Scenarios, Concepts, and Perception

Christopher Peacocke

1. Scenarios

・最も根本的な種類の表象的内容から論述を始めよう。他の種類の表象的内容はこれを前提している。

・ひとつの基本的な形式の表象的内容は、知覚者の周囲の空間へ書き込む(filling out)諸々の仕方のどれが正しい表象的内容と整合するかを特定することによって、個別化される。その着想は、内容は空間タイプを含むというものである。このタイプは、内容の正しさと整合する、主体の周囲の空間へ書き込むそれらの仕方を含む。このモデルにおいては、内容の正しさは例化の問題である。それは、知覚者の周囲の現実世界による、当該の表象内容を与える空間タイプの例化である。

・この直観的な定式を精緻化するために、われわれはふたつのステップを踏む。

・第一のステップは、原点と座標軸を固定することである。原点と座標軸は相関するある諸特性によってラベリングされる。例えば、原点のひとつは、人間身体の胸の中心であるという特性によって、中心と関連した前/後・左/右・上/下という諸方向によって与えられる三つの座標軸とともに、与えられる。

・こうした特定の座標軸の使用は純粋な記法上あるいは慣習上の問題ではない。適切な座標軸の集合は経験の現象学のなかにある諸差異を捉える(頭と身体を前に向けて見る場合と、頭をそのままで身体を右に向けて見る場合の差異など)。

・触覚的経験の場合には、人間の手の平の中心であるという特性をラベリングされた何かを原点として、それとの関係によって定義される座標軸とともに、使用することがある。こうした場合を考慮に入れるのは差し控え、単純な場合のみを考察してゆく。

・第二のステップは次のものである。原点からの距離と方向によって同定される各点(厳密に言えば、点タイプ)に対して、そこには表面が存在するかどうか、もし存在するならどんな肌理か、色調か、彩度か、明度か、気温は何度か、堅さはどうか、といったことをわれわれは特定する必要がある。表面の定位、照明の方向、強度、性格、知覚可能な性質の変化の比率などがさらに含まれる。

・空間へ書き込む仕方を特定するなかで使用される概念装置が、知覚者自身によって使用される概念装置であることは要請されない。知覚者のもつ概念装置がどれほどプリミティヴなものであっても、空間タイプを固定化するためにいかなる概念装置をも使用することができる。

・空間タイプの僅かに精確さを増した定式。空間タイプとは、ラベリングされた原点および座標軸の集合との関係で諸々の表面や特性その他を位置づける仕方である。このような空間タイプをシナリオと呼ぶ。

・この道具立てを念頭に置くならば、表象内容の正しさにとって何が要求されるか。シナリオのなかのラベリングと合致するように固定された現実世界のなかの原点および座標軸を含んだ、経験が起こっている時点における知覚者の周囲にある現実世界の嵩(volume)を、シーンと呼ぶ。このシーンがシナリオに該当するならば、経験の内容は正しい。

・経験に対する、即座に正しいあるいは誤りとして評価しうるその表象内容のもつ条件は、文に対する、即座に正しいあるいは誤りとして評価しうるその真理条件と並行的である。特定の場所に関して即座に評価可能なのは知覚経験の内容である。知覚経験に対して、そのような即座に評価可能な内容を位置づけられたシナリオ(positioned scenario)と同定しよう。

・位置づけられたシナリオは、()シナリオのラベリングされた座標軸と原点に対する、世界のなかの現実の方向と場所の割り当て、()割り当てられた時間、の二つと一緒になったシナリオから成る。特定の知覚的経験にとって、()によって割り当てられた現実の方向と場所は、経験を享受する主体に対するラベルの適用によって与えられる。()において割り当てられた時間は、経験が生じるその時間である。割り当てられた場所におけるシーンが割り当てられた時間においてそのシナリオに該当するならば、位置づけられたシナリオは正しい。

・いかなる知覚的経験も正しさの条件(correctness condition)をもっているという要請は、人間の知覚経験以外に、他のどんな形態の知覚経験が可能かについて制限を課す。例えばラベリングされた座標軸を欠いているならば、正しさの条件は固定されない。流体のなかで生活し、体表の光刺激を知覚する球状の生物でさえ、その身体の諸部分によってラベリングされた座標軸を有している。

・位置づけられたシナリオは文字通り内容それ自体である。それは内容の心的表象でもなく、表象の特定化でもない。何かについて思考する仕方でもない。異なった種類のサブパーソナルな心的表象は、その内容において、シナリオの同じ特定の成分をもっているかもしれない。例えば、特定の地点における表面の方向は、その傾斜によって与えられるかもしれないし、同様に勾配空間におけるその表象の成分を特定化することによって与えられるかもしれない。そのような方向が表象される仕方において異なる諸々の心的表象は、にもかかわらず各々の主体の周囲のなかに例化されるものとしての同じシナリオを表象するかもしれない。

・位置づけられたシナリオには含まれているが、マーの2½次元スケッチには含まれていない数多くのものがありうる。例えばマーの½次元スケッチは網膜中心座標のみをもち、照明条件を含んでいない。

・ここで問題なのは、少なくともその内容の一部が位置づけられたシナリオによって与えられるような心的表象が存在するということである。そうした表象が他の内容を含んでいるかどうかは問題ではない。問題なのは、表象がもつシナリオを含んだ内容と他の内容との間に特定の体系的な連関が存在し、後者が前者とのその連関に依存しているということである。

・世界を知覚することによって、われわれはしばしば所与の概念的内容を伴った判断が真か偽かを学ぶ。これが可能なのは、知覚経験が正しさの条件――この条件をもつことそれ自体が概念的内容の真理を排除したり要求したりしうる――を持っているからである。

・概念内容の一部は、その内容を判断するための適切な理由を与える知覚経験との関係によって、実際に個別化される。

・シナリオは、非概念的内容の或るレベルのなかに、概念的内容という概念を投錨するための約束された資源である。

・空間タイプは概念とはまったく異なる。概念の同一性はフレーゲ的な認知的意義の考慮によって与えられる。概念はそれを所有する施行者に対して要求される条件によっても究極的には個別化される。空間タイプを利用する非概念的内容の理論は、概念群のヒエラルキーを非循環的に基礎付けるひとつの仕方を約束する。

・位置づけられたシナリオという概念は真正な知覚と幻覚の双方に内容を与える。真正な知覚が哲学的に優先し、幻覚のケースは真正な知覚のケースとの関連で解明されるということは、ここでの道具立てと整合的である。幻覚の経験は、そのようなシーンはそこに存在しないにも関わらず、環境をある空間タイプのシーンとして表象する。シナリオは認識論的問題を悪化させもしないし、それ自体で解決することもない。

6.4 物質的対象の直示的同定

・日常的な知覚的状況においては、主体と対象との間の情報リンクが存在するだけではなく、主体は情報リンクに基づいてどこに対象があるのかを知っている。主体の[π=p](任意のπ、pは自己中心的空間における位置の<観念>)という命題の真理条件についての一般的知識を前提し、かつ主体が自己中心的空間のなかに対象を位置づけているということを前提すれば、彼は[これ=いまπに在る対象]という命題の真理条件の知識を知っていると言われうる。それゆえ、主体は対象の十分な<観念>をもっていると言われうる。

p.171

・「どれであるかを知る」というコミュニケーションのための概念は皮相な概念である。或るタイプの指示を理解するという概念は、そのタイプの指示を形成するという概念よりも根本的な概念である。

・空間的に位置づけられた事物の直示的同定は自己中心的空間における位置の同定へと還元可能であるか。すなわち、「このG(this G)」は「(いま)pにあるそのG(the G (now) at p)」へと還元可能か。

これは一般的に可能ではない。

・まず第一に、非常に多くの場合、主体は対象がどこにあるかを実際に知ることなく直示的同定をなす。対象との情報リンクは、その位置に関する特定の情報を与えることなく、対象を位置づけることを主体に可能にする。情報リンクは主体を釣り糸の先に何か引くものを感じている釣り人のような立場に置く。そのような場合、主体は対象を位置づける実践的能力をもつが、必ずしも「私の釣り糸の先にいるそのもの(the one)」のような概念の構築を必要とはしない。

・第二に、われわれは対象が自己中心的空間の特定の位置を割り当てられないほどに素早く動いているときでさえ、知覚に基づいて対象を同定することができる。それゆえ、「このG(this G)」は「(いま)pにあるそのG(the G (now) at p)」によって定義されはしない。

p.172

・明らかに記述的な思考を、実際には何も知覚していないが直示的同定を試みた主体に対して帰属させうる、という示唆についてはどうか。

・これは他の理由によって誤解している。

・そのような対象の自己中心的空間における記述が十分であるためには、その記述は非常に精確でなければならない。自己中心的空間のなかの点pの<観念>――細かい錠剤を個別化するほどに十分精確であるような<観念>――は、主体の知覚がつかむための何か(錠剤)がpにあるがゆえにのみ存在する(対象がなく場所のみでは把握は困難を極める)。それゆえ、pの<観念>は錠剤の知覚に依存しているのである。

p.173

結論:対象の直示的<観念>はいかなる他の種類の<観念>(とりわけ記述的なそれ)にも還元できない。主体は、対象を自己中心的空間に位置づけることを可能にする〈自己自身と対象との情報リンク〉の存在のゆえに、十分な<観念>をもちつ(<観念>が十分であることは自己中心的空間を公的空間と関連づける主体の能力に依存している)。帰結として、対象についての直示的思考は――「ここ」思考と同様――ラッセル的なものである。

p.174

・状況は極めて複雑である。なぜなら、直示的同定が依存している情報リンクは三つの機能に従事しているからである。

・①その以前または現在の供給(deliverances)は主体に対象の制御的概念把握(governing conception)を与える。

・②主体は対象との接触を保ち、対象から受けとる未来の情報に応じてその制御的概念把握を変化するよう(無媒介的に)傾向づけられている。

・③情報リンクに基づいて、主体は自己中心的空間のなかに(それゆえ客観的空間のなかに)対象を位置づける。

・直示的思考は、主体と対象の間の継続的な情報リンクの文脈で生じる。対象の直示的<観念>は本質的に情報収集の或る期間(過去・現在・未来)に及ぶものである。

p.175

・知覚可能な事物の直示的<観念>の根本的基礎は、或る期間にわたって単一の事物に選択的に注意する(追跡する(keep track of))能力である。

・この観点からすれば、現在現前している対象の直示的<観念>と過去志向的な種類の直示的<観念>(あの閃光(that flash)とかあの炸裂音(that bang)として何かを思考することの基礎にある)とは極めて異なる(閃光や炸裂音はすぐに消えてしまうため、それを追跡することができない)。

・「これはFだろう(This will be F)」という信念が生じさせる予期は、特殊な対象に直接的に関わる予期である。

・「直接的」によって意味するものを説明するひとつの仕方は以下である。予期が充足されたとき、「これはFである」によって表現される主体の信念状態を壊すことは不可能となる。「これはFである」は二つの要素、[これはFである]と[これ=a]を含む。aは元々の述定において生じた<観念>である。

・しかし、これは誤りである。むしろ、「これはFである」は「これはFだろう」と同じ持続する信念を表明しており、両者は同じ<観念>を援用しているのである。

・ここでの継続的な直示的同定において、「これはFであった」を[あれはFであった]と[これ=あれ]とに分解するのは誤りである。このように分節化する場合、われわれはどちらの要素に関してもそれが誤っている可能性に備えなくてはならない。しかし、妥当な短期間において主体が単一の対象との接触を保持しなかったならば([これ=あれ]が誤っていたとしたら)、それは誤同定の証拠ではなく、そもそも主体が思考をもってはいなかったことの証拠になる。彼は異なった対象の瞬間的に同定された系列をもっているのではなく、いかなる対象の同定にも失敗しているのである。

p.176

・自己自身を空間のなかに位置づけられたものとして思考する能力は、彼が出会う現象を彼の知覚からは独立的なものとみなす能力に必然的に含まれる。少なくともプリミティヴな自己記述(位置、方向、位置と方向の変化)は、客観的世界それ自体についての思考と相互依存的である。

6.5 いくつかの帰結

・第一に、ムーアの連続体の問題に答えることができる。

・われわれは知覚に基づいて、われわれが直面しているのは単なる薄い表層ではなく個体全体である、ということを知っている。

・われわれは知覚を介して個体全体についての情報を受け取ることができる。

・われわれは確かに物体全体を自己中心的空間に位置づけることができる。

・しかしながら、直示的同定と気づき(情報)との間に或る結び付きがあり、それゆえ直示的同定には限界があると考えた点でムーアは正しかった。

・家の中の部屋に座っていて、主体が都市との情報的な接触を持たないとき、主体が彼の周りに都市があると信じているとすれば、その信念は知覚による情報のみに基づくことはできない。

・ここには6.4の③だけが残っている。

・第二に、直示的同定はソータル(sortal)に伴われていなければならないというのは真ではない。ソータルは、時間・空間のなかにある事物の境界を定めるものである。対象の根本的<観念>はそのようなソータルを含むが、直示的同定それ自体は根本的<観念>を構成する必要はない。主体が[This = the G at π, t]という同定命題の真理条件を知っている限り、それで十分である。主体がその事物の種類(sort)を実際に知ることなしに真理条件を知ることは可能である。

p.179

・思考の対象についての誤りは、対象の種類についてだけではなく、欠陥のある知覚から結果するものもある。

p.162

・次に考究すべきは、自己中心的空間における場所の<観念>を公的な空間における位置の十分な<観念>にさせるのは何か、である。

・主体が[π=p]の真理条件の知識を有していると認められるならば、<観念>pは十分である。πは場所についての任意な根本的(それゆえ全体論的)同定の代入記号である。

・そのような知識は前提できる。なぜなら、空間について「客観的に」思考することができる主体(認知地図をもつ主体)であれば誰であれ、そのような同定を精確になすこと(諸事物の客観的な空間的関係の知識を自己中心的空間に重ねること)に含まれているものを知っていなければならないからである。

・オックスフォードの認知地図をもっている者は、自身の道程において――たとえ霧のなかにいようとも――その地図が課すところのものを熟慮できなければならない。そうした状況において、主体は自己中心的空間と客観的空間についての自身の概念把握との一致をもたらすいくつかの仕方の間で選択を行わなければならない。

・どの仕方においても、どの方向を向けば何が観察できるべきであるか、どの方向へ移動すれば何が観察されるだろうか、についての仮定が生じる。

・[π=p]という同定命題の真理条件についての知識を構成するのは、その辺りに精通する(自分が世界のどこにいるのかを見出す(find one’s way about))能力である。

・この能力はいくつかの重要な特徴と前提を有している。

・主体は空間を連続的に移動できなくてはならない。その移動の行程は主体の知覚の行程を規定し――それゆえ、それを基礎として規定可能で――なければならない。さらに、次のような推論に従事可能でなければならない。「もし私がベイリオルとブラックウェルの間に居るのならば(もし〈ここ=ベイリオルとブラックウェルの間〉であるならば)、それはトリニティであるに違いない。そして、もし私がこの方向に少し行くならば、私は本通りを見ることができるだろう」。

・客観的な空間的世界について思考することができる者であれば誰であれ、われわれはこうした能力を帰属させることができなければならない。

・他方、そのような思考は認知地図によって空間的世界を表象する能力を前提する。われわれは、その主体は自身を(彼と独立的な客観的)空間のなかに位置づけられたものとみなす、と言う。そうである場合にのみ、その主体の自己中心的空間は(客観的・公的な)空間であることができる。主体は自身の自己中心的空間を認知空間の枠組みのなかに位置づける能力をもつ。

・自己中心的空間を基礎づける入力‐出力の結び付きのネットワークは、空間的表象との一致へと主体によってもたらされることができないならば、空間を表象する仕方を助けるものとみなされえない。主体は自身を客観的対象のひとつとして思考可能でなければならないのである。

p.164

・もし主体が場所との安定した傾向性関係を保持しているならば、[π=p]という形式の真である命題がただひとつ存在し、かつ主体はその真理条件を知っている。

・われわれは次のことを理解すべき位置にいる。すなわち、場所との情報リンクはそれだけではどの場所が当該のものであるかについての知識の十分な基礎を構成しない、という

・「ここ」思考についての可能な立場のひとつは、場所との情報リンクは場所の「ここ」同定のための十分な基礎を構成する、というものである。海底にある遠距離操作された潜水艦から送られてくる画像を見ていると想定せよ。このとき次のように述べる。「ここはどこなんだ」「ここは汚い」など。われわれはこうしたケースと通常の「ここ」思考との決定的な相違を理解できる。

p.165

・通常の場合、主体がどの場所が当該のものであるかを知っていると言われうるのは、主体が場所を自己中心的空間のなかへ位置づけ、彼が有するその辺りに精通する一般的能力(自己中心的空間と客観的空間とを統合する能力)が彼の知識が十分な<観念>を構成するのを保証するがゆえである。

・ここで問題となっている通常ではない場合(潜水艦)において、情報が自らの近傍の環境に関わるものではないということを主体が知っているならば、彼はその場所を自己中心的空間に位置づけることができず、それゆえ概念的要素を必要とする他の同定様式が問題となる。

・逆に彼がその場所を自己中心的空間に位置づけられると称するならば、彼はどの場所が当該のものであるかを知らないのである。

・たとえ、潜水艦が四肢と掘削機を備え、主体によって遠隔操作可能な推進力を得て、なおかつ主体がその操作に習熟したとしても、彼はその潜水艦がある場所について「ここ」思考を行うことはできない。主体は潜水艦がある場所に居るというごっこ遊びをできるにすぎない。彼が実際に居るそのパースペクティヴからしか、場所についての思考は可能とならない。

・もし、主体がいる水上の船の位置が彼にとってまったく重要でなくなり、彼の世界の中心が潜水艦のある水面下の場所になったとしたら、そして水面下の場所において「ここ」とか「この」とか発話することが概念的付加物を必要としない直接的なものとなったとしたら、どうなるか。

・その場合、水上の船の位置についての思考が、水面下の場所という観点からしか可能とならなくなる。

p.168

・単一の主体にとって、通常の「ここ」思考の概念的単純性によって、二つ以上の異なった場所を「ここ」として思考することは可能ではない。いかなる単一の主体も二つの観点から同時に知覚し、思考することはできない。

・自己中心的空間のなかの位置についての思考は、知覚と行為との間にある分離不可能な傾向性の存在のゆえに、公的な空間の位置や領域に関わるものとなる。

・この傾向性関係について、それが潜在的なものである場合と現実化された場合のいずれにおいても、場所の同じ<観念>を人は援用しているのである。

p.169

・〈(対象にかかわる)本来の直示的思考〉と〈自己中心的空間の位置や領域についての思考〉との重大な差異が総体的に考えられるべきである。

・両者の共通点、①どちらにも傾向性的要素が存在する、②どちらの思考も(対象および場所からの)情報によって制御される。

・相違は次の点にある。

・対象を知覚することなしに、主体が対象と傾向性的に関係づけられていることは可能であるが、関係づけられていることを知ることはできない。

・主体にとって自らが移動しているかどうかを知ることは可能なので、主体は自らの「ここ」傾向性がある期間にわたって同じ場所に関わっているということを、その場所を知覚することなしに知ることができる。

・自己中心的空間のなかで主体が場所を同定する仕方は記述的同定の一種とみなされえない。この種の思考は特定の仕方で反応する傾向性に基づいており、この傾向性は記述的同定様式に含まれるいかなる思考の把握によっても保証されえない。

・生じうる唯一の可能な疑問は、記述的同定様式の定式候補としての「私が居るその場所(the place where I am)」をめぐるものである。これについてはすでに論じてきた。第一に、もしこれが単に異なった言葉で表現された同じ<観念>ではないとすれば、それは誤って「ここ」に対する「私」の優先性を示唆しているのである(「私が居るその場所」と「ここ」のそれぞれが別々の<観念>に適合するならば、「ここ」に対する「私」の優先性は成り立たず、還元もポイントを失う)。第二に、「ここ」思考は、自己中心的空間の任意の位置についての諸思考を含んだ、思考の一般的システムの一部である。いかなる記述的還元も一般的に有効ではないと看取するや否や、この異論の余地のある記述的扱いをそのシステムの一要素にだけ適用することには何のポイントもなくなる。

p.170

・この場所についての思考はその内容がラッセル的だと考えられる思考の第一の例である。

p.151

6.3 自己中心的空間的思考:「ここ」

・場所の同定には何が含まれているか。私がそれについて思考している諸々の場所は、指示の枠組みを構成している諸対象に対するその空間的関係によって弁別される。したがって、場所の根本的同定は、諸対象の各々に対するその関係の同時的指示によって場所を同定する。場所がこのような仕方で思考されるのは、対象の空間的関係を表象する地図の上に場所が同定されるときである。この同定は全体論的な性格をもつ。場所は単にひとつかふたつの対象を指示することによって同定されるのではない。それゆえ、多少の対象が移動したり破壊されたりしても、同定は有効でありうるのである。

・「認知地図」(いくつかの区別された事物の空間的な関係がそのなかに同時に表象される)のような表象に依存した同定であってもこの全体論的な性格をもつ。空間の概念ならびに空間の中に知覚と独立に存在する対象の概念が真に存在するためには、思考者がこのような表象を形成し援用する能力をもつことが不可欠である。

p.152

・〈空間的時間的世界についての思考の根本的レベルはその世界の認知地図によって保持されうる思考である〉と言うことは、われわれの思考の根本的レベルはある意味で「客観的」なものであると言うことである。各々の場所は他の場所と同じ仕方によって表象される。「ここ」とか「そこ」とかいったものを導入する必要はない。

・これを背景として、空間についての次のような思考へ向かおう。すなわち、「ここ」という語の発話によって典型的には表現される思考である。こうした「ここ」思考を、目隠しや麻痺、耳栓などの例を挙げ、場所を「私が占有している場所(the place I Occupy)」のような記述によって同定する思考へと還元できると考える人がいるかもしれない。

p.153

・しかし、これは誤りである。行為と知覚の可能性の存在しないところに、「ここ」思考は理解を得ることはできない(水槽のなかの脳について考えよ)。

・「ここ」に対する「私」の優先性を認めることは誤り。

・[p=ここ]は[私はpにいる]と同じ思考である。しかし、これは私が「ここ」を「私がいるところ」と同定しているということを意味しない。

・「ここ」思考がいかにして働くかを理解するためには、「ここ」思考が「それはあそこ(over there)にあるFである」「それは左の上にある(up there to the left)Fである」「それは私の少し後ろにある(a bit behind me)Fである」のような諸々の思考を含んだ場所についての思考の体系に属しているということに気づかなければならない。これを自己中心的思考様式とみなす。

p.154

・主体は自身を空間の中心=原点にいるとみなす。それは上/下、左/右、前/後といった概念によって与えられる座標においてである。これを自己中心的空間とよぶ。「ここ」は主体を中心とする多かれ少なかれ広がりをもつ領域を指し示す。

・自己中心的空間語は、それのなかでわれわれの空間的経験が定式化される用語であり、そのなかでわれわれの当面の行動計画が表現される用語である。この二重性は偶然の一致ではない。自己中心的空間は知覚的入力と行動的出力の間に存在する結びつきの複雑なネットワークにおいてのみ動物に対して存在しうる。

・知覚的情報の非概念的内容のなかの空間的要素を考察する(音の方向の知覚)。

・異なった方向からの音を弁別することができるだけでは、音の方向の知覚にとって不十分である。それに加えて、様々な空間的行動に傾向づけられていなければならない。

・この点は、知覚が含んでいるとわれわれが想像するところの空間的情報をいかにして特定化するかを反省すると明瞭になる。主体が音の空間的位置を特定するのは、おそらく自己中心語(上/下、左/右、前/後)においてである。これらの語は音の位置を観察者自身の身体との関係で特定化し、その意味の一部を主体の行為との複雑な関係から引き出している。

p.156

・チャールズ・テイラーは言う。「われわれの知覚野は定位的構造(orientational structure)を有している。この定位的構造はわれわれの知覚野を身体化された行為者のそれとして印づける。知覚野のパースペクティヴが単に私が身体的に位置しているところに中心を持っているというだけでは、行為者の印とはならない。知覚野の上‐下という方向性がそれを印づけるのである。これは私の身体的行為に基礎をもつ。上下は知覚野のなかで私がいかに運動し行為するかに関係づけられている。」

・音の方向をコード化する聴覚的入力の複雑な特性は、行動的出力と結び付けられていることによって、主体にとっての(非概念的)空間的内容を獲得する。その結び付きはたとえ単純な行為の場合であっても、筋肉語(muscular terms)(生理学的な記述に使用する語か?)によって記述されるならば、複雑なものとなる。なぜなら、例えば暗闇で音のする物に手を伸ばすとき、その手を伸ばす反応は、身体の最初の位置と運動の道筋に応じて、無際限な範囲をとるから。

p.157

・入力‐出力の結び付きは、出力が明示的に空間語によって記述されるときにのみ、限定的に指定されうる(「腕を伸ばす」「二フィート前に歩く」など)。これは、自己中心的空間語の筋肉語への還元を排除するものである。情報の所有は計算を必要とすることなしに行為において直接に表出可能である(manifestable)

・(註26)自己中心的空間語と身体運動の空間的記述は全体論的な構造を形成する。

・情報について「自己中心的空間において位置を特定する」と言うとき、〈特別な種類の空間についての情報〉を語っているのではなく、〈空間についての特別な種類の情報〉を語っている。

・〈空間語に割り当てている意味(sense)〉と〈その語による公的な三次元的空間における位置の指示(reference)〉とは整合的である。

・知覚的情報状態は、それ自体では経験、すなわち意識的な主体の状態ではない。刺激に対して通常の反応を行えるが、それについてのいかなる意識ももっていないということは可能である(例えば盲視)。

p.158

・こうした例についての反省は、哲学者や心理学者をして、意識的経験という概念の適用のために要求されるのは、〈主体が自分自身に対して経験を帰属させることができることだ〉と考えさせるかもしれない。

・こうした考えが正しいとしても、ここで問題となるのは、経験についての思考ではなく、世界についての思考である。

・換言すれば、感覚入力が、単に行動反応に結び付けられているだけではなく(この結び付きは系統学的により古い脳の部分のなかにあるかもしれない)、思考・概念適用・推論のシステムへの入力としてもまた働くときに、意識的経験の概念に達するのである。

・そのようなさらなるリンク(思考へのリンク)が存在する場合に限り、脳の或る部分ではなく、むしろ人格が情報を受け取り所有すると言うことができる。

p.159

・思考は随伴現象ではない。意識的主体がなすことは決定的にその思考に依存している。思考と行為の結び付きのみが、思考に対する概念内容の帰属を可能にする。

・意識的経験の内容それ自体が概念的内容であることは要求されない。意識的経験に対して要求されるのは、主体が何らかの概念を行使し(何らかの思考をもち)、それらの思考の内容が入力の情報的特性の内容に体系的に依存すべきだということである。

・主体が異なった位置からの諸々の音を同時的に聞くことができねばならないという要請はまだ組み込まれていない。

・しかし、この要請が不在であっても、ここまで記述してきた種類の情報状態において、われわれは「同時に」存在する空間的表象をもつ。なぜなら、それぞれの音は、自己中心的空間を定める同時的な諸々の無限定に多くの位置のひとつから来るものとして聞こえるから。

p.160

・純粋に聴覚的な知覚に含まれている空間的情報は極めて乏しいものである。われわれはこれを触覚的‐運動感覚的知覚を考察することによって豊富化することができる。この触覚的‐運動感覚的知覚の空間的内容もまた自己中心語によって特定化される。触覚的‐運動感覚的知覚においても同時的な空間的表象は存在する。その他の論点も聴覚的知覚と並行的に論じられる。

・聴覚的知覚と触覚的‐運動感覚的知覚に含まれる空間的内容は、どちらも同じ自己中心語で特定化される。どちらのシステムからの知覚もひとつの統一的世界像を構築するために使用されるのは、このことの帰結である。自己中心的空間はひとつしか存在しない。なぜなら、行動的空間はひとつしか存在しないからである。

p.161

・自己中心的空間の概念をもった意識的主体を想定しよう。主体の知覚的入力に直接的に結びついている、自己中心的空間の内容をもった思考についてわれわれは考えてきた。しかし、その基礎構造についてわれわれが論じてきた概念的装置を前提すれば、主体が現在知覚しているか否かに関わらず、自己中心的空間のなかの或る位置や領域について思考をもつことは大いにありうる。

・例えば、暗闇のなかで「そこにウィスキーのボトルが在る」と思考している主体を想定せよ。これは規定的な思考である(主体は心のなかに限定的な場所を抱いている)。なぜなら、われわれはその主体が自己中心的空間のひとつの位置を選択するし、これとの安定的な傾向性関係を保持する能力を有していると知っているから。

・もし主体が場所の<観念>を有しているのであれば、それは安定的な傾向性関係の表出においてのみ表出される。場所について思考する主体の能力はそれとの傾向性関係に依存している。

・「ここ」を使用して表現される思考についても同様の論点が成り立つ。

Chapter 6

Demonstrative Identification

6.1 直示的同定と知覚

・ラッセルは直示的同定と記述的同定とはまったく異なった同定様式であり、直示的同定がラッセル的な単称名辞の使用を支えているという考えをわれわれに示した。

・直示的同定が知覚を含んでいると考えるのは自然である。ストローソンも直示的同定には対象の知覚的弁別が必要であると考えていたが、これだけでは説明として不十分である。

・最初に必要なのは、「何かを知覚することがいかにしてある種の思考を可能にするのか」を精確に理解することである。そのような説明は「何が直示的同定と他の同定様式とを統一するのか」を理解させるはずである。

・第二に必要なのは、日常的な知覚の概念につきまとう曖昧さを除去することである。核となる発想は、或る時間間隔における対象の状態や振る舞いについての情報を主体に与えてくれる、主体と対象との間の情報リンクについての発想である。

・しかし、これは日常的な知覚概念によって邪魔される。主体が対象を知覚していると言われるなかには、様々な種の情報経路における空間的迂路や時間的ずれが含まれている(テレビで誰かを見る、ラジオで誰かを聞く、鏡で誰かを見る、とわれわれは言うが、影で誰かを見る、とは言わない。経路に大きな遅延が含まれているにもかかわらず、星を見ていると無条件に言える。しかし、レコードで聞くとき、カルーソーを聞いていると無条件に言うことはできない)。

・ムーアを困惑させた連続体についての議論。対岸の砂浜の方を指差して、「この島は無人島だ」と言うとき、人はそれを砂浜がその一部である島を指示しているものと理解しなければならない。「この椅子」のような直示は、「この」として指示するものがその一部である椅子を「記述によって」指示しているものと理解しなければならない。純粋な直示的同定は人が意識している(aware)何か(例えば、対面しているものの表面)についてしか可能ではない。厳密に言えば、そのすべてを意識しているのでなければ、何かを意識しているとは言えない。ムーアはこのことに困難を感じていた。人がそのなかに居る部屋や家、街を直示的に同定可能か。

・このような知覚の日常的概念がもつ曖昧さは、ストローソンの定式を疑わせる。

・当人の車を指差すことによって或る男を指し示すときのように(燃えている車を目の前にして、「あの男は残念に思うだろう」と言うときのように)、われわれはクワインが「延期された直示(deferred ostension)」と呼んだものをもたらすほどまで非常に広く直示的表現をもちいる。この場合、同定は「記述によって」与えられている(上の文は「燃えている車の所有者である男は残念に思うだろう」の省略)。

・ラジオとテレビもこのケースと同様に扱われねばならないか。

・日常的な知覚概念に導かれるがまま従うことに甘んじてはならない。同定の概念は理論的概念であり、ラッセルの原理を介して思考や判断の概念と結びついているのである。

6.2 情報リンクは十分ではない

・主体と対象との間の情報リンクはわれわれがその特徴づけを試みている同定様式の必要条件である。直示的思考は情報基盤的思考である。主体の思考は彼が対象から引き出した制御的概念把握(controlling conception)によって統御されている。「あなたがそれについて信じていると思っているそのようなものが存在することをあなたはどうやって知ったのか」と問われれば、「見えるから」とか「それはそこにあるから」とか答えるだろう。より特徴的には、直示的思考は主体と対象との間の継続的な情報リンクという文脈で生じる。対象からの情報の変化に応じて徐々に展開する、そうした発展的概念把握(evolving conception)を主体は有している。こうした概念把握は弁別に供するための要素を運んでくるが、これは基本的な知覚的スキルに基礎を置いている(知覚的配列のなかで対象を追跡する能力など)。

・(註8)信念独立性のゆえに、主体の側の推論過程が存在するときには、情報リンクについて語ることはできない。

・この必要条件テーゼ(情報リンクは直示的同定の必要条件である)の帰結のひとつは次のものである。対象の直示的<観念>を有している主体は、その<観念>に含まれる思考の真偽に関連する対象からの情報を扱うための無媒介的な傾向性を持っている(無媒介的な傾向性とは、それが或る条件を満たす対象から受け取った情報を、その条件を満たす対象の再認とともに、その思考の真偽に関連したものとして扱うより一般的な傾向性の産物ではないという意味である〔つまりは、再認能力の操作によって媒介されていない傾向性〕)。

・発話の解釈という文脈にこれを置くために、われわれは次のように言うことができる。発話において単称名辞を対象に対して直示的に指示するものとして解釈する主体は、その対照から由来し、その発話の真偽にふさわしい、或る現在および未来の情報状態を扱うための無媒介的傾向性をもっているだろう(傾向性なので未来の情報状態もここで含まれている)。

p.147

・この必要条件を同時に十分条件でもあると解釈しがちである。そして、こうした解釈は〈そのような情報リンクに基礎づけられていること〉が〈理論的によく動機づけられた直示的同定〉を構成するという考えを導く。

・逆の考え(=エヴァンズの指示する考え)は、単なる情報リンクの存在は直示的同定にとって十分ではない、というものである。たとえそのようなリンクが存在するとしても、或るケースにおいては、主体がリンクをもつ対象は情報経路に対する入力として働く対象としてのみ考えられる(例えば、これがそれに関する写真であるところの対象、これらのテレビ画像の原因である(responsible for)対象など)。この反対の立場においては、これらの思考は真の直示的思考がもつ概念的単純性をもたない。つまり、概念的要素が現前していなければならない。

・しかし、なぜ現前していなければならないのか。確かに、或る人物が対象と向き合って、命題の真理値に固有に関連するものとして、その対象の状態ならびに振る舞いを扱うことへと選択的に傾向づけられているならば、情報経路に迂路や時差が含まれていようといまいと、どの対象が当該のものであるかを彼が知っているということは自らにとって明らかなのである(shows himself)(エヴァンズはこの見方に問題ありという診断を下す)。

p.148

・この見方が魅力的なものであるということは否定しない。もし思考の本性が内観によって解決されるならば、現下の問題は解決されるだろう。

・こうした見方を受け入れるならば、われわれはテレビやラジオのケースのように、情報経路についての思考が背景のなかに存在すると想定しなければならなくなる。これはただちに、標準的なケースにおいてもそのような思考が存在していることが必要なのではないかという問いを生じさせる。

・にもかかわらず、単なる情報リンクの存在は対象についての直示的思考の可能性を保証しない。情報経路を経由してアクセス可能な情報によって真あるいは偽として決定されうる対象についての命題に注意を絞っている限り、問題はないように思われる。その命題の真理条件についての主体の知識はその真を決定する実践的能力と等しい。

・しかし、一般性制約が想起されねばならない。主体が対象の十分な<観念>をもっているならば、その対象について無限定に多くの思考を養うことが可能でなければならない。

p.149

・われわれの思考にとって、この生産的性質もつために、つまり対象の<観念>をもつためには、対象の根本的同定であるか、根本的同定を含んだ同定命題の真理条件についての知識を構成するか、いずれかが必要である。時間空間的な特殊者のケースにおいては、対象の十分な<観念>は、しかじかの位置の占有者としてのその対象についての概念把握か、対象が関連する対象と同定されるという同定命題の真理条件についての知識か、いずれかを含む。

・情報経路のたんなる存在はこのどちらの条件も満たさない。

・情報経路の存在だけでは、①主体は対象を位置づけることができない(概念把握の欠如)、②空間の或る位置の占有者として区別された対象がその対象であるということを事実にするものについての知識を主体に与えることができない(真理条件についての知識の欠如)。

・[δ=あの男](あの男はテレビで見られるかラジオで聞かれた男)のような同定命題の真理は、δが〈主体が知覚している音やイメージに対して因果的な原因となる男〉の根本的<観念>であるという事実から構成されるにすぎない。そして、どの男が当該の男であるかについての知識は〈因果的源泉を辿って知覚の直接的対象を追跡するという考え〉のもとにしか存在しない。

・概念的要素が同定に必要とされるのは、情報リンクが主体に対象を位置づける能力を与えないときである。

p.150

・ラジオを始めて聴いた「未開人」は、ラジオの中にいると誤解した話し手を直示的に同定する。この同定には複雑性はないが、十分でもない。その装置についての説明がなされた後にも、彼らが聞いているのは離れた場所にいる人間の声だということを理解できなかったならば、彼らは結局その男の十分な<観念>を形成できなかったのである。

・この状況において、誰かに対象の<観念>を帰属することは、彼に対して完全には明らかにできない(unmanifestable)<観念>を帰属させることである(これは当人の概念能力を超えるものを帰属させるという誤謬である)。

・必要条件テーゼを前提したとき、標準的な直示的同定において、概念的要素から自由な同定様式をもつことを可能にするのは何か。答えはこうである。標準的な直示的同定において、主体は、情報リンクの所有に加えて、その情報リンクに基づいて対象を空間内に位置づけることができる。

Tim Crane’sIntroduction

The Contents of Experience: Essays on perception, ed. Tim Crane

3 表象内容と経験

 Baldwinは「知覚の情報理論」を考察する。知覚はわれわれに環境についての情報をもたらす。すなわち、周囲の物事がいかにあるかについての信念を形成することを可能にする。しかし、われわれの信念は「事態はしかじかである」というものであり、命題的、ないしは志向的、ないしは表象的な内容を有している。それならば、われわれが見ているもの(what we see)を信じるならば、われわれの経験もある種の内容をもたなければならないのではないか。それゆえ、われわれはしばしば雨が降ることを見、バスが来ることを見る、云々。こうした言い回しは、知覚の主要機能は世界を表象することであるという考えに支持を与えはしないか。

 心的表象およびその内容という概念は、認知科学の隆盛も手伝って、心の哲学における関心を拡大してきた。知覚の哲学において、その影響は次のような問いを生じさせる。①計算理論で利用されている内容の特定化は、われわれの日常的な心理学的語彙を利用する特定化といかに関係するのか。②計算の結果(Marrの「3D記述」)は経験の現象学――その記述は知覚者によって提示されうる――といかに関係するのか。①は心理学と認知科学の哲学一般の問いであるが、②は知覚の哲学プロパーの問いである。

 そのような心理学理論が何を達成しようとも、現象学それ自体に説明を与える必要は残る。知覚内容についての説明なしでは、情報理論は単なる約束にとどまる。Peacocke, Tye, Baldwin, Craneはそれぞれ異なった仕方でこの説明を与えている。Peacockeの“Sense and Content”の第一章に関連してこれらの立場を位置づけよう。

 この章で、Peacockeは経験の表象的特性と感覚的特性との間の区別を明確化し、「感覚の概念はいかなる経験の本性の記述においても不可欠である」と主張しようとする。ここでPeacockeは、「いかなる経験の主観的性格もその感覚経路(視覚・触覚)とその表象内容の記述によって完全に特徴づけられる」という主張(純粋な情報理論(PIT))と自らの主張とを対比させている。

 Peacockeは、PITは不十分であり、経験には〈その経験を持つとはどのようなことか〉についての表象内容以外の諸側面――すなわち感覚内容――がある、と主張する。これを例示するために、Peacockeは次のような例を挙げる。あなたは路上に立っており、道の彼方に二本の木が生えている。一本は100ヤード先、もう一本は200ヤード先。あなたの経験はそれらを同じ高さであると表象する。しかし、一本はあなたの視野においてより大きな「スペース」を占めている。一本の木はもう一本よりも大きく「見える」が、もう一本よりも大きく「ある(be)」ように見えるのではない。それは大きくあるものとして「表象されている」のではない。PITは経験のこうした側面(「見える」という感覚内容)を説明できない。

 PIT論者は、知覚された対象が視野において占める立体角に訴えて、感覚内容と思われるものを表象内容に回収しようとするかもしれない。だが、Peacockeは二本の木の経験は立体角の概念を持たない知覚者にも観察されるがゆえに、それは表象内容ではありえないと答える。

 こうしたPeacockeの見方が正しいか否かは、「概念」や「表象内容」という用語をどう理解するかにかかっている。しかし一見して、それは強すぎるように思われる。多様な異なった色合いをもつ古びた壁を知覚しているとき、知覚者はそれらの色合いを異なったものとして表象している。しかし、知覚者がそうした違いのすべてについて概念をもっていなければならないというのは正しいだろうか。例えば、経験がこうした異なった色合いを再認可能にしてくれるような何かを与えてくれるかどうか確信はない。しかし、ここで直示的概念をもちだす論者がいるかもしれない。これは論争的な主題である。

 “Sense and Content”が出版されてすぐ、Peacockeはこの問題に対する態度を変更した。‘Analogue Content’と‘Perceptual Content’において、彼は経験が表象内容としての「非概念的内容」をもつと主張し始める。Peacockeは〈経験の諸内容はフレーゲ的な意味あるいは表示様式の違いについての基準によって個別化されるべきではない〉と主張する。その基準とは、「もし、二つの意味ssが同一であるなら、〈sによって示されるもの=sによって示されるもの〉という思考は情報価値をもたない」というものである。

 知覚者が異なった長さの柱と窓を同じ長さとして知覚するが、それらが実際に同じ長さかどうかを合理的に疑うということは、大いに可能である。この場合、柱の長さと窓の長さが同じであることを学ぶことは情報価値を持つ。しかし、仮定上、二つの長さは同じものとして知覚されている。それゆえ、長さが知覚されているその仕方はフレーゲ的な意味によるものではない。概念はフレーゲ的な基準によって(少なくとも一部は)個別化される。よって、知覚は非概念的な内容をもつ。

 ‘Scenarios, concepts and perception’において、Peacockeは経験がもつ非概念的内容についてのより詳細な説明を展開している。知覚状態の内容は「シナリオ」である。シナリオとは、荒く言えば、原点(身体の中心)と軸の集合(上/下、左/右、前/後)に相対的に、知覚者の周囲の空間を諸特性によって記入する(filling out)仕方の集合である。シナリオは命題ではなく、「空間的タイプ」――諸特性と「現実世界の嵩」とから構成された――である。

 こうしたタイプが内容であるのは、それが「正当性条件(correctness conditions)」――その下で当該のタイプが世界を正しく表象する条件――をもつからである。シナリオは知覚者の周囲の空間を記入する諸々の仕方――経験の正しさと整合する仕方――のすべてを、そしてそれのみを含んだタイプである。内容が正しくあるとは、それを構成する諸特性が例化されているということである。すなわち、タイプがトークンをもつということである。知覚者の周囲の現実空間および原点と諸軸を想定し、これをシーン(scene)と呼ぶ。このシーンが空間的タイプのトークンであるならば、経験は正しい。

 シナリオに対する正当化条件は、(可能世界の集合としての)命題に対する真理条件と類比的である。

シナリオ内容は非概念的内容である。では、「非概念的内容」とは何か。Craneの論文はこの問いに対する解答を与えようとするものである。Craneは概念の推論役割に着目する。信念のケースにおいて概念的構造を課する推論的構造は、知覚のケースにおいては欠けている(知覚においては信念がもっているような改訂可能性がない等々)。

 しかし、もし表象内容としての非概念的内容が存在するならば、主体は立体角の概念を所有する必要はなくなるがゆえに、視野における大きさの例は感覚的特性の証拠とはならないだろう。PeacockePITに対する批判は成功していないのである。感覚内容と表象内容とを区別したいのであれば、他の仕方で区別する必要がある。

4 感覚と「クオリア」

 では、経験の感覚的特徴とは何か。感覚の概念が経験の本性の記述にとって不可欠であるというのは広くコンセンサスを得ている。

 ‘Visual qualia and visual content’において、Tyeはこのコンセンサスに反対している。彼はPITを支持する。彼はクオリアについての多くの論拠がいかに脆弱であるかを示し、クオリアを信じる者に自身が一体何をやっているのかを精確に言わせようとする。

 Tyeは、クオリアの概念を用いることによってわれわれが説明したいと欲するすべてのこと(内観・幻覚・残像・言い尽くしがたさ・盲視・逆転スペクトル・双子地球、等々)は、表象内容を用いて説明可能である、と主張する。これは無論、機能主義擁護のためである。

 機能主義的な物理主義的還元が成功するならば、クオリアの擁護者が経験に感覚的特徴が存在することを示したとしても、そこにはもはや内容が残っていないだろう。クオリアは経験において何の役割も果たさないのである。

 クオリアの擁護者に対して盲視の症例は大きな困難を突きつける。盲視が示しているのは、知覚者は視野の関連する部分に対するいかなる感覚も持つことなく、受けとった情報に対して特定の行動的反応をなすことができるということである。これは〈感覚は知覚にとって本質的ではない〉ということを示しているのだろうか。

 盲視の解釈はいまだ論争中であり、それゆえこれは困難な問いである。しかし少なくとも三つの選択肢が可能である。

(1)盲視患者は無意識的に知覚している(情報を受け取っている)が、何も信じてはいない。

(2)盲視患者は知覚し、かつ信じているが、どちらも意識していない。

(3)盲視患者は結局のところ何も知覚していない。

(1)(2)を受け入れることは、知覚は本質的に感覚を含むという主張を放棄することを要求する。(3)を受け入れることは、情報を受け取ることが知覚であるということを否定することを要求する。いずれにしても円満な解決策とは思われない。

 われわれは知覚において感覚が果たす本質的な役割を否定し、その代わりに情報伝達の概念を知覚にとってより根本的なものとみなすことができる。Loweはこの点を強調する視覚の計算理論を批判する。そうした理論は経験を「単なる随伴現象」、「処理の単なる相関現象」として扱っていると彼は主張する。

 しかし、Loweの理論も認知科学からそれほど遠い所にいるわけではない。例えば、彼の「作動的知識(working knowledge)」や「暗黙的把握(implicit grasp)」といった概念――これらは様々な方向と角度から事物がいかに見えるかについて、意識的に分節化することなく信頼可能な判断をなすわれわれの傾向性のなかに示される――は、認知科学における「暗黙的知識」の概念にいくつかの類似性をもっている。

 「視野(visual field)」は内在的な空間的分節化をもった感覚の二次元的な配列だと解されてきた。MartinBaldwinはこれに反対している。では、知覚論は視野をどのように理解すべきか。また、〈視野の空間的分節化〉と〈知覚された世界の空間的構造〉との関係をどう理解すべきか(認知や計算が必要なのか)。

 Baldwinはこれに対して「感覚内容の投射理論」によって答えている。彼の投射理論は現在支配的な三つの知覚論(情報理論・表象理論・副詞理論)の総合である。知覚における感覚クオリアの役割についての説明は、クオリアがいかにして「プリミティヴな志向性」をもつかを示すことによって与えられている。ここでの発想は、視覚的感覚野の質的諸特性は現実の物理的空間へと「投射される」のであり、私的な心的空間に住み着いているのではない、というものである。クオリアは物理的空間についてのプリミティヴな種の表象を構成するのである。

 Martinは、視覚と触覚の差異は、視覚的ならびに触覚的な空間的構造の差異にあると主張する。視覚の対象は空間的位置をもち、他の経験対象と空間的な関係をもつ。これらの関係は位置と同時に知覚される。

 しかし、触覚はこれと異なり、その対象の位置と関係が同時に経験されることはない。むしろ、触覚は身体感覚と自己受容感覚に依存しているのであり、それは視覚と同様の「触覚野」を仮定することを禁じるような仕方においてである。触覚において、われわれは身体感覚を対象の(自己中心的)位置、大きさ、形を見出すためのある種の「鋳型(template)」として使用する。これが触覚の基礎である。

 こうした感覚様相についての考察は、より一般的な方法論的示唆をもつ問いを提起する。すべての感覚器官に対する知覚の一般的説明は可能なのか。各々の感覚器官には別々の説明を与えねばならないのか。

 O’Shaughnessyは〈行為は「内部」から来るのに対し、知覚は「外部」から来る〉という「直観」を信じる理由を探求する。もしこの直観が正しいとすれば、なぜそのような相反する心的現象がかくも密接に絡み合うことが可能なのか。われわれはわれわれ自身の行為(意志(willings))を知覚することはないが、われわれはわれわれ自身の知覚を(或る重要な意味において)意志する。したがって、最初の直観はどこか間違っているのである。O’Shaughnessy聴くという心的行為の詳細な考察を通じて、〈いかにして知覚は、内部からもたらされる(聴く意志(the will to listen)の結果として)とともに、外部から構成される(聞いている音(the heard sound)によって)ことが可能なのか〉を示している。知覚と行為は相反しているのではないのである。

Tim Crane’sIntroduction

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1 知覚の問題

ストローソンが言うように、知覚について哲学者がもつ見方は、しばしばその哲学者の爾余の形而上学に対する鍵となりうる。知覚論は認識論や心の哲学、科学哲学、美学などにおいて重要な役割をもつ。

心について十全な理解に達するためには、知覚に対して中心的な位置を与える必要がある。なぜなら、世界は知覚を通じて心に出会われるのだから。しかし、知覚はそれ自体の価値においても興味の主題となる。知覚的状態の本性は複雑である。そこから知覚に関する様々な問いが生じる。直接知覚か間接知覚か、知覚は本質的に意識的か、知覚は本質的に感覚を含むか、知覚は世界を表象するか、内容を持つか、信念へと還元可能か、信念・欲求・行為などとどのように関係するのか、などなど。

2 センスデータ

 知覚に関する二つの問いを区別することができ、それらは各々センスデータを援用することによって答えることができる。第一に、知覚の直接的な対象とは何か?(知覚固有の対象に関する問い) 第二に、経験を持つとはどのようなことか?(知覚の現象学に関する問い)

 センスデータ論者は第一の問いに、知覚の直接的な対象はセンスデータである、と答えることができる。センスデータはその存在が知覚に依存する「内的な」対象である。

 センスデータ論者は第二の問いに、経験においてわれわれが意識(aware)しているのは、知覚された外的対象に対する現象学的代替物(stand-in)である、と答えることができる。センスデータは経験における現象学的「所与」であり、われわれはこれを内観的に突き止めることができる。

 これら第一の問いと第二の問いは論理的に独立である。次のいずれも思考可能である。①知覚の直接的対象は内的であるが、現象学的に検知可能ではない(ラッセル)。②知覚における現象学的「所与」が存在するが、それは知覚の直接的対象ではない(ピーコック)。

 錯覚論法からは①の道が生じる。経験の外的対象が存在しないとしても、私の経験はそのままであり続けることが可能である。神が次のような振る舞いをなすことは可能である。すなわち、外的対象を消滅させることで、私の経験を導く因果の鎖へと介入し、なおかつ私の経験を変化なきままにしておくことが可能である。それゆえ、外的対象の存在は私の経験にとって非本質的であり、経験の対象はつねに内的なものでなければならない。

 Valbergは〈経験は因果的過程の産物ではない〉と論じることで、こうした自然な推論の流れを否定する。 

 Snowdonは〈何かを「直接的に」知覚するとは精確に言ってどのようなことなのか〉を解明しようとする。荒く言えば、彼の定義はこうである。主体xが対象yを知覚するのは、xy直示的に同定するとき、かつそのときに限る。知覚の直接的対象はそれゆえ直示的思考の直接的対象と同定される。

 この定義によれば、知覚の直接的対象が内的対象であることは禁じられない(残像を直示的に思考する場合を考えよ)。しかし、Snowdonの論点は、内的対象を排除することではなく、外的対象を知覚の直接的対象として承認することにある。

 ValbergSnowdonはもっぱら上述の第一の問いに関わっている。

 Loweは第一の問いと第二の問いの双方を扱う。

 知覚者が〈知覚された対象のもつ諸特性が何であるか〉について判断を形成することができるという点で、経験とそれらの諸特性との間には因果的依存の関係がある。Loweは〈対象を見るとはどのようなことか〉についての説明をこの因果的依存性の観点から行う。経験はその「質的」ないしは「感覚的」特徴という観点から独立的に特徴づけられているので、この定義は循環ではない。Loweの見方では、人が直接的に対象を見るのは、それが感覚(内的な現象的・質的性格)によって定義される視覚経験と適切に結び付けられるときである。それゆえ、人は現象学的「所与」なしに見ることはできないのである。こうして、Loweにおいては第一の問いと第二の問いが結び付けられる。

5.3 解釈と心理学的帰属

・ラッセルの原理と明らかに矛盾する、或る関係的な心理的言明の使用を理解することがわれわれのタスク(4.6の反例)。

・〈何かを考えること(thinking of)〉〈何かを心に抱くこと〉と〈何かからの情報(information from)〉とは別物。

・すべての関係的な心理的語法が〈主体に或る対象についての判断を帰属する意志(willingness)〉を含んでいる必要はない。こうしたものを含んでいる必要があるのは、「Sxからの情報をもっている」というケースや、反例において現れる語法である。

4.1のケース=想定されている思考が、主体がその内容を個別化していると信じているが、実際には個別化していなかったような情報に基づいているケース。

・このケースで、主体は特殊‐思考を試みようとするのだが、それは失敗するとみなされるべきである。

・そうしたケースで、なぜわれわれは「主体が〈…を考える(thinking of)〉」と言いがちであるのかを理解する必要がある。

P.130

・まず理解すべきは、これらの語法(そして、すべての日常的な認知的語法)は他者の発話を解釈する活動のなかに場所を持っている、ということである。

・われわれが他人の発話を解釈するとき、われわれはその発話が属するプロジェクトを見出すために、それをパターンのなかへと適合させようと試みる。われわれは話者に目的を帰属させるのである。「彼はxを意味している」「彼はxを考えているに違いない」と言う場合、われわれは話者にその発話行為を説明する目的を帰属させている。彼の目的はxに言及することである、と。

・次のように広く考えられている。言語行為の背後にある目的についての言明が真であるのは、話者が心の中に抱いている思考、あるいは少なくとも話者の側において前提されている思考(例えば、「私はpと言うつもりだ」「私はxを指示するつもりだ」)のおかげである。もしこれが正しければ、これらの語法の使用はラッセルの原理への違反を含むことになる。しかし、これは正しくないと思われる。

・次のケースを考察しよう。

・若い学生が準備不足のレポートを授業で読み上げている。それは次のような文を含んでいる。「火花はキャブレター(気化器)のなかで電気的に生み出される」。「それは正しくない」と教師は言う。「彼は何を意味しているのでしょうか、皆さん?」。続いて誰かが言う。「彼はシリンダーを意味しているのだと思います」。

・このように述べることによって、その二番目の学生は次のような考えへとコミットしてはいない。すなわち、主体(最初の学生)は「私は『火花はシリンダーのなかで電気的に生み出される』と言うつもりだった」という思考を持っているとか、その思考を持つための能力を所有しているとかいうような考えである。しかし、その第二の学生が言ったことは主体の狙いや信念から独立ではない。

・むしろ論点は以下である。「火花はシリンダーのなかで電気的に生み出される」と言うことは、彼の一般的な計画と状況に照らして、主体がなすべきことである。彼がその時点で表現しようと試みるべき真理は、「火花はシリンダーのなかで電気的に生み出される」である。

p.131

・他者への目的帰属は自己自身への目的帰属に比べて間接的なものである。しかし、そのような「間接的な」帰属において単称名辞が用いられるとき、それは自己帰属された目的の告白において生じる単称名辞の代替物であると考えるのは正しくない。

・或る人物が情報基盤的思考に対して表現を与えようと意図するとき、われわれはその人物に対して、情報がそこから由来している対象への指示という目的を問題なく帰属させることができる。

・彼のその対象に対する指示が成功してさえいれば、彼の言語的パフォーマンスは確かな根拠を持つもの(well-grounded)であるだろう。

・これは当該の特定の文が彼の信念に表現を与えているかどうかに関わりなくそうである。

・彼に対して情報がそこから由来している対象へと指示する意図を帰属させることは不必要である。彼がそのような概念を形成できるということですら不必要である。

・以上の説明はわれわれが次のことを自覚するように要求する。すなわち、話者の言語行為に対する解釈とみなされるすべてが、彼に対する判断や信念の帰属を含んでいるわけではない。

p.132

・反例において、主体が「そのボールはFである」と発話するとき、われわれは解釈という方法によって〈彼は二番目のボールを語る(speaking of)ことを意味している〉と言うことができる。しかし、この意図の帰属は〈その主体はそのような判断を行う能力を持っている〉という見方へとわれわれをコミットさせることはない。

5.4 確かな根拠がないというリスク

・情報基盤的思考の表現を含んだ言語的パフォーマンスは、もし情報がそこから由来した対象へと指示がなされなければ、確かな根拠をもたないものとなるだろう。思考についても同様の論点が成り立つ。

・情報基盤的な特殊‐思考への試みは、もしそこで援用される様式の同定によって同定される対象が、情報がそこから由来する対象でなかったならば、明らかに確かな根拠をもたないものとなるだろう。

p.133

・〈情報の派生(derivation)〉と〈同定の諸様式〉との関係に食い違いが生じうるケースについて図2(p.133)を用いながら論じる。

・実際には情報がそこから生じた対象が異なる、あるいは端的に存在しないにもかかわらず、たまたま対象の弁別的知識が同定を果たす場合もありうる(他人が或る人に対して騙す目的で唯一のφについて語り、その人は「そのφはFである」という情報基盤的思考を試み、たまたま実際にそうした対象が存在した場合)。

p.134

・こうしたわれわれが食い違いに気づくようなケースは、当該の思考エピソードが確かな根拠をもたないということの表れである。

・情報基盤的思考を試みることは明確に区別できる誤り、つまり確かな根拠をもたない状態に陥りやすい。用いられている同定が対象についての個別化する事実を利用するときでさえ、情報基盤的思考は記述的思考のように働くとはみなされえない。

・「The φはFである」という形式の思考と「That φはFである」という形式の思考との間には論理的なギャップがある。なぜなら、それを把握することによって情報プロセスとの正しい種類の結びつきを保証できるような、そうした記述的命題が存在しないからである。

p.135

・それを理解するために情報基盤的思考が要求されるような指示表現の使用がたくさん存在するがゆえに、情報基盤的思考についての以上の諸事実は指示の理論に対して重大な帰結をもつ。

5.5 予告

・略

Chapter 5

Information, Belief, and thought

5.1 情報基盤的思考:序説

・われわれの特殊‐思考は非常にしばしばわれわれが世界についてもつ情報に基礎を置いている。ここでわれわれが関わっているものを統制しているのは、主体が情報を受容するがゆえにもつ世界の在り方についての信念の結果であるような、そうした対象についての概念把握である。

・主体の思考が対象の概念把握によって統制されると言うとき、〈彼が思考を(確実、不確実、真、偽として)抱くその仕方〉と〈彼がそこから引き出す意義(引き出す用意のある帰結)〉は、その概念把握の内容によって決定されている。

・主体が情報を入手する経路が知覚ではなく、他者のもつ信念を介した伝聞によって得られたものであっても、その思考エピソードは主体の側において世界についての信念を表示することができる。

p.122

・(Fxという内容をもつ)一片の情報が、特殊な対象についての主体のIdeaを含んだ思考の統制的な概念把握のうちにあるのは、このIdeaに含まれる思考をF thingについてのものとして評価する主体の傾向性が、主体によるこの情報の獲得や保持の因果的な帰結であるとき、かつそのときに限る。

・思考を制御する概念把握は広範囲に渡るので、情報は思考を制御するために「心の中」にある必要はない。

5.2 情報システム

・情報システム

 (1)知覚(情報抽出)

(2)コミュニケーション(情報伝達)

(3)記憶(情報保持)

p.123

・伝統的な認識論

与件=seemings(客観的意義+行為に影響を与える傾向性)

(註5 感覚器官は非概念的情報をもたらすが、言語は概念的情報をエンボディーする→6.3,7.4

・〈しかじかの内容をもった情報状態にあること〉という観念を、信念に関して特徴づけるのではなく、哲学にとってのプリミティヴな観念とするのは妥当である。

・信念に関する特徴づけが単純なものでないのは、「信念‐独立性」のゆえにである。

・信念‐独立性=主体が情報状態にあることは、その状態が真正なものであると彼が信じているかどうかとは独立である(ex. 錯覚・幻覚だったと判明した過去の出来事・他人から聞く虚構的な物語)。

p.124

・信念‐独立性は珍奇なものではなく、表象技能全体がそれに依存している。

・情報システムの通常の操作が信念に関して生み出す状態を定義しようとするとき、われわれは知覚論の哲学者たちが遂行した術策を援用し、「prima facie信念への傾向性」のようなフレーズを介して結びつけるだろう。

・これは物事を誤った方向へ陥らせる。「信念」はさらに一層洗練された認知状態のためにとっておいた方がよい。こうした認知状態は判断の観念と結びつけられており(さらに、これは当の観念の点から定義される)、そしてそれゆえまた、理由の観念と結びつけられている。

・情報システムの操作はよりプリミティヴである。

それらのうち二つ(知覚と記憶)をわれわれは動物と共有している(伝聞システムを共有しているとは述べていない)。

・概念能力の習得に先行する人間知性の発達段階においてすでに伝聞システムが作動しているということをわれわれが自覚するまで、そのシステムをわれわれは適切に理解することができない。

・ある対象のものである(being of an object)一片の情報は、ある意味において、ある対象についてのものである写真に類似している。このことの意味をより正確に理解しよう。

・写真がある対象についてのものであるということの意味は以下である。あるメカニズムはある情報内容を有した諸事物を生み出す。しばらく次のように仮定する:この内容はいくつかの変項を含んだ開放文によって中立的に特定される(変項の数は写真のなかの対象の数に対応する)。

・黄色い四角の上にある赤いボールの写真の内容は次の開放文によって表象されうる。

   Red(x) & Ball(x) & Square(y) & On Top Of(x,y)

・このメカニズムは情報保持のメカニズムである。なぜなら、その出力の内容のなかに現れる諸特性は(そのメカニズムの正確さによって決定される程度に)その入力である諸対象によって所有されている諸特性だからである。

・そのようなメカニズムの産物はそのメカニズムへの入力であるような諸対象(of)ものである。

・相関して、出力は諸対象ものであり、われわれはメカニズムの正確さを判断するために出力と諸対象とを比較する。

・写真が諸対象についてのものであるということの意味を、その内容の特定化がその諸対象への指示をなさなければならないということを前提することなしに説明している(開放文による特定化は指示の機能を果たさない?)、ということに注意せよ。

・こうした構造は、ある述定的な成分を含んだ内容をもった状態を信頼可能な仕方で生み出すことが可能なシステムにおいて識別される。それはシステムが機能不全のときにも識別される。

・何人かの相互連絡するエージェントによって構成された情報システムはまさにそのようなシステムである(例へ:社会的情報システム、エージェントA,B,C、実線=情報の知覚的摂取、点線=記憶、破線=伝達)。

p.126

・われわれのシステムは情報の断片をある対象についてのものとして束へと纏め上げるが、しばらくこの側面は無視する。

・諸々の束の情報へと導くプロセスに対して、再‐同定(re-identification)と名づける。

・この再‐同定は、混合した概念把握を制御する次のような単純なケースへの余地を与える。

(a)ひとつの対象が再認されるケース:現在知覚されていた対象が以前に知覚したものと同じものとして再‐同定される(過去知覚と現在知覚)。

(b)知覚されているひとつの対象が、主体が聞き知っていた(heard of)ものとして再‐同定されるケース(過去伝聞と現在知覚)

p.127

・「コミュニケーションシステムのなかにはいかなる単称名辞も存在しない」という簡単な前提を取り除く(lift)ならば、次の混合的なケースに余地を与えることになる。

(c)知覚されているひとつの対象が、主体がいま聞き知っている対象として再‐同定されるケース(現在伝聞と現在知覚)

(d)思い出されているひとつの対象が、主体がいま聞き知っている対象として再‐同定されるケース(現在伝聞と現在記憶)

(e)主体がいま聞き知っているひとつの対象が、以前に主体が聞き知っていた対象として再‐同定されるケース(過去伝聞と現在伝聞)

・これらは重要ではあるが、しばらくは考察を純粋なケース(例のような)に限る。

(エージェントA,B,C、実線=情報の知覚的摂取、点線=記憶、破線=伝達)

・記憶と伝聞はこの構造における再帰的な(recursive)要素である。

・「記憶に基づいたすべての思考や伝聞に基づいたすべての思考は情報基盤的思考である」というようないかなる一般化をなすことも誤りであるということは、この再帰的であるという事実の帰結である。

・なぜなら、主体が「唯一のφが存在する」という推論を行い、それを友人に伝えることは可能だからである(推論によって得られた特殊‐思考は、情報との因果的な結びつきによって統制された思考ではないため、情報基盤的ではない)。「そのφはFである」という形で表現可能な「記憶に基づいた」かれの後の思考と、「伝聞に基づいた」同じ形の彼の友人の思考は、エヴァンズの意味では情報基盤的思考ではない。

・社会的情報システムは写真算出メカニズムの場合に識別可能な構造を示している。

・観察者が鼻に釘を刺したネイティヴの男(x)を見る→友人に「私は鼻に釘を刺した男を見た」と言う→伝聞を重ねる→Sは「鼻に釘を刺した男が存在する」という信念をもつ。

・入力である対象との比較によってシステムは評価される。Sのもつ情報に基づく信念が知識を構成する証拠となるかどうかを立証するとき、情報はxと比較される。

p.128

Sのもつ信念は、〈xからの(from)情報〉を具体化したものであるが、xを表象する特殊‐信念という意味における〈xについての(about)信念〉ではない(「鼻に釘を刺した男が存在する」という信念は、特定の男に関する信念ではない)。Sは何かについての思考をもっているとは言われえない。

Sが情報伝達の過程について反省すれば、彼は思考(特殊‐思考)を「そのネイティヴ」へと向ける(aim)かもしれない。しかし、この場合、思考の対象は情報システムの操作におけるその役割への指示によって個別化されるだろう。これもひとつの特殊‐思考の在り方。

・情報状態は、その内容が対象に適合するのに失敗するとしても(機能不全)、対象の(of)ものであるかもしれない。さらには、情報状態は何ものでもないものの(of nothing)であるかもしれない。

・同じ出来事から結果した二つの情報状態(異なった人物の状態)が、たとえ同じ内容を持っていないとしても、同じ情報を具体化する、と言いたい(片方は情報を歪曲してしまった場合)。

・同じ内容を持っていることは、二つの情報状態が同じ情報を具体化するために十分ではない。

・二つの情報状態が同じ情報であるためには、それらが或る対象x(of)ものであることが必要である。

4.5 検証主義との比較

・この基本レベルにはないようなGについてのすべての思考は、このレベルにある思考の真理によって真とされるのでなければならない。

・同一性の基準を含まない特殊‐思考(直示的思考)――それを含む特殊‐思考

・対象の基本Ideaを含む思考――それを含まない思考

・上の二つの対立は単なる構造的な対応に留まらない。

・規準的検証(canonical verification)……まず基本命題(基本Ideaを含む)へと分析し、その基本命題の真理を直示することによって検証される。

・[a is F]⇒[δ=a][δ=F]は基本Ideaを含んだ特殊‐思考の規準的検証を欠いた要素をもつ([δ=a]のこと)。

・直示的同定も、それ以外のいかなる同定も、それをプリミティヴなものとは解釈しない。

・「フレーゲは偉大な哲学者だ」という思考を把握するために、老フレーゲと現在において対面することについての観念は何の役割も果たさない。われわれがフレーゲについてもつ非基本的Ideaが、[δt=フレーゲ](tは過去)および[フレーゲ [is] Ft]という命題の真についての知識を授ける。

・今やわれわれは、空間的‐時間的世界についての思考における想像力の重要性をも評価できる。

・想像の中で物質的対象を表象するとき、まさにその行為によって、われわれはそうした対象を空間の中に位置づけられ弁別されたものとして表象しているのである。

4.6 反例

・こうした説明に基づけば、或る人物が或る事物について弁別的あるいは同定的な知識をもっていると想定するような様々な状況に何が統一性を与えるのかを理解することも難しくはない。

・再認に基づいた同定と記述的同定は、対象についてのそれぞれ異なった非基本的同定(=[δ=a]という任意の命題が真であるとはどのようなことかについての知識)とみなしうる。

・ボールの例(p.90)について、「このボールはあのボールか?」という問いが発せられたとき、彼は「そうである」と想定することができる、と考えられる(チザムはそう考えるだろう)。

・しかし、ここで想定されたIdeaは、彼のもついかなる可能な経験とも、また他のすべての彼がもつ概念のレパートリーとも完全に独立的である。それゆえ、その想定された思考(仮定上、非個体化的な記述的思考(ボールを区別できない思考)に対して加えられた想定された余剰)は明らかに何ものとも結びついていない。

・こうした想定が有意味であるとみなす哲学者たちは、〈彼のIdea〉と〈特殊なボールとの出会い〉との因果的な結びつきに訴えようとする。これは或る命題の真理条件について「知っている」というときの、その「知っている」ということの論理や文法を破壊してしまう。

・概念は能力のひとつであり、主体ができることあるいはできないことに懸かっている。

p.117

・主体のもつIdea「水」をIdeaH2O」と等値なものとすることなしに、「これは水である」という命題が真であるのは「これはH2Oである」という命題が真であることのゆえである、ということは矛盾しない。しかし、こうした状況が成立するのは、いかにしてそれが他の命題のゆえに真でありうるかを説明するようなひとつの命題の特徴づけが存在するからである。しかし、同様の仕方で因果関係が関わってくることはできない。

p.118

・検証主義者の観点からすれば問題含みであるような諸概念(検証‐超越的な諸概念)の間に区別を設けることができる。

・①空間・時間・素材についてのわれわれの通常の実在論的概念理解を編成する諸概念

・②特定の経験的諸理論の基礎にある諸概念

・これらのクラスはラッセルの原理の敵対者たちが導くようなモデルをもたらす概念ではない。

・検証主義がこれらの概念を十分扱うことができず、またそれに代わる実質的な特徴づけを与えることが困難だからといって、そこから次のように帰結するのは皮相である。すなわち、概念領域においては何でもありだ、と。あれこれの概念能力の帰属に対する経験的制約を探究することは簡単に放棄できる、と。

・「どのボールが当該のボールか」について主体に想定された知識(=想定されたIdea)は、理論的概念として理解されてはならない。なぜなら、そこにはいかなる理論もないからである。

・同様に、それは空間・時間・素材についてのわれわれの通常の実在論的概念理解を編成する基本的諸概念でもない。

・それゆえ、ボールの例を或る命題が真であるとはどのようなことかについて知ることの事例として受け入れることは不整合である。