続き

11

 いまやわれわれは〈「直観する」ことはこれa this)を表象することである〉という先述の示唆を精緻化すべき位置にいる。直観のうち少なくとも産出的構想力によって綜合されたものは、次のように例示される形式をもっているように思われる。

a)この‐立方体(this-cube

これは判断ではないが、次の判断と明らかに密接に結びついている。

b)これは立方体である(This is a cube

もしこの示唆が正しければ、われわれは同時に、〈経験の対象に適用される基礎的な一般概念は産出的構想力によって綜合された直観から(悟性の分析活動によって)演繹される〉というカントの見解と、古典的なアリストテレス的抽象主義との親近性を見出す。そのふたつの立場は次の考えを共通に有している。すなわち、われわれは(a)の形式の表象から(b)の形式の表象へと移行するという考えである。(a)は「この‐しかじか(this-such)」結合の表象、特に「ひとつの立方体としてのこれ(this as a cube)」の表象である。これは判断ではなく述部に「立方体」を含んではいない。(b)のなかでは、その同じ結合と同じ内容が明示的な命題的形式において現れている。

12

 鍵となる両者の差異は以下である。(アリストテレスとは違って)カントにとってその結合は直観的な表象の「なかに」ある。なぜなら、それは、ある意味で綜合された直観が基礎を置くところのたんなる受容性の表象のなかにあるのではなく(not being present in)、いわばそこに置かれているのである(been put there)。

13

xは立方体である(x is a cube

という形式の表象をもつことができる前に、

この‐立方体(this-cube

という形式の表象をもたねばならない、という見解は頭を悩ませるものである。立方体白いの表象が現れる仕方として、一方では、

  この立方体はサイコロである。この白いものは人間である(This cube is a die. This white thing is a man.)。

があり、他方では、

 これは立方体である。これは白い(This is a cube. This is white.)。

があるが――前者では主語の一部として、後者では述語として――、これは真摯に受け止められるべきである。しかし、それらは発生的な優先性の点から解釈されるべきではない。なぜなら、確かに

  この立方体(this cube

  この白いもの(this white thing

という表象は、心的なものをリストアップする際に現れうるのだが、人が

  この立方体はサイコロである(This cube is a die

  この白いものは人間である(This white thing is a man

のような表象を形成するためにどうやってそれらを完全なものとするかを知らなければ、この役割をさえ演じることができないかもしれないという点で、本質的に不完全だからである。

14

 この論点は空間と時間の表象に関連させればより明白になる。これらの表象は「個体」の表象であるが、それはこの語の〈どんな論理的なレベルの単称名辞であれ、それによって指示されるところのものは個体である〉という意味においてである。私はすぐ後にカントによる空間と時間の処遇のなかにある鍵となる両義性に注意を喚起するつもりである。ここで私が考慮するのは、〈空間に関連する諸々の一般概念(線、交点、面、等)は

  この‐線(this-line

  この‐交点(this-intersection

  この‐面(this-surface

  etc.

のような表象より発生的には後に来るものである〉という考えの非妥当性である。

15

 私が論難を浴びせているのは次のような考えではないということに注意せよ。すなわち、〈現実的あるいは可能的な判断の主部名辞句のなかにある普遍的表象(universal representations)の生起〉は〈その述部における生起〉に発生的に先行する、という考えである(この考えも確かに論難に値するけれども)。この‐性this-ness)は本質的である。なぜなら、伝統的な主張は、

  この‐立方体(this-cube

という表象における立方体は結局のところ一般的なものとして生起しているのでない、というものだったからである。「この‐立方体(this-cube)」というハイフンで連結された句は、一般的あるいは普遍的な表象としての立方体に概念的に先行するような仕方で、すなわち、述定あるいは判断に概念的に先行するような仕方で、何ものかを立方体として表象することを表現する。この立場の強みは、〈知覚において表象される個体はけっしてたんなるこれthis)として表象されているのではなく、(古典的な図式を用いれば)つねにこの‐しかじかthis-such)として表象されている〉という事実にある。

16

 他方、成熟した経験においては、概して言語で表現される「この‐しかじかども(this-suches)」は、概念的に豊かで、「理論負荷的」でさえあり、一般表象の述定的使用を前提とする。カントのテーゼは、アリストテレスのように、知覚的なこの‐しかじかども――それらの内容は語の非常に強固な意味における「知覚可能なもの」(実際に感覚可能なもの)に限られる――の経験を明らかに要求する。完全に規定的でありかつ「基礎的」で知覚的なこの‐しかじかどもの経験を要求するのである。

17

 これらすべてが示唆するのは、(人間の知識に話を限って)カントにおける「直観」という語の用法は、〈個体の概念的表象の特殊な下位クラス〉と〈個体についての根本的に異なった種の表象〉との間の区別を曖昧にしているということである。前者は、ある意味では受容性の機能であるが、いかなる意味においても一般概念に先行せずそれを本質的に含むような枠組みに属する。後者は、たんなる受容性に属し、いかなる意味においても概念的ではない。

18

 いずれにせよ、カントが「直観」という語を〈産出的構想力の綜合する活動によって形成された表象〉と〈産出的構想力が考慮するところの「質料」である受容性の純粋に受動的な表象〉との両方に適用しているということは明らかである。しかし、もし彼が「直観」という語をいくぶん両義的に使用しているということに無自覚ではないにしても、彼はその両義性の根本的な本性に気づいていなかったように思われる。

19

 カントはそのような感受性の表象(伝統にしたがってカントはこれを印象と呼ぶ)に対して、それは何か複合的なものに「ついての」ものではない(not being ‘of’ anything complex)という特徴を帰属させた。それゆえ、〈受容性はわれわれに諸表象の多様を与えるのであって、多様の表象(カントはこれを多様としての多様の表象と同一視する)でははない〉という原理をわれわれは見出すのである。〈たんなる受容性の表象が、何かをカテゴリー的構造あるいは複合性をもつものとして表象するということ〉をカントは単に否定したのだと思われるかもしれない。確かに、カテゴリー的構造と空間‐時間的構造との間の区別は彼の議論にとって本質的であるが、しかしそれはこのような仕方で作動してはいない。また次のようにも思われるかもしれない。すなわち、〈空間は外官の形式である〉という彼のテーゼを考慮して、たんなる受容性は空間的構造の表象をわれわれに与えうるということをカントは認めるだろう、と。しかし、これは事実ではないと私は確信しているし、そう論じるつもりである。彼がコミットしていたのは、〈たんなる受容性の表象がそれについて(of)のものである項は、いかなる意味においても複合的ではなく、それゆえ、そのような外官の表象は空間的複合の表象ではない〉というより強い主張である。もし私が正しければ、空間は外官の形式であるという考えは不整合である。空間は外官の表象作用(representings)の形式ではありえない。そして、もし空間がその表象内容(representeds)の形式ではないとしたら、すなわち、外官によって表象されるものが空間的複合ではまったくないとしたら、〈空間は外官の形式である〉という考えは消失する恐れがある。この不整合についての説明は、カントによる外官の「形式」の扱いは「外的直観」についての彼自身の扱いと両義性を共有しているという事実にある。

20

 したがって、もしわれわれが「外的直観」のすべてを産出的構想力の「形象的総合(figurative synthesis)」に帰属させるならば、上の考察は〈空間は外的直観(=外的直観内容(intuiteds))の形式である〉という考えに対して不利に働きはしないだろう。しかしその場合には、空間もともにそのような受容性から消え去ってしまうように思われる。カントの「感受性」と「直観」の処遇に含まれる洞察を調停するために、われわれが〈たんなる受容性の印象〉と〈産出的構想力の直観〉との間に引いた区別は、空間的言辞についてのふたつの根本的に異なる意味の間にある対応する区別によって伴われねばならない。そのうちのひとつは空間的形式をもつものとしての印象であり、他方は空間的形式をもつものとしての直観の対象である。


Wilfrid Sellarsの著書“Science and Metaphysics”のノート(ほぼ訳文)です。相も変らず極めて難解な書物であります。しかしMcDowellに多大な影響を与えた書物でもあり(一読して明らか)、両者の異同を見極める作業にはこの書物の理解が必要不可欠でしょう。


Sensibility and Understanding


1.

哲学史は哲学者たちの間で行われるコミュニケーションを可能にする共通語(lingua franca)である。哲学史なき哲学は、空虚や盲目ではないにしても、聾唖である。もし私がカントの解釈と注解を基礎として現代的な主題についての議論を構築するならば、それは、〈彼が直面した問題とその解決への行程〉と〈現代の状況とそれが要求するもの〉との間に緊密な平行関係があり、それゆえ、彼をコミュニケーションの手段として――無論、たんに手段としてのみではないが――用いることは有益だからである。最も包括的な側面においては、彼の抱えていた問題とわれわれの直面する困難とはともに〈人間〉と〈科学〉とを真摯に受け止めようとすることから生じるのである。


2.

 本講義における私の目的は〈自然哲学と心の哲学の諸主題を理論的・実践的な側面において体系的に論じること〉という野心的なものであるが、この議論は当然のこととしてプロレゴメナでなければならない。踏み出される最初の一歩はつねに慎ましやかなものであり、基礎的な諸々の概念や区別に関わる。それらは理性の自然光という権威を備えてはいないのだから、それらが与える照明によって、あるいはそれらが可能にするストーリーの一貫性によって、テストされ「証明」されなければならないのである。



3.

 カントの認識論におけるもっとも際立った特徴のひとつは、感性と悟性の間に明確な区別を設けねばならないという主張である。彼曰く、「われわれの知識は精神のもつふたつの根本的な源泉から生じる。第一のものは表象を受容する能力であり(印象のための受容性)、第二のものはその表象を通じて対象を知る能力である(概念の産出における自発性)。それゆえ、直観と概念とがわれわれのもつすべての知識の構成要素なのである」。それぞれが果たす役割についてのこの根本的な相違にもかかわらず、感性と悟性はともに――不明確な広義の意味において――表象の能力(faculties of representation)であると解釈される。この解釈が彼をして次のように言わしむるのである。「それらは共通ではあるがしかしわれわれには知られない根から生じる」。


4.

 カントがなした〈悟性の表象〉と〈感性の表象〉との間の区別を、多くの哲学者がなした〈概念的表象〉と〈非概念的表象〉との間の区別と本質的に同じものであると考える誘惑が生じる。それゆえ、さらには彼の区別をその先行者たち(経験論者と合理論者)が陥った悪しき傾向に対する明確な(clear-cut)進歩として解釈する誘惑が生じる。


5.

 しかし、その区別についての彼の用法を精査すれば、〈この解釈には何か大事なものがあるが、その区別の引き方はさして「明確(clear cut)」ではない〉ということが明らかになる。ここで人は次のように言いたくなる。「彼は構造を明晰化することへ向けて自らの道をひた走ったのであるが、この明晰化をけっして達成できなかった。しかし、それは――樫の樹が団栗の実のなかに潜在的に宿っているように――彼の思想のなかに宿っているのだ」、と。このことの強力な証拠は、カントにおけるふたつの二分法の間にある密接な関係に見出される。すなわち、感性と悟性、直観と概念、である。これらの二分法の左方は「受容性」の名のもとに、右方は「自発性」の名のもとに導入されている。残念なことに、この整然さは議論が陥る危機の犠牲になってしまう。「直観」はヤヌスようにふたつの顔をもつことが明らかになり、悟性はそれ固有の受容性の様式をもつことが明らかになる。


6.

 カントによる「概念」という語の本来の用法は――種的であれ属性的であれ、アプリオリであれ経験的であれ――一般概念を指示することであると注記するとき、彼が「直観」として語っているものは、少なくとも特定の文脈においては、広義だが妥当な意味において、概念的なものでありうると、われわれはきっと考えるであろう。さらには、カントが直観を個体の表象として考えていたことは明らかであるから、これが意味するのは、直観は〈属性や種の概念的表象〉ではなく〈個体の概念的表象〉であるということである。それゆえ、カントは「感性論」において概念としての空間と時間を個体と見なすのである。


7.

 他方、個体の概念的表象のすべてがカント的直観として解釈されうるわけではないということは明らかであるから、この解釈に対してはそれが真摯な検討に付される前にさらなる制約が加えられねばならない。妥当な示唆は以下である。「直観」が個体についての他の概念的表象と異なるのは、たとえば、「完璧に丸い個体(the individual which is perfectly round)」が〈完璧に丸いこと(being perfectly round)〉という一般概念によって媒介されているような仕方で、一般概念によって媒介されているからではない。より有望な鍵は、カントが直観について「対象と直接的な関係にある」と言及していることにある。不運にもこの鍵は両義性を免れてはいない。(1)因果性による解釈。直観はわれわれの受容性への物自体の直接的な触発によって産み出される。直観はその「対象」によって引き起こされる。私はこの示唆に何か大事なものがあると考えるので、後に立ち返るつもりである。(2)直示的な「これ(this)」というモデルによる解釈。このモデルでは(私はこれが概して正しい解釈であると見なす)、諸々の直観は「これら(thises)」の表象であり、何かを「これ」として表象することが概念的であるという奇妙な仕方において、概念的であるかもしれない。


8.

 考察すべきもうひとつの点は、カントが感受性(受容性)にではなく「知性」(自発性)に属する「直観」を認めているという事実である。もっとも、カントは「知性的直観」は人間精神によっても有限な精神一般によっても享受されないと強調しているのだが。


9.

 われわれの知性は、神とは違って、本質的に受容性を含む。ここで「含む(involve)」と言ったのは、直観受容性の関係はカントの最初の定式が含意しているほど簡単なものではないからである。たとえば、〈空間の表象はいかなる意味においても(in no sense)知性的なものではない〉と主張することは極めて困惑させるものでありうる。さらに、カントは次の見解へと明らかにコミットしている。すなわち、個体の表象の一部は直観であるが、にもかかわらず「綜合」を含んでおり、それは一般概念のもとに表象を包摂するという役割における悟性の機能ではないとしても、たんなる受容性の問題ではなく、むしろ受容性と「産出的構想力」である自発性との特異な出会いの基底という問題である。


10

 それゆえ、われわれはたんなる受容性を越えた何ものかを含む直観と含まない直観との区別へと導かれるように思われる。前者は、カントが形而上学的演繹のなかで述べたように、悟性が一般概念のもとに包摂するところのものである。さらに、カントはそのすぐ後で「判断の含む様々な表象に統一を与えるのと同じ機能が、直観の含む様々な表象のたんなる綜合そのものにもまた統一を与える」と述べており、それゆえ、「綜合」を「心の盲目的ではあるが欠くことのできない機能である構想力がもつ作用のたんなる結果」とする漠然とした特徴づけの後に、この「産出的構想力」は一種特別な形態の悟性機能であるということが明らかになったとしても、われわれは驚かない。われわれが「想像内容(imagined)」として語っているものの典型は個々の(individual)事象であるがゆえに、受容性を含んだ個体の表象作用に関与するものとしての悟性を指示するためにこの語を使用することは不適当ではない。〈産出的構想力としての悟性〉は「無意識的に」働くという考えは、疑いなく、〈経験の直観的に表象された対象を分類し関係づける質問応答活動(question-answering activities)(カントはこれを「分析」と呼ぶ)に関与するものとしての悟性〉と対照することによって解釈されるべきである。

前回の続き


2 感覚過程v.s. 認知過程


先ほど定義したアナログエンコーディングとデジタルエンコーディングの対比は、感覚過程と認知過程を区別するために有用である。知覚は、アナログ形式の豊かな情報母体のなかから、情報をその選択的な処理を行う認知中枢へと伝達する過程である。認知的な活動の本質を構成するのは、情報を関連するデジタル形式へと成功裏に変換することである。「sFである」という情報が感覚的なもの(アナログ)から認知的なもの(デジタル)へと変換されないなら、当該のシステムはFであるsを見たり、聞いたり、嗅いだりはするが、「sFである」ということを知ることはない。知識・信念・思考が概念を含んでいるという伝統的な考えはこのコーディングの違いを反映している。認知的な活動は情報に対する概念的操作であり、この概念的な処理は、無関係な様々な差異を捨象し、具体から抽象へと、特殊から一般へ移り行く過程である。

感覚は情報的に豊富で特定的であり、知識や信念は選択的で排他的である。感覚が供給するものは認知メカニズムが抽出できる限界以上の情報を含んでいる。


感覚経験と認知活動の関係を写真と言述の関係と対照することは示唆的ではあるが、それは感覚経験がつねに図像的であるとか認知活動がつねに言語的であるとかいったことを意味するのではない。神経生理学的な観点からすれば、感覚的コーディングから認知的コーディングへの変換は図像や言述がまったく存在しない場合にも生じうる。


 単純な機械システムとは違って、生物のもつ有機的なシステムにおいてはそのデジタル変換ユニット群を改変することが可能である。有機体の必要・目的・環境の変化に応じて、より多くの、より異なった情報を利用するために、デジタル変換器の特性を変化させることが必要になる。

注意の移行は情報の種類の変化を含まない。それは情報のどの部分が抽出されるかについての変化を含むのみである。

 それとは異なり、概念の学習はシステムがもつ情報抽出の能力の不断の改変を含むような過程である。単純な機械システムは学習することができない。対照的に、幼児がスイセンを再認し同定することを学習することは、スイセンについてのより多くの情報を抽出することを要求するような過程ではない。彼女はすでに学習以前の段階で、近視の大人よりも多くの情報をスイセンから受け取っている。それでも、大人はその花がスイセンであることを知っており、幼児はそれを知らない。幼児は知覚的に劣っているのではない。幼児に欠けているのは、その花をスイセンとして同定するために必要な情報を抽出する能力、つまり感覚の供給するメッセージをデコードし解釈する能力である。この情報がデジタル形式において新たにコードされるまでは、幼児はスイセンを見ていても、それをスイセンであると知ることも信じることもない。


ここではアナログ‐デジタルという区別を強調するためにいくつかの側面(たとえば以下の二つ)を無視しているが、目下の議論には影響を与えない。

1)感覚表象においてエンボディーされる情報の多くは時間的統合の結果であるという事実

2)われわれの感覚表象はしばしば異なった多数の感覚経路を通じて得られる情報を運ぶという事実


 庭で遊んでいる27人の子供たちを見ている場面を想定しよう。もし数える機会をもたなければ、あなたは「庭には27人の子供たちがいる」ということを信じはしない(より規定されていない信念――「庭には沢山の子供たちがいる」――なら抱きうるが)。あなたは27人の子供を見ているが、この数字に関する情報はあなたの信念や知識に反映してはいない。したがって、感覚表象から認知的に抽出した情報(「庭には沢山の子供たちがいる」という信念)は感覚構造がアナログ形式で知覚的にコードした情報である。


 〈物理的刺激に含まれる情報〉と〈その刺激が生じさせる感覚経験に含まれる情報〉との間に精神物理的相関があると示唆するつもりはない。両者の間には情報の「損失」や「修復」がある。


ミラーの法則が明らかにするのは、せいぜいわれわれの認知的なメカニズムによって利用可能な情報の限界であって、感覚経験に含まれている情報の限界ではない。


 もし知覚が周囲環境についての生物の経験として理解されるなら、知覚それ自体は認知的に中立である。にもかかわらず、人はFであるようなsを、それがFであると信じたり知ったりすることなしに、見ることができるのだが、知覚それ自体は感覚表象に含まれている情報を利用することができる認知メカニズムの存在に依存している。この意味で、知ることのできないシステムは見ることができない。しかし、もしそのシステムが知ることができるならば、もしそれが必要な認知メカニズムをもっているならば、そのシステムは知ることなしに見ることができる。「sFである」という情報を運ぶ感覚構造はsについての信念と混同されるべきではないが、それがsについての感覚表象として資格づけられるためには、この構造はより大きな情報処理過程のなかで特定の機能をもたねばならない。それがこの情報を可能な認知的利用のための適切な変換機へと利用可能にするに違いない。

Sensation and Perception (1981)

From Knowledge and the Flow of Information, pp.135-153

Fred Dretske

心的活動の情報処理モデルは知覚的・感覚的現象と認知的・概念的現象とを混同しがちである。知覚は情報の抽出と伝達にかかわり、認知はその利用にかかわる。しかし、これらはそれぞれ連続的な情報処理過程の異なった段階であるに過ぎないとされる。再認・同定・分類といった認知的活動は知覚的処理のどの局面においても生じるのであり、「見る」や「聞く」といった活動は「知る」という活動の低次形態であるとされるのである。

これは混同であり、十全な認知的過程における感覚経験の特徴的な役割を見えなくさせてしまう。この点を明らかにするために、いかにして情報がそれ自身を認知的な属性をもったものとして資格づけることなく認知中枢へと伝達され利用されうるかを検討する必要がある(認知的な属性をもつとは、知識や信念と関係づけられるような構造をもつということである)。ここでの目的のために、いかにして情報がコードされるかについての異なった仕方を調べてみよう。

1 アナログコーディングとデジタルコーディング

伝統的な見方では、

・アナログエンコーディング=情報ソースがもつある変数の特性についての連続的表象

・デジタルエンコーディング= 〃 離散的表象

ここではわれわれが情報をコードする仕方ではなく、われわれが事実を表象する仕方が問題である。ある構造は「sFである」という情報をデジタルな形式で運び、他のある構造はそれをアナログな形式で運ぶと言いうるか。

 情報がコードされるそれぞれの仕方の間にある重要な相違点を浮き彫りにするために、アナログv.s.デジタルというターミノロジーを伝統的なものとは違った仕方で使用することを試みよう。

〈デジタル〉

・信号(構造・出来事・状態)が「sFである」という情報をデジタルな形式で運ぶのは、その信号がsについてのいかなる付加的な情報も運ばないとき、かつそのときに限る。付加的な情報とは、sFであるということ(s’s being F)のなかに収まってない情報である。

〈アナログ〉

・信号が「sFである」という情報をアナログな形式で運ぶとき、その信号はsについてそれがFであるということよりもさらに特定的かつ規定的な情報を運ぶ。

アナログな形式である写真が運んでいる情報の翻訳を、デジタルな形式である言語的表現によって与えることは、たとえ近似的にでさえほとんど不可能である。しかし、これは写真が運んでいる情報をデジタルな形式でエンコードする他の手段を開発することができないということではない。たとえば、われわれは写真が描写していたのと正確に同じ状況が生じた場合にのみ作動するようなデジタルな形式の装置(ブザー装置など)を開発することができる。これに似た装置はコンピューターの再認プログラム(テンプレート・マッチング・プロセスなど)で用いられている。入力情報は図像的な形式(アルファベットの文字や幾何学的形態)で与えられる。その入力パターンと記憶されていたテンプレートの間に正確な合致があれば、コンピューターはそのパターンを「再認」し、それを適切にラベリングすることができる。出力されたラベルは入力パターンと同じ情報を運ぶ。

しかし、こうしたプロセスは真の再認を必要としない。出力されたものが入力に含まれていた情報すべてを運ぶ限り、そこには刺激汎化やカテゴリー化、類別化に関わるものがない。われわれが求めるのは、この字体、この向き、このサイズの文字Aを再認するものではなく、様々な字体、様々な向き、様々なサイズの文字Aを再認するプログラムである。この目的のためには、特定のAに関する情報の不必要な部分を捨象し、必要な部分を抽象することが必要である。

 アナログ-デジタル変換の重要性を、延いては知覚的処理と認知的処理との間の区別の重要性を理解するために、次のような簡単なメカニズムを考察しよう。

 ソースの変数は100個の異なった値をとることができる。まず、このソースについての情報を情報処理システムに与える。このシステムの第一段階はソースの状態を正確に記録する装置を含む。このソースを乗り物の速度(時速0~99マイル)と、第一段階をスピードメーターと想定せよ。この情報は次に変換器に与えられる。その変換器は4つの異なるトーンとこれらの異なったトーンを作動させる装置からなる。0~14のときもっとも低いトーンが聞こえ、その次は15~24、次が25~49、最も高いのが50~99である。これらのそれぞれを4つのギアに対応すると考えることができる。アナログ表象としてのスピードメーターはソースについての6.65ビットの情報を運ぶ。もしスピードメーターが時速43マイルという情報を運ぶならば、3番目のギアが作動する。これは乗り物の速度が25~49の間にあることを示すのであり、それゆえ2ビットの情報を運ぶ。

 このシステムの出力はつねに入力よりも量的に少ない。この情報の損失によって得られるものは、入力変数についての有意な範囲の類別化である。これは素朴ながらも刺激汎化の一形態である。情報のより特定的な部分は、関連する類似点に対して一様な反応を行うために、体系的に捨象される。

 アナログからデジタルへの変換過程で情報の損失が生じるのは、それに応じて情報内容が減じるからである。情報が損失を被らないならば、情報処理システムは入力をより一般的なタイプの例化(トークン)として類別化・カテゴリー化・汎化することに、つまりは「再認」することに失敗したことになる。

 この単純なシステムは完全に機械的なものであり、真正な知覚‐認知システムの本質的な特徴の一部を欠いているが、にもかかわらず、刺激汎化などの基礎をなす情報理論的な過程を例示しているのである。