演繹される〉というカントの見解と、古典的なアリストテレス的抽象主義との親近性を見出す。そのふたつの立場は次の考えを共通に有している。すなわち、われわれは(a)の形式の表象から(b)の形式の表象へと移行するという考えである。(a)は「この‐しかじか(this-such)」結合の表象、特に「ひとつの立方体としてのこれ(this as a cube)」の表象である。これは判断ではなく述部に「立方体」を含んではいない。(b)のなかでは、その同じ結合と同じ内容が明示的な命題的形式において現れている。
12.
鍵となる両者の差異は以下である。(アリストテレスとは違って)カントにとってその結合は直観的な表象の「なかに」ある。なぜなら、それは、ある意味で綜合された直観が基礎を置くところのたんなる受容性の表象のなかにあるのではなく(not being present in)、いわばそこに置かれているのである(been put there)。
13.
xは立方体である(x is a cube)
という形式の表象をもつことができる前に、
この‐立方体(this-cube)
という形式の表象をもたねばならない、という見解は頭を悩ませるものである。立方体と白いの表象が現れる仕方として、一方では、
この立方体はサイコロである。この白いものは人間である(This cube is a die. This white thing is a man.)。
があり、他方では、
これは立方体である。これは白い(This is a cube. This is white.)。
があるが――前者では主語の一部として、後者では述語として――、これは真摯に受け止められるべきである。しかし、それらは発生的な優先性の点から解釈されるべきではない。なぜなら、確かに
この立方体(this cube)
この白いもの(this white thing)
という表象は、心的なものをリストアップする際に現れうるのだが、人が
この立方体はサイコロである(This cube is a die)
この白いものは人間である(This white thing is a man)
のような表象を形成するためにどうやってそれらを完全なものとするかを知らなければ、この役割をさえ演じることができないかもしれないという点で、本質的に不完全だからである。
14.
この論点は空間と時間の表象に関連させればより明白になる。これらの表象は「個体」の表象であるが、それはこの語の〈どんな論理的なレベルの単称名辞であれ、それによって指示されるところのものは個体である〉という意味においてである。私はすぐ後にカントによる空間と時間の処遇のなかにある鍵となる両義性に注意を喚起するつもりである。ここで私が考慮するのは、〈空間に関連する諸々の一般概念(線、交点、面、等)は
この‐線(this-line)
この‐交点(this-intersection)
この‐面(this-surface)
etc.
のような表象より発生的には後に来るものである〉という考えの非妥当性である。
15.
私が論難を浴びせているのは次のような考えではないということに注意せよ。すなわち、〈現実的あるいは可能的な判断の主部名辞句のなかにある普遍的表象(universal representations)の生起〉は〈その述部における生起〉に発生的に先行する、という考えである(この考えも確かに論難に値するけれども)。この‐性(this-ness)は本質的である。なぜなら、伝統的な主張は、
この‐立方体(this-cube)
という表象における立方体は結局のところ一般的なものとして生起しているのでない、というものだったからである。「この‐立方体(this-cube)」というハイフンで連結された句は、一般的あるいは普遍的な表象としての立方体に概念的に先行するような仕方で、すなわち、述定あるいは判断に概念的に先行するような仕方で、何ものかを立方体として表象することを表現する。この立場の強みは、〈知覚において表象される個体はけっしてたんなるこれ(this)として表象されているのではなく、(古典的な図式を用いれば)つねにこの‐しかじか(this-such)として表象されている〉という事実にある。
16.
他方、成熟した経験においては、概して言語で表現される「この‐しかじかども(this-suches)」は、概念的に豊かで、「理論負荷的」でさえあり、一般表象の述定的使用を前提とする。カントのテーゼは、アリストテレスのように、知覚的なこの‐しかじかども――それらの内容は語の非常に強固な意味における「知覚可能なもの」(実際に感覚可能なもの)に限られる――の経験を明らかに要求する。完全に規定的でありかつ「基礎的」で知覚的なこの‐しかじかどもの経験を要求するのである。
17.
これらすべてが示唆するのは、(人間の知識に話を限って)カントにおける「直観」という語の用法は、〈個体の概念的表象の特殊な下位クラス〉と〈個体についての根本的に異なった種の表象〉との間の区別を曖昧にしているということである。前者は、ある意味では受容性の機能であるが、いかなる意味においても一般概念に先行せずそれを本質的に含むような枠組みに属する。後者は、たんなる受容性に属し、いかなる意味においても概念的ではない。
18.
いずれにせよ、カントが「直観」という語を〈産出的構想力の綜合する活動によって形成された表象〉と〈産出的構想力が考慮するところの「質料」である受容性の純粋に受動的な表象〉との両方に適用しているということは明らかである。しかし、もし彼が「直観」という語をいくぶん両義的に使用しているということに無自覚ではないにしても、彼はその両義性の根本的な本性に気づいていなかったように思われる。
19.
カントはそのような感受性の表象(伝統にしたがってカントはこれを印象と呼ぶ)に対して、それは何か複合的なものに「ついての」ものではない(not being ‘of’ anything complex)という特徴を帰属させた。それゆえ、〈受容性はわれわれに諸表象の多様を与えるのであって、多様の表象(カントはこれを多様としての多様の表象と同一視する)でははない〉という原理をわれわれは見出すのである。〈たんなる受容性の表象が、何かをカテゴリー的構造あるいは複合性をもつものとして表象するということ〉をカントは単に否定したのだと思われるかもしれない。確かに、カテゴリー的構造と空間‐時間的構造との間の区別は彼の議論にとって本質的であるが、しかしそれはこのような仕方で作動してはいない。また次のようにも思われるかもしれない。すなわち、〈空間は外官の形式である〉という彼のテーゼを考慮して、たんなる受容性は空間的構造の表象をわれわれに与えうるということをカントは認めるだろう、と。しかし、これは事実ではないと私は確信しているし、そう論じるつもりである。彼がコミットしていたのは、〈たんなる受容性の表象がそれについて(of)のものである項は、いかなる意味においても複合的ではなく、それゆえ、そのような外官の表象は空間的複合の表象ではない〉というより強い主張である。もし私が正しければ、空間は外官の形式であるという考えは不整合である。空間は外官の表象作用(representings)の形式ではありえない。そして、もし空間がその表象内容(representeds)の形式ではないとしたら、すなわち、外官によって表象されるものが空間的複合ではまったくないとしたら、〈空間は外官の形式である〉という考えは消失する恐れがある。この不整合についての説明は、カントによる外官の「形式」の扱いは「外的直観」についての彼自身の扱いと両義性を共有しているという事実にある。
20.
したがって、もしわれわれが「外的直観」のすべてを産出的構想力の「形象的総合(figurative synthesis)」に帰属させるならば、上の考察は〈空間は外的直観(=外的直観内容(intuiteds))の形式である〉という考えに対して不利に働きはしないだろう。しかしその場合には、空間もともにそのような受容性から消え去ってしまうように思われる。カントの「感受性」と「直観」の処遇に含まれる洞察を調停するために、われわれが〈たんなる受容性の印象〉と〈産出的構想力の直観〉との間に引いた区別は、空間的言辞についてのふたつの根本的に異なる意味の間にある対応する区別によって伴われねばならない。そのうちのひとつは空間的形式をもつものとしての印象であり、他方は空間的形式をもつものとしての直観の対象である。