5.

われわれが思考する際の媒体である動態的な体系全体は、その外部の何ものかとの概念外的なつながりによってその場所を得ているのではない。われわれは自身の描像を、概念領域を囲んで境界が在り、その境界の外部に体系の内部へと衝撃を与える実在が置かれている、という風に描いてはならない。そのような境界を越えるいかなる衝撃も因果的なものにすぎず、合理的なものではありえない。

マクダウェルは〈経験において世界はわれわれの思考に合理的な影響を及ぼす〉という考えを保持するために、その境界を描像から消去するよう要請する。動態的な体系を作動し続けるところの感覚への印象は、すでに概念的内容を備えているのである。その印象において明示されている事実は、概念領域を囲む境界を越えた外側に在るものではなく、そして、感受性に対する世界からの衝撃は、そのような境界を横切って内部へと向かうものではない。マクダウェルの論点は、われわれは観念論に陥ることなしに、つまり実在の独立性を軽視することなしに、その境界を消去することが可能である、ということである。

われわれはつねにすでにそのような動態的な体系の内部での概念活動において世界へと参与しているものとして自分自身を見出す。この条件についてのいかなる理解も、その体系の内部からのものでなければならない。

われわれは、別の思考者が当初、不透明(opaque)であるのを見出しうる。これは、われわれにとって利用可能な世界をもとに、他者が行う参与がもつ概念的内容を構成するという作業を課すかもしれない。その間に当の他者が参与している世界は、確かにすでにわれわれの視野のなかにある。こうした明白な事実はマクダウェルも認める。

マクダウェルが排除しようとしているのは次の考え(=境界横断的描像(a sideways-on picture))である。

他者理解の過程で、われわれは〈世界〉と〈その内部で他人が思考するところの概念体系〉との関係を利用する。そのため、その不透明な概念能力の内容を推測する段になると、われわれは境界横断的描像――こちらに概念体系、あちらに世界――を細部に渡って埋めてゆく。その描像には初め輪郭しかないが、当初からそれは利用可能だった。

この描像は、われわれが理解するに至ったその他者の概念体系を取り囲む境界の外部へと、世界を位置付ける。それゆえ、その描像は〈概念の集まり〉としても〈経験的素材〉としても何ひとつ真に理解可能なものを描くことができない。なぜなら、それが概念と称するものは、合理的にではなく因果的にのみ、世界からの衝撃と結び付けられうるからである。繰り返し主張してきたように、その描像は〈概念の集まり〉と〈経験的素材〉双方の地位を不可解なものにしてしまうのである。

境界横断的描像の誤りは、次の事実に重きを置かなかったことにある。すなわち、不透明な他者を理解してゆくなかで、その思考がもつ特徴的な性格がわれわれの視野に入ってき始めるとき、われわれはひとつの概念体系の内部でその他者と観点を共有し始めるのである。その観点からわれわれは、概念体系を囲んでいる境界を抜け出す必要なしに、他者と一緒になって世界への共同注意を方向づけうるのである。

6.

マクダウェルは第一講義の第7節において、「内的経験」の対象は経験それ自体からの独立性をもたない、と主張した。これは「内的経験」についてのわれわれの理解に試練を課すものである。

「内的経験」に関する所与の神話を否定するならば、われわれは以下の二つのいずれかを行うように迫られる。すなわち、(1)「内的経験」が気づきについての問題であるということをそもそも否定するか(これは「擬似麻痺(feigning anaesthesia)」という哲学的戦略に似ている)、さもなければ、(2)気づきを働かせ続けておいて、「内的経験」の対象は経験から独立ではないという主張を断念するか、いずれかである。(2)においては、「内的経験」は状況についての気づきとなり、その状況は当の気づきとは独立にともかく(anyway)獲得される。「内的経験」が感覚である場合には、適切に関係づけられた身体的状況を対象と解すれば、必要な用件を満たすと思われる。これは「内的経験」を、それが何かについての気づきを構成する限りにおいて、「外的経験」と同化する。両者の差異は、ただ経験の対象の遠近という「程度の差」にのみある。これらの立場はどちらも満足の行くものではない。

「外的経験」の概念が特定の仕方で自発性一般へと統合されているように、われわれは「内的経験」の概念を統合するための異なった特定の仕方を見出しうる。「内的経験」の印象と「外的経験」の印象とはともに、概念能力が作動へと引き入れられているところの受動的な出来事である。そして、「内的経験」において作動に引き込まれている概念能力も自発性一般へと統合されている。しかし、この場合における統合の様態は気づきの対象に独立性を与えるようなものではない。

例えば、或る主体が「内的経験」の判断において痛みの概念を使用する能力をもっているということを認めうるのは、当人がその判断の関わる状況をいかにして世界一般へと適合させるかを理解しているときに限られる。このことが要請するのは、主体は自分が痛みを感じていることを一般的な事象タイプ(つまり誰かが痛みを感じていること)の特殊ケースとして理解していなければならない、ということである。

そのために主体が理解していなければならないのは、「内的経験」へと引き込まれている概念能力の役割は「内的経験」およびその判断における役割へと制限されていない、つまり、その第一人称的で現在時制的な役割へと制限されていない、ということである。

これによって、「内的経験」を〈気づきと対象〉という構造の限界事例として考察することが可能となる。われわれは、例えば、主体が痛みを覚えているその状況の気づきとして、そのなかに痛みの概念が引き入れられ働いているような、そうした「内官」の印象を理解することができる(ここでの「状況」は、痛みの原因としての身体的外傷のようなものではなく、痛みを感じていることそのもの)。「内的経験」において〈気づきと対象〉という構造が適切に位置付けられるのは、気づきの対象である同じ状況が、「内的経験」を表現する思考以外の仕方で――他の誰かによって、あるいは主体自身によって別の機会に――思考可能であるときに限られる。これは〈気づきとは独立の状況〉という着想を与える。しかし、主体のもつその状況の概念把握は感受性の「内的」作動である気づきを通じてのみ習得されるのではないが、その状況は感受性それ自体の作動以外の何ものでもない。

〔補足〕:確かに、「誰かが痛みを覚えていること」を内官の対象である状況として捉え、主体がその状況タイプのトークンとして個別的状況を理解するならば、そうした理解が必要な背景理解を構成するがゆえに、「内的経験」において作動させられている概念能力が自発性一般に統合されていることを保証できるように思われる。しかし、もし「痛み」が、それを感覚している当人のみがアクセス可能な一人称的特権をもった私秘的エピソードであるならば、主体が感じている痛みの状況を第三者が思考することはいかにして可能なのだろうか。もし、当の「状況」が痛みの原因である身体的外傷であるならば、その外傷を第三者が視覚を通じた「外的経験」において思考しうることは明らかである。だが、マクダウェルは、外傷のような原因論的な状況を内官の対象とすることに、それが内的対格の要請を満足させえないということを論拠として、強い拒絶を示すだろう。逆に、痛みがその本性上「私秘的」なものではなく「表出的」なものであるならば、その表出された状況を第三者が思考することは可能となるだろう。だが、痛みが表出的であるとしても、それを当人の「内的経験」を度外視して行動主義的に解してはならないだろう。「内的経験」がもつ一人称的特権と表出性とはいかにして調停されうるのか。このトピックは、マクダウェル自身の他講義での議論も含め、より詳細な検討を要する。

7.

所与の神話を拒否すると同時に、われわれは「正当化の基礎を遡行してゆくことは、生の現前を指し示すことへと終着する」という考えも拒否した。これは、〈指し示すこと〉へ帰属させうる正当化の役割をわれわれが自ら奪っているのではないかという不安を生じさせかねない。確かに、判断が正当化されていることには、世界の諸特性を指し示すということが含まれていなければならない。そうでなければ、自発性の行使が摩擦なきものに見えるというリスクを背負うことになるだろう。

しかし、いまやわれわれは「思考の領域の外部」(第3節)のような言葉に含まれている両義性に対する備えができているため、この不安を扱うのは容易である。〈指し示すこと〉が果たす正当化の役割にはふたつの異なった概念把握がある。①マクダウェルが推奨する概念理解によれば、正当化は〈思考すること〉の領域から世界の諸特性を指し示すことを完全に包含することができる。②この指し示すことが〈思考可能な内容〉の領域を囲む境界を突破しなければならないと想定する場合に限って、われわれは所与の神話へと陥る。

4.

われわれは経験において作動する能力を、それがネットワーク――経験からの供給に対して思考(thinkimg)の能動的な調整を行う、そうした諸能力が合理的に組織化されたネットワーク――へと統合されていないのならば、概念的なものとして認めることはできない。この統合は、最も直接的な経験判断にさえ、ひとつの世界観における可能な要素としての位置を与える。

(この主張の例として、ふたたび色彩の概念が採り上げられる。略)

色を目の前の環境のなかへ定位するような典型的な色彩経験に加えて、われわれが同様にその地位を認めるべきもうひとつの種類の色彩経験がある。すなわち、「色彩経験」というラベルは「内官」の作動にも当て嵌まる。たとえば、頭部に打撃を与えることは、経験によって「見られた」色を目の前の環境に定位することなしに、「赤を見る」ことを引き起こす。

マクダウェルが主張してきたように、経験一般は概念能力が受動的に作動へと引き込まれているような状態ないしは出来事である。色彩の「内的経験」についてもこの論点は保持されるべきである。さらには、この「内的経験」における色彩概念の役割は、「外的経験」におけるその役割から派生的に理解されるべきであるとマクダウェルは考える。当の「内的経験」は、関連する点において「外的な」何かが赤いのを見る経験と主観的に類似しているため、「赤を見ること」の内的経験を特徴づける際に、赤の概念が把握力をもつのである。

われわれはこれをその逆に捉えやすい。すなわち、まず、色彩概念の「内的な」役割は自律的に理解可能であると想定する。そして、「外的」対象にとって、ある色彩概念の分類に入ることは、適切な視覚的条件において適切な視覚的「内的経験」を引き起こすということであると考える。そうして、前提とされた「内的な」役割の理解からこの「外的な」役割を説明しようとするのである。

われわれは次のような考えによってこれへと促される。〈赤であること(being red)〉と〈赤く見えること(looking red)〉が互いの観点からのみ理解可能であるならば、この循環を打破することができるのは、その両方を「赤を見ること」の「内的」経験から説明することによってである、と。

しかし、われわれはこの説明を受け入れるべきではない。もし色彩概念の「内的な」役割が自足的な出発点であるならば、色の「外的経験」は理解不可能になるだろう。

もし、われわれの知性が発達するなかで、色彩が第一に「内的経験」の特徴として現れるのなら、いかにしてわれわれの知性は世界へとそれを投射することができるのだろうか。「内的経験」から出発するならば、われわれにできるのはせいぜい、自身の「内的経験」についての関連する特徴を誘導する傾向性を外在化する程度である。しかし、そうした傾向性の所有は、いかにして色彩についての適切な外的経験へと移行可能なのか。その移行は、「傾向性」という概念が心的な現象であり続けるにも関わらず、われわれの経験と思考が外界のなかに現象的なものを位置付けるという困難を要求する。

〔補足〕:「内的経験」を出発点とするならば、ひとまず「外的経験」はその内的経験がもつ特徴(例えば、赤の内的感覚)を生じさせる傾向性への誘因(trigger)に過ぎなくなる。ここから適切な外的経験へと移行するには、内的現象を元手として外的現象を構成するという非常に困難な課題を乗り越えなければならなくなる。

ともかく、上の循環――〈赤であること〉と〈赤く見えること〉についての概念の相互依存関係――はまったく無害である。単に、それらは一緒に習得される必要のある概念の束のなかの諸要素としてのみ生じてくる(概念能力の習得に関する全体論)。それゆえ、「外的経験」における色彩概念の役割を根本的なものと見なし、以下でそれに焦点を当てよう。

「外的経験」において、主体は概念的内容を受動的に課されている。そして、その内容は、概念領域へと継ぎ目なく統合された作動能力のなかに引き込まれている。その概念能力は、主体自身の世界観の調整――その合理的な信憑性についての精査をパスするために行われる調整――という持続的な能動性において援用される。経験を、当の経験とは独立の実在についての気づきとして理解することを可能にしているのは、このような経験内容の概念領域への統合である。

われわれはこの点を、経験内容に色彩が現れる仕方を再度考察することによって、正しく理解することができる。

色彩概念においても、関連する概念能力は自発性一般へと統合されている。それは、概念能力が作動している経験を、世界の瞥見(glimpses)として主体が理解することを可能にするような仕方においてである。瞥見とは、経験それ自体に現れているものを越えた実在の諸相を摂取することである。

もし、(「外的」役割を演じている)色彩概念が経験において作動のなかに引き込まれているならば、その概念のもつ諸々の合理的な結びつきは気づきの内容を形成することへと参与している。そのため、当の経験は主体の認知状況についての様々な含意に満たされたものとして理解される。たとえば、彼女はしかじかの仕方で照明された表面をもつ事物に対峙している、など。

〔補足〕:ここでの論点を要約すると、主体が自身の色彩経験を当の経験を越えた独立的な実在についてのものであると理解することを可能しているのは、その経験において作動している概念がもつ、様々な背景との合理的ネットワークなのである。その背景ネットワークの中には、可視表面が見えない背面を含んだ事物の一部であるという理解や、標準的な照明条件についての理解等々が含まれている。そうしたネットワークが概念的内容の形成へと参与しているがゆえに、主体はその経験を独立的な実在についてのものであると理解することができるのである。

瞥見の概念は視覚に特徴的なものであるが、その論点は視覚以外の経験をも包摂するように一般化することができる。経験において作動へと引き込まれている概念能力がネットワーク全体と合理的に結び付けられているその仕方のおかげで、主体は当の経験が摂取するものをより広大な実在の一部として理解することができる

色彩のような第二性質の概念が経験内容へと現れる仕方へ考察を制限するとしても、上の論点は有効である。「いかなる特定の第二性質の経験も、可能的であれ現実的であれ、他の第二性質の経験を背景として理解されなければならない」と言うだけでは、その論点は担保されない。第二性質を帰属させる判断のように、経験の受動性から最小限にしか離れていないような判断に特徴的な諸々の主題からだけでは、われわれは世界を構成することはできない。(これは上述の背景ネットワークを、第二性質を帰属するような諸判断(「リンゴは赤い」等々)へと制限するようなケースである。すなわち、「~が赤く見えること」という経験内容に対して、それと結びついた能動的思考を「~が赤であること」を内容とする思考へと制限するようなケースである。マクダウェルはなぜこのような制限がわれわれによる世界の構成を阻害するのかを明らかにしようとする)。

われわれは経験可能な世界を、経験によって合理的に制約された能動的思考の主題として理解しなければならない。経験において作動へと受動的に引き入れられた能力は、われわれが自発性の概念を適合させうるがゆえにのみ、概念能力として認められる。さらに、もし、経験の受動性が供給する現に生じた事実から自らを引き離そうとする思考の実践を、可能な事実も含めて、その事実とほとんど同じことを沈思する(contemplate)限りにおいてのみ描こうするならば(つまり、生じた事実と関連する能動的思考を、上述のように第二性質を帰属するような諸判断(「リンゴは赤い」等々)へと制限するならば)、われわれは真に自発性の概念を適合させることはない。そのような仕方では、われわれはせいぜい「内的経験」の秩序立てられた連続という考えへの資格を自らに与えるだけである

〔補足〕:つまり、主体が自身の色彩経験を当の経験を越えた独立的な実在についてのものであると理解することを可能しているのは、先述のような背景ネットワークを有している場合に限られるのであるから、そうした背景ネットワークを欠いているならば、自身の色彩経験を「外的経験」として理解することは不可能となる。

しかし、われわれは色彩経験を「内的経験」として考える資格さえもたないかもしれない。なぜなら、われわれは世界が欠落したならば「内的経験」を理解することさえできないからである(その論拠は第五講義まで持ち越されるが、そこでも解決されないだろう)。

ここまでの考察によって少なくとも明らかになったのは、関連する色彩概念が適切な背景ネットワークへ統合することを欠いたならば、色彩経験がいかにして「外的」実在の特徴として経験されうるのかが不可解なものとなる、という点である。

〈赤であること〉と〈赤く見えること〉との間の結びつきによって例示されるような仕方で、〈実在の特徴についての概念〉が〈現れの様相についての概念〉と不可分に結び付けられているような、そうした実在の特徴のみを、経験が摂取すると想定するのはまったくの誤りである。経験それ自体は、こうした意味において現象的であるような性質以上のものを、思考可能な世界から摂取するのである(例えば、一個のリンゴを見るとき、われわれが摂取するのはリンゴの可視的表面という現象的性質だけではなく、非感性的な背面や内部を含んだ一個の全体としてのリンゴである)。

世界は思考に包含可能である。それなしには経験が世界を把握する特別な仕方が理解不可能となるような、そうした背景を思考は構成する。

われわれの描像が、実質的な経験内容をもった概念体系の描像であるのは、それが〈その体系は経験の供給に対して合理的に応答する能動的な思考にその内部で人が従事するような媒介である〉という描像の一部である限りにおいてである。世界は思考に包含可能であるが、逆に、直観(=世界との結びつき)なき思考は盲目である。思考と世界は相互依存的である。

経験内容一般を理解するためには、それを自己批判的な活動におけるその動態的な場所において看取する必要がある。その活動によって、われわれは世界を感覚に衝撃を与えるものとして概念的に把握する(comprehend)ことを目指すのである

The Unboundedness of the Conceptual

From Mind and World, Lecture 2

John McDowell

1.

第一講義の論点要約(略)

2.

本講義でマクダウェルが考察するのは、彼の構想を観念論として捉えようとする類の反論である。

マクダウェルが推奨している構想において、外的制約の必要性は経験が作動しつつある受容性であるという事実によって満たされる。作動しつつある受容性としての経験は、すでに概念的内容を備えている。

この受容性と自発性の共同参与によって、主体は経験において「物事がいかにあるか(how things are)」を摂取する(take in)のだ、と主張することが可能となる。「物事がいかにあるか」は主体の思考から独立である。「物事がいかにあるか」は、経験における摂取によって、思考の外部から自発性の行使へと合理的制御を及ぼすものとして利用可能になる。

「物事がしかじかであること(that things are thus and so)」は経験内容であり、またそれは判断内容でもありうる。つまり、主体がその経験を額面通りに受け取ることを決定するならば、それは判断内容となる。しかし、「物事がしかじかであること」はまた、人が誤っていないならば、世界のレイアウトのひとつの相でもある(「物事がしかじかであること」=­「物事がいかにあるか」)。

したがって、〈概念的に構造化された受動性の作動〉という発想は、「経験は実在のレイアウトへの開かれ(openness)である」と主張することを可能にする。経験は、実在のレイアウトそのものが、主体の思考内容に対して合理的影響を及ぼすことを可能にする。

実在はわれわれの思考から独立しているが、それは概念領域を取り囲む境界の外部に在るものとしてイメージされるべきではない。「物事がしかじかであること」は経験の概念的内容であるが、経験の主体が誤っているのでなければ、その同じ「物事がしかじかであること」は〈知覚可能な世界のひとつの相〉でもある。

知覚可能な実在を概念領域の外部に位置付けるのを拒否するこの立場は、ある種の観念論であると批判されるかもしれない。ここで「観念論」とは、いかにして実在がわれわれの思考から独立でありうるかは真には認識されることがないという主張である。しかし、この反論は誤っている。

マクダウェルが主張している立場のポイントは、その立場が、所与への要求を特徴づける正当化と無罪証明の混同へ陥ることなしに、われわれの思考に合理的な制約を与える独立的な実在を認識することを可能にする、ということである。

3.

これと関連して、ウィトゲンシュタインの以下の見解について反省を加えよう。

「しかじかの事態である、と言ったり意味したりするとき、われわれは事実から離れてどこかに立ち止まっているのではなく、これは――かくかく――である、と意味しているのである」。ウィトゲンシュタインはこれをパラドックスと呼ぶ。なぜなら、「ひとは与えられた事態でないことを考えることができる」が、そうであるなら、「思考の網のなかで実在を捕らえる」という思考の力は奇跡的なものに思えてくるからである。しかし、ウィトゲンシュタインは正しくも、この見解は「自明性という形式をもっている」と述べてもいる。

これは次のように定式化できる。すなわち、〈われわれが思考することができる種類のもの〉と〈事実でありうるような種類のもの〉との間にはいかなる存在論的ギャップもない。人が偽りなく思考するときには、〈人が考えること〉は〈事実がそうであるところのもの〉である。もちろん、思考が誤りである場合には、それは世界から引き離されうるが、思考という概念そのものに暗に含まれている世界(=その思考が真である場合に、思考内容が表象するところの世界)とは、いかなる隔たりもない。

ここでの論点のすべては、ひとがたとえば春が来たということを考えることができ、かつ、そのまさに同じものである春が来たということが事実でありうる、ということである。これは自明であり、実在の独立性を軽視した場合のように、形而上学的に問題を引き起こすようなものを含んではいない。

実在の独立性に対する承認を保証するために、マクダウェルは次のよく知られた両義性(=ing/edの両義性)を導入する。

「思考」は〈考えるという行為〉を意味しうる。それはまた、〈考えることの内容、つまり、或る人が考えたこと〉をも意味しうる。

われわれが実在の独立性に対して承認を与えるべきならば、われわれに必要なのは〈考えることならびに判断すること〉の外部、つまり自発性の行使の外部からの制約である。その制約は〈思考可能な内容〉の外部からなされる必要はない

もし、「事実一般」を、①〈概念能力の行使、あるいはその反映である表象された事実〉と、あるいは「知覚可能な事実」を、②〈概念能力が感受性における作動へと引き込まれているところの状態や出来事、あるいはそれらの反映である表象された状態や出来事〉と同一視するならば、実在の独立性を軽視することになろう。

しかし、事実一般は本質的に①において思考のなかに抱かれうるということ、あるいは、知覚可能な事実は本質的にそれ自体を②において知覚者に印象づけうるということ、これらは観念的なものではない。

経験において与えられる合理的な外的制約は、思考することの外部から来るのであって、思考可能なものの外部からではない。われわれが正当化を遡行してゆくとき、われわれが辿り着く最後のものはなお思考可能な内容であって、それよりも基礎的とされる所与を指し示すことではない。この最後の思考可能な内容は、受動性の作動において導入される経験内容である。その内容に訴えるとき、われわれは思考という行為にその外部の実在から課される合理的制約を見出す。そして、経験を享受するとき、主体は事実へと開かれているのである。

ウィトゲンシュタインをパラフレーズすれば、「しかじかの事態である、ということを見ているとき、われわれと、われわれの見る行為は、事実から離れてどこかに立ち止まっているのではない。われわれが見ているのは、しかじかの事態である、ということである」。

7.

経験的知識は、カントの呼ぶところの「外官(outer sense)」によってもたらされる知識だけではなく、「内官(inner sense)」によってもたらされる知識も含んでいる。思考の領域は、思考者自身の知覚、思考、感覚、その他についての判断を含んでいる。

そのような判断において作動する概念能力も、他の概念能力と同様、自発性に属さねばならない。しかし、思考のこの領域においても所与の神話への誘惑が生じうる。

この誘惑は、いわゆる私的言語論におけるウィトゲンシュタインが標的とするところのものである。もし、われわれが私的言語論を所与に対する一般的な拒否に合致するものとして理解するならば、われわれはその説得力のある鋭い洞察を活用することができる

マクダウェルが「私的言語論」にいわゆると付すのは、彼の読解によれば、ウィトゲンシュタインの標的とする立場が行うのは、〈生の現前(bare presences)を言葉で表現する仕方を考案すること〉(私的言語)よりもむしろ、〈「内官の判断」は究極的には生の現前に基礎づけられていると主張すること〉(所与の神話)だからである。ウィトゲンシュタインの攻撃の主眼は、私的言語という考えを消去することではない。私的言語それ自体は、彼が拒否する所与の神話という考え方を後押しするだけである。

所与の神話を受け入れるならば、人は自然に次のような私的概念の可能性へとコミットすることになる。

私的概念とは、〈適切な生の現前によって当該の概念を含んだ判断が保証されているという事実によって、その内容が完全に規定される概念であり、生の現前という根拠に可能な限り近い概念〉である(=私的概念とは、関連する判断と生の現前との正当化関係という私的要素のみによってその内容が構成されている概念である)。私的概念は私的言語の語彙によって表現可能だとされる。唯一人の人間のみが、特定の所与が与えられる主体足りうる。

それゆえ、生の現前との正当化関係によって構成されたいかなる概念も、私的概念でなければならないだろう。私的概念は多様な所与からの抽象によって獲得されると想定されるが、この抽象の働きをなすのは、ウィトゲンシュタインの議論における私的な直示的定義である。

私的概念が生の現前との正当化関係によって構成されているならば、自発性はその概念にまで及ばない。その私的概念は自発性に伴う応答可能性(responsibility)から切り離されてしまう(五節終わりで述べた論点と同構造)。自発性が及ばないものを「概念」と呼ぶこと、そしてその概念と生の現前との連関を「合理的」と呼ぶこと、これらは詐称にすぎない。

私的な直示的定義を遂行するための正しい機会が他者によって示される(signalled)と想定しても(例えば、他者が或る対象を指差しながら「赤い」と発言するときに、私がその対象から得られる生の現前に対して私的な直示的定義を行うような場合)、上の論点に変わりはない。その正しい機会とは、私的な要素(生の現前への合理的応答性)を、それに加えて公的要素(共有可能な概念領域への合理的連関)を合わせもった合成的概念へと統合しうるような機会である。

ウィトゲンシュタインはその考えを次の節でこう表現する。「あるいはこうであろうか。『赤い』という言葉はすべての人が知りうる何かを表現する。それに加え、各人にとって、その言葉は当人だけにしか知られない何かを意味する(あるいはむしろ、その言葉は当人だけにしか知られない何かを指示する)」。

私的要素である〈生の現前への合理的応答性〉が混乱した考えであるがゆえに、公的要素である〈共有可能な領域への合理的連関〉は、当の合成的概念を私的側面によって損なわれることから救うことはできない。なぜなら、正当化と無罪証明との混同が、合成的概念の私的および公的要素の間の結合において現れるからである。

〔補足〕:この批判の論点は容易には把握しがたい。解釈の鍵としてひとつ考えられるのは、こうした描像においては、他者が示す私的な直示的定義を遂行するための機会が実際に正しいものであるか否かは、結局のところ私に与えられる生の現前に依存せざるを得なくなるという点である。例を挙げれば、他者が「赤い」と発話した状況の適切性が、私の赤い感覚に対する私的な直示的定義に依存してしまい、公的要素としての自立性が掘り崩されてしまうのである。それゆえ、当の合成的概念がもつ公的要素の正当化は、私的要素がもつ生の現前への応答性に依存せざるを得なくなる。しかし、その私的要素がもつ応答性は正当化ではなく無罪証明に過ぎないため、結局は所与の神話に陥ってしまい、それに依存している公的要素も損なわれてしまうのである。

所与の神話は「内官」の場合において特に困難な問題を生じさせる。

「外官」の場合、所与は〈経験する主体〉と〈独立的な外的実在〉とを媒介し、この媒介を通じて主体は外的実在の気付き(awareness)をもつとされる。もし所与を拒否するとしても、われわれは外的実在を放棄することにはならず、そうした媒介について反省を促されるだけである。

しかし、「内官」の対象は「内的経験」を構成する気付きの内的対格(internal accusative)である。即ち、「内官」の対象はその気付きと独立には存在しないのである。

これは次のことを意味する。もし、生の現前を許容するのであれば、それは作動中の気付きの唯一の対象として現れる。この媒介された気付きが「内官」の対象であるならば、生の現前はそれを越えた何か他のものの気付きを媒介するものとして現れることはできない。

ここから導かれる帰結はこうである。われわれが所与を拒否するとき、われわれは一緒に「内的」気付きをも拒否しているように思われる。それゆえ、「内的経験」の対象が何も存在しなくなってしまうと思われる。

「内官」の印象に対して、判断を正当化する正しい役割を与えるためには、「外官」の印象のように、それがすでに概念的内容をもっていると考える必要がある。さらに、それは受容性の産物であるところの印象であると主張する必要がある。それゆえ、「内官」の印象は、「外官」の印象と同様に、概念能力が作動へと引き込まれている受動的な出来事でなければならない。

しかし、もしわれわれが内的対格についての論点を尊重すべきならば、内的体験における概念能力の受動的作動を「外官」の印象をモデルとして考えることは厳密にはできない。疑いなく、「内官」の対象の原因論のなかに姿を現す「状況」というものは存在する。例えば、痛みの感覚の場合における身体的外傷がそうである。しかし、そのような状況が「内官」の印象によって構成された気付きの対象であると想定することはできない。「内官」の判断は「内官」それ自体の印象についてのものでなければならない。

〔補足〕:「歌を歌う」、「数を数える」などのように、動詞とその対格(直接目的語)が同じ言語的な根幹をもつものである場合、そうした対格を「内的対格」という。対格としてどのような形式の表現をとろうと、内的対格は潜在的に意味構造のなかへ入り込んでいる。たとえば、「悲しみを歌う」のような対格をとる場合でも、それを「悲しい歌を歌う」あるいは「悲しみを込めて歌を歌う」という内的対格を含んだ表現の省略とみなすことができる。注意すべきは、「歌う」という動詞はその対格に「歌」(およびそのバージョン)以外のものをとることはできないということである。例えば、「絵を歌う」と表現することは(詩的表現に現れる場合などを除けば)文法的に言って不適切である。

 典型的な内官の対象である「痛み」の場合も、「痛む」という動詞がとる対格は内的対格である。それゆえ、私は「痛みを痛む」のであって、それ以外の何かを「痛む」のではない。ここで重要なのは、「痛む」の対格には別種の感覚をとることができない(例えば、「かゆみを痛む」は不適切)というだけではなく、当の痛みの原因となる外傷などの状況をとることもできないという点である。例えば、私は「手術跡を痛む」ということはできない。これは「手術跡の傷によって引き起こされた痛みを痛む」の省略形とみなされるべきか、あるいは「手術跡が痛む」の言い間違いとみなされるべきである。前者の「手術跡の傷によって引き起こされた痛みを痛む」は、原因論的な要請と内的対格の要請とを同時に満たすように変形した表現である。後者の「手術跡が痛む」は、「手術跡」の指すものが「手術跡の位置する身体上の空間的領域」であるという点で、「頭が痛む」とか「足が痛む」という表現と同等に扱うことができるのであり、そもそも対格を含んだ表現ではない。

 しかし、「痛み」のような内官の対象を「内的対格」によって特徴づけることには、幾つかの解決すべき問題が残されている。

第一に、元々は自然言語上の特徴的な言語現象を記述するための文法用語である「内的対格」を、対応する自然言語上の表現を欠いた感覚動詞(「痛みを痛む」は通常の用法ではない)に並行的に当て嵌めることに問題はないのか。

第二に、元々の「内的対格」には、原因論的に記述される対象を内官の対象としてはならないという含意はない。この含意はむしろ、「内官は志向性をもたない」という論点に含まれているのではないか。だとすれば、「内的対格」に加えて、志向性の欠如による特徴づけも内官の対象の特徴づけのためには必要でとなるのではないか。

第三に、第二の問いに肯定的に答えるならば、内官を志向性の欠如から特徴づける際の「内官は志向性をもたない」=「内官は志向対象をもたない」という論点と、内官を内的対格から特徴付ける際の「内官の対象は内的対格である」という論点との関係が問題化してくる。この一見相矛盾しているように思われる二つの論点は、果たして両立可能なのだろうか。

8.本講義の要約(略)


6.

「真理と知識の斉合説」と題された論文において、デイヴィドソンはマクダウェルが記述した解決法に対する盲点を示している。デイヴィドソンにはマクダウェルの解決法が見えていないのである。

デイヴィドソンは所与の神話の欠陥をよく理解していた。しかし、デイヴィドソンは〈経験は感性に対する概念外的な衝撃に他ならない〉と考える。それゆえ、彼は経験が理由の空間の外部になければならないと結論する。デイヴィドソンによれば、経験は因果的に主体の信念および判断と関連しているが、しかしそれは信念および判断と正当化関係をもつことはない。デイヴィドソンは「或る信念をもつことに対する理由とみなすことのできるものは、他の信念を除けば何もない」と延べ、とりわけ経験は信念をもつことの理由たりえないとする。

斉合主義のこの帰結は摩擦なきものとして自発性を把握する理解の一形態である。これはマクダウェルが語ってきた振り子運動の一端である。デイヴィドソンの描像は、われわれの経験的知識を、外部からのいかなる合理的制約にも関わることなく因果的制約にだけ関わるものとして描き出している。デイヴィドソンは、彼の描像が経験内容に対して実在との期待される関係を与えうるかという憂慮を沈静化しようとさえしていない。

もちろん、デイヴィドソンは自身の立場が正しいと信じていた。しかし、彼がそう信じることができたのは、所与の神話の動機について十分に深く考察しなかったからである。

デイヴィドソンは、経験を基礎づけ主義的に理解することは「懐疑論に導くものである」と主張する。しかし、〈懐疑論についての哲学的憂慮は、所与の神話という誤りから生じる〉というのは正しくない。むしろ、所与の神話は経験的知識についての哲学的不安の基礎にある考え方に対するひとつの応答なのであり、この考え方はまさにデイヴィドソンが是認するものである。それゆえ、上とは逆に、〈懐疑論についての哲学的憂慮から、所与の神話という誤りが生じる〉のである。

〔補足〕:周囲の文脈から判断すると、この「経験的知識についての哲学的不安の基礎にある考え方」とは、「概念能力は自発性の能力に属する」という考え方であるように思われる(次の段落に、所与への誘惑は、「概念能力は自発性の能力に属するという考えによって印象づけられ、概念能力がわれわれの描像の描くところのものでありうるという可能性をその描像が自ら奪っているという憂慮に陥るときに生じる」とある)。この考え方とその系(「自発性の能力は自由を含意する」等々)から、「自発性の行使の結果としての経験的知識は、いかにして外的制約をもちうるのか」という憂慮が生じる。それゆえ、「概念能力は自発性の能力に属する」という考え方は、経験的知識についての哲学的不安の基礎に在ることが認められる。この考え方に対するデイヴィドソン自身の応答は、〈自発性の領域は概念領域と一致し、理由の空間はその領域と外延を等しくする。その領域に対して、生の衝撃としての経験は因果的にしか関係することができない〉というものであろう。

デイヴィドソンの斉合説は、思考の領域内部への幽閉(confinement)というイメージを示唆する。デイヴィドソンの描像は、われわれは自身の信念体系の外部へと出ることができず、そのなかに幽閉されている、というものである。

もちろん、デイヴィドソンはそのような幽閉のイメージが所与の神話への後退を促しかねないということを知っていた。彼はこの幽閉のイメージを放任するが、斉合主義の枠組みにおいては「信念とはその本性上信頼できるものである(veridical)」というテーゼに賛意を示すことで、所与の神話への後退を先行的に回避する。デイヴィドソンは信念を解釈と結びつけ、〈解釈者は解釈の対象となる主体が世界(=その主体と因果的に相互作用していると解釈者が観察できる世界)について抱く信念が大部分正しいと考えなくてはならない、ということが解釈の本性のうちにある〉(=寛容の原理)と主張することで、そのテーゼを擁護する。

マクダウェルはこの主張を直接的に批判せず、その代わり、〈デイヴィドソンの描像はわれわれが欲する思考と実在との関係を実質的に保証しえているのか〉という問いを提起する。

斉合主義の描像が受け入れられる限り、人はマッドサイエンティストの「水槽のなかの脳」であるかもしれない。これに対するデヴィッドソンの応答は次のようなものであろう。もし或る人が水槽のなかの脳であるならば、当人の信念を脳の電子的環境についての大部分が真である信念として解釈することが正しいだろう。しかし、これは所与の神話への誘惑を退けうるような、実質的な解答なのだろうか。

デイヴィドソンの描像では、われわれは自身が幽閉されている〈信念の集まり〉とともに出発するとされる。〈そうした信念の集まりは大部分が真である〉と保証することで、その描像は幽閉のイメージを無害化すると称する。しかし、水槽のなかの脳の問題に対するその応答は、〈われわれの描像は思考を外部の世界との接触から排除するのではないか〉という恐れを沈静化するものではない。それが与えるのは、「われわれが信じているものは何であるか」についてのわれわれの把握は、自分自身が考えるほど堅固ではない(例えば、「われわれの信念体系は外的世界と関係している」というわれわれの把握は、そうした信念体系そのものが大部分真であるとしても、われわれが水槽の中の脳である場合には誤っている)、という当惑させるような帰結だけである。

信念の集まりが大部分真であるというデイヴィドソンの主張が正しいとしても、その主張は出発するのが遅すぎるため、彼の立場を振り子からの真の脱出として認めることはできないのである。

〔補足〕:「出発するのが遅すぎる」とは次のことであろう。概略的に言えば、デイヴィドソンは解釈者自身のもつ合理性を前提とし、解釈の対象である主体のもつ信念が大部分真であるとみなすという寛容の原理を介して、解釈者の合理性を解釈の対象へと投射し、そこから他者のもつ信念および意味に対する根本的解釈を行ってゆく。この描像において、解釈者自身のもつ合理性は問われないままに残されている。正しい出発はこの解釈者自身の合理性を問題とする地点からなされるべきであり、デイヴィドソンのようにそれを前提として出発してしまうならば、多くのことが不問に付されたまま残されてしまうのである。

もし、デイヴィドソンの斉合主義が主張するように、自発性が外部からの合理的制約に従わないならば、そもそもいかにして自発性の行使が世界を表象しうるのかをわれわれは理解することはできない。「直観なき思考は空虚である」のであり、思考と直観が合理的に結びつけられているということを認めることができる場合に限り、われわれは経験内容をもつことができる。これを拒否することによって、デイヴィドソンは自身の主張の出発点とする〈信念の集まり〉に対する権利を掘り崩してしまう(それらの信念の集まりが内容をもつためには、それらの信念に対する世界からの合理的制約が存在しなければならない)。

真の解決策は、経験が思考に対する合理的制約であることを放棄することなく、同時に所与の神話を退けることを要請する。もし、世界から与えられる印象がすでに概念的内容をもっていると認められるならば、われわれはこの真の解決策に達することができるだろう。


4.

〈経験的知識は受容性と自発性の協働から帰結するのであり、受容性がその協働に対してなす寄与は、たとえ名目上であっても自発性と分離可能ではない〉というカントの考えをしっかりと掴むことができれば、われわれは振り子状態を逃れることができる。

そのためには次のように考えればよい。即ち、関連する概念能力は受容性のなかで作動させられている(drawn on in)のであって、概念能力は受容性の概念外的な供給のうえに(on)行使されるのではない、と。

「直観」(=経験的摂取)を、すでに概念的内容をもったある種の出来事や状態として理解すべきである。

経験において、われわれは〈物事はしかじかである〉ということ(that things are thus and so)を摂取する(takes in)のであり、その摂取されたものは、主体が判断することもまた可能な種類のものである(可謬性については最終講義で論じる)。

これは所与性を異なった仕方で理解する余地を与える。それは正当化と無罪証明との間の混乱を免れているような理解である。われわれは理由の空間が概念の空間よりも広いということを認める必要はない。経験判断の根拠を辿るとき、最後の一歩はわれわれを〈生の衝撃を指し示すこと〉ではなく〈経験〉へと連れてゆく。経験はすでに概念的内容をもっており、かつ、そのなかで受容性が作動している。それゆえ、われわれはこの最後の一歩によって概念の空間の外部へと連れ出されることはなく、自発性に含意されている自由によって煩わされることもない。

5.

われわれが経験を享受するとき、概念能力は受容性のなかで作動させられているのであって、受容性からの先立つ供給のうえに行使されているのではない。しかしながら、〈経験が享受されるとき、すでに概念能力が行使されている〉と語ることは不適切ではないか。なぜなら、行使という言葉は能動性にふさわしいものであるが、一方で経験は受動的であるから。

経験が受動的であると言うことは次のことを意味する。(ギブソン的な)情報の抽出という意味において、経験は能動的に制御されうるが、そこでわれわれが行うことのできる制御は限られたものである。人は自分自身をどこに定位するか、注意をどのピッチに調整するか、等々を決めることができる(能動的側面)。しかし、それらすべてがなされた後にわれわれが何を経験するのかは、われわれの自由にはならない(受動的側面)。

経験において、いかなる選択をするよりも前に内容がわれわれにとって利用可能であるという点において、概念能力はすでに作動のなかへと引き込まれている。経験において、われわれはすでに内容を背負わされているのに気付くのであり、その内容はわれわれが自分自身でまとめた(put together)ようなものではない。

所与への訴えに対する誘惑を生じさせているのは次のような考えであった。われわれは自発性を、思考の外部からの制御に従うものとして考える必要がある。それに反すれば、自発性の作動を〈真空における摩擦なき回転〉として表象するという誤りに陥ることになる。そして、所与はその必要な外的制約を与えるように思われる。

経験が受動的であるということを強調するとき、たとえマクダウェルが概念能力は経験において作動していると主張していても、彼は自発性が経験内容にまで及ぶということを単に拒否することによって、つまり自発性の領域を概念領域よりも狭めることによって、所与への誘惑を消し去っているだけではないか。マクダウェルは所与の神話を真には武装解除していないのではないか。

しかし、もし経験において働いている能力が当該の経験においてのみ――即ち、受容性の作動においてのみ――示されているのであれば、われわれはそうした能力が概念的なものであると想定することはできない。その能力が能動的な思考においても――即ち、自発性という概念にしっくりと馴染むような思考においても――また行使されうるのでなければ、それを概念能力として認めることはできない。感性における概念能力の受動的作動は、判断におけるその能動的行使から独立には理解できないのである。

概念能力として認められるためには、最低でも、当該の能力を用いて〈経験が表象する通りのものとして或る事態が成立していると判断すべきか否か〉を決定可能でなければならない。いかにして経験が事態を表象するかはわれわれの制御下にはないが、それを受け入れるか拒否するかはわれわれの自由である。

さらに、経験それ自体を記録する(register)ような判断においても、その判断のなかの概念を使用する能力は自立的なもの(self-standing)ではない。つまり、その能力は、同じ概念をその文脈の外部で使用する能力と独立に場所を得ることはできない(=概念能力は文脈拘束的であってはならない)。

一般的に言えば、経験のなかで作動させられている能力は、そうした能力をもっている主体が〈経験判断の内容〉と〈他の判断可能な内容〉とを結ぶ合理的関係に対して応答可能であるという事実を背景としてのみ、概念的なものとして認められる。そのような合理的連関が当該の概念に対して可能な世界観の要素としての場所を与えるのである。

例として、色についての判断を考察しよう。主体が色を事物の可能な特性として理解することを保証するのに十分な背景をもっていなければ、当の主体は色についての直接的な観察判断をなしているとみなすことはできない。視覚システムの入力へ応答する「正しい」色彩語を生み出す能力(こうした能力であればオウムももっている)がその色彩概念の所有を示すのは、次のような背景を主体が把握しているときに限られる。例えば、その応答が世界のなかの或る種の事態――意識の流れのなかの摂動(perturbation)とは独立に得られる事態――に対する感性を反映しているという理解(=色彩経験は遠位的な世界の経験であるという理解)や、対象の可視表面の概念、対象を見ることによって何色であるかを言うための適切な条件の概念(例えば、標準的照明条件の概念)、等々である。

経験において受動的に作動へと引き込まれている概念能力は、能動的思考のための能力のネットワークに属している。そのネットワークは感性に対する世界からの衝撃への応答を合理的に制御している。

主体の思考を制御するそのネットワークは神聖にして侵すことのできないものではない(=改訂不可能ではない)。能動的な経験的思考は、自らを制御するその合理的ネットワークの信憑性について反省を行う永続的な義務のもとに生じる。もし反省が推奨するならば、諸々の概念は作り直されねばならないのである。

概念体系内部からの圧力に応じて、その体系の最も周縁にある諸概念を作り直す必要が生じるという見込みは非常に薄いが、そのことは次の論点を明らかにする。……(1)

即ち、経験それ自体は自発性という考えにしっくりと馴染むものではないが、最も直接的な観察的概念でさえ、自発性の観点から適切に理解される思考におけるその役割(例えば「赤」という観察的な概念の場合、「赤は緑の補色である」などの能動的思考におけるその役割)によって部分的に構成されている。……(2)

〔補足〕:上の二つの箇条(1)(2)の間にある論理的な結びつきはいささか読み取りにくい。おそらく、それは次のように展開できる。(1)概念体系内部においてなされる反省によって、体系周縁の観察的概念の改訂が促される可能性は、薄いものではあるが確かに存在する。それは即ち、(1’)体系内部における当該の観察的概念を用いた能動的思考への従事によって、当該の観察的概念を含んだ関連する概念体系の地形図が大規模な変化を引き起こされ、それにより、体系周縁におけるその観察的概念の概念内容それ自体が部分的な変化を被る可能性が存在する、ということである。このように、体系内部において生じる概念改訂への圧力によって、関連する周縁部の観察的概念の部分的改訂が引き起こされる可能性が存在するということは、体系内部においてなされる反省においてその観察的概念が果たす役割の変化が、その概念自体の変化に対して部分的にせよ構成的に連関しているということを意味する。それゆえ、(2)体系内部においてその概念が果たす役割は、その概念自体に対して部分的にせよ構成的に寄与しているのである(適切な具体例を挙げる必要あり)。

したがって、われわれは〈経験における概念能力の受動的参与〉と〈自発性が含意する自由のもつ効果〉とを単純に切り離すことはできない。もしそれらを切り離すなら、正当化を欲するところに無罪証明しか与ええないことになり、所与の神話の一形態へと舞い戻ってしまう(自発性なき概念の受動的参与は対応する所与によって因果的に引き起こされるだけであり、その参与に対してわれわれは帰責を問われえない)。

マクダウェルが推奨している見方は、経験は受動的であるが、真に自発性に属する作動能力へと引き込まれている、というものである。


Concepts and Intuitions

From Mind and World, Lecture 1

John McDowell

1.

マクダウェルの中心問題=いかにして概念は心と世界の関係を媒介するのか

まず、議論の焦点を明確にするために、デイヴィドソンの「図式と内容の二元論」を採り上げる。

図式=概念図式、内容≠表象内容(命題内容)

この二元論における「内容」がいかなるものであるかを理解するために、カントの「内容なき思考は空虚である」という表現におけるこの語の意味を考察しよう。

カントが「内容なき思考は空虚である」と語るとき、彼は単なるトートロジーを主張しているのではない。

「内容」が単に「表象内容」を意味するのであれば、「内容なき思考」は「表象内容なき思考」=「何も表象していない思考」となり、「空虚」の単なる言い換えに過ぎなくなる。

むしろ、ここでの「内容」は、「概念なき直観は盲目である」という残り半分の表現から読み解くことができる。「内容なき思考」は「直観と何のつながりももたない概念の一人遊び」である。直観とは経験的摂取(intake)であり、思考に内容と実質を与えるのはこの経験的摂取とのつながりなのである

空虚でない思考=表象内容をもった思考は、概念と直観との相互作用(interplay)から生じる。デイヴィドソンの二元論における「内容」は、直観(=経験的摂取)に対応している。

「内容なき思考は空虚である」=「直観と何のつながりももたない思考は表象内容をもたない」

2.

デイヴィドソンが考察する二元論において、なぜ概念的なものの対立項がしばしば所与として記述されるのかは、このカント的な背景から適切に理解される。なぜなら、「内容」は経験的摂取としての直観であり、これは伝統的な基礎づけ主義的経験主義において「所与」が果たすべきだとされる役割と同じ役割を担わされているから。

「図式と所与の二元論」は「図式と内容の二元論」よりも適切なラベルである。なぜなら、内容はしばしば表象内容と混同され、表象内容はしばしば概念的なものとして捉えられるが、他方、所与は生の事実であり、そもそも定義的に言って概念的なものではなく、それゆえ、「所与」のほうが「内容」よりも概念との対立関係を明確化させやすいからである。

カントが直観と概念についての自身の見方を披瀝するのは、受容性と自発性の、感性と悟性の協働の結果として経験的知識を表象する過程においてである。概念、悟性、自発性は互いにどう関係するのか。

悟性はその協働において概念を統御することへと寄与し、当の悟性は自発性の能力として記述される。概念領域は合理的関係によって構成されており、それゆえ、概念の空間はセラーズが「理由の空間」と呼んだものの少なくとも一部である。カントが悟性を自発性の能力として記述するとき、それは理性と自由の関係についての彼の見方を反映している。合理性が課す強制(necessitation)こそが自由を構成する。

もし自発性がもつ自由が概念領域の外部から制約されないならば、思考の外側にある実在と関係するという仕方で経験判断が根拠づけられねばならないという、まさにその可能性が脅かされる。そして、経験判断と実在との関係が理解可能であるべきならば、確かにそのような根拠づけは存在しなければならない。われわれが理性と自由との関係を強調すればするほど、概念の行使は自己閉鎖的なゲームのなかの運動へと退化する恐れが増す。それは概念の行使から直観との結びつきを奪い、それが「概念」の行使であるという可能性そのものを失わせる。それゆえ、経験的信念をその理由へと適合させることは自己閉鎖的なゲームであってはならない。

「図式と所与の二元論」はこの憂慮に対するひとつの応答である。この二元論は経験的概念を展開する自由に対する外的制約をわれわれに与えると称する。この二元論のポイントは、経験的正当化は概念領域に対する外部からの衝撃(impingements)にその究極的な基礎を有している、というものである。それゆえ、理由の空間は概念の空間よりも広いということが帰結する。

われわれが信念や判断に対する根拠=正当化を遡行するとき、概念の空間の内部において利用可能なすべての移行を使い尽くしたとしても、われわれが取りうるもうひとつのステップが存在する。それは、経験において単に受容されるだけの何かを指し示すことである。これは「指し示す」という概念外的なものでしかありえない。

〔補足〕:こうした「指し示す」という直示的行為は、それが特定の概念と対応する形で分節化を果たすべく導入されているという点で、概念外的な生の行為ではなく、すでに概念的な記号過程とみなされるべきではないだろうか。だとすれば、こうした直示的行為でさえ、すでに概念の空間の内部に埋め込まれたものとして行われるのでなければ可能ではないかもしれない。

所与による基礎づけは、或る経験的判断が知識化可能(knowledgeable)であるとみなされるための権限を与える。経験判断一般は(当の判断が実際に知識であるか、正当化されているかに関わりなく)経験的正当化を可能にするような種類の内容をもつべきである。

所与を指し示すことが、判断における概念使用を正当化するということが理解可能であるべきならば、〈所与が経験判断を保証する可能性が、判断内容に対してその所与に対応する概念が果たす寄与の構成要素である〉とみなさなければならない(=判断内容に対して概念がなす寄与のうちには、対応する所与による正当化可能性が構成要素として含まれていなくてはならない)。

この要請は、「観察的概念」の形成についての良く知られた描像(所与の神話の一形態)に反映されている。観察的概念とは、経験に対して直接的に応答するような判断に現れるのに適した概念である。その描像の発想は以下のものである。

或る概念が〈その概念を用いた判断は所与によって基礎づけられている〉という事実によって部分的にせよ構成されるべきならば、その概念能力は所与との適切な対面(confrontations)から習得されなければならない。

しかし、感性に与えられる通常の衝撃は、多様な所与(a manifold Given)である。それゆえ、観察的概念を形成するためには、主体は現前する複合体のなかの適切な要素を抽象しなければならない。

この描像は次のように拡張される。経験的実質(empirical substance)はそれが吹き込まれた観察的概念のレベルから、さらに遠くの経験的概念へと、概念体系をまとめあげる推論連関の経路を通って伝達される。

こうした抽象主義的描像は、ウィトゲンシュタイン的な精神のもとにギーチによって痛烈に批判されてきた。これについては七節で立ち戻る。

3.

所与の神話は、概念領域よりもさらに広い理由の空間を要請する。理由の空間のその余剰的な拡がりによって、思考の領域の外部からの非概念的衝撃を包含することが許容されると想定されている。

しかし、判断を保証する関係は、概念の空間の内部における関係として以外に真には理解されえない。概念の空間の内部における関係とは、概念能力の潜在的行使の間に成り立つ、含意あるいは確率化・蓋然化(probabilification)のような関係である。概念領域の外部へ正当化関係の範囲を拡張しようとする試みは、それがなそうと意図することをなしえない。

〔補足〕:ここで用いられている「潜在的行使」という言葉はミスリーディングではないか。われわれは生涯で一度も顕在化されることのない多くの信念を、適切な問いが与えられたならば即座に顕在化させうるという意味において、(命題的な形においてではないかもしれないが)潜在的に有している。これは、概念領域の内部における含意や確率化といった推論関係についても、或る程度までは同様に当てはまる(ABCという信念を有していれば、それらから即座にDという信念が推論的に導出される場合には、そうした推論関係は潜在的に成り立っていると言える、しかし、EFGという信念を有していても、それらからHという信念を推論的に導出するには意識的な努力と洞察が必要とされるような場合には、その推論関係を潜在的に有しているとは言えない)。それゆえ、実際に思考内容として捉えられる以前の諸々の潜在的な信念間においても、或る程度まで推論関係は成立していると思われる。したがって、上記のマクダウェルの文章が、「諸々の概念間に潜在的に成り立つ含意や確率化のような関係」となっていれば、それを理解するのに困難はない。しかし、〈概念能力が潜在的な推論関係を顕在化させる〉というのは理解できるとしても、〈潜在的な推論関係はすでに潜在的な仕方で行使されている概念能力によって構成されている〉というのは容易には理解しがたいのではないか。〈概念能力の潜在的行使〉は〈概念能力の受動的行使〉というトピックと合わせて再検討されるべきである。

所与の神話による上記の要請の帰結は、〈拡張された理由の空間の境界外縁において、生の衝撃という形で外部からの制約が及ぼされる〉という描像である。

この描像が保証するのは、〈われわれは境界外縁上で生じることに対して帰責を問われえないのであり、したがって、そこで生じることが内部へ及ぼす影響に対して帰責を問われえない〉ということである。なぜなら、世界からの生の因果的衝撃は、われわれの自発性の制御が及ぶ範囲の外部で働いているから。

しかし、〈責任から免れていること〉と〈正当化を有していること〉とはまったく別の事柄である。所与の神話は、われわれが正当化を欲するところに無罪証明(exculpation)を与えるにすぎない。

もし、われわれが所与を拒否するならば、経験的思考や判断に課されるいかなる外的な制約の余地も残すことができないという恐れに晒されるように思われる。所与の拒否と所与への後退との果てしない振り子状態から逃れる道を、われわれは次のようにして見出すことができる。


4 Spatial Reasoning and Action

・非概念的な表象的内容は自律的なのだろうか。エヴァンズはそうした主張を示唆していた。しかし、そのような自律性のテーゼは強制的なものではない。

・最もプリミティヴなシナリオ内容のレベルにおいてさえ、そうした自律性に反対する強い主張がある。シナリオ内容は空間的内容であり、刺激パターンの高次特性に対する単なる感受性以上のものを含んでいる。時間経過を通じて場所を同定するなかで主体がそのような感受性を越えた真に空間的な内容を伴った状態をしばしば利用するべきでないならば、有機体の状態に対してそのような内容を帰属できないのではないか。そのような同定は場所の再認や場所の変化の知覚に含まれる。

・時間経過を通じた場所の同定は、シナリオ内容をもった状態が主体の周囲の認知地図を構成することへと寄与することを要求する。今度は、主体が少なくとも初歩的な形態の第一人称的思考(プリミティヴな第一人称的概念)を援用しないならば、そうした構成への主体の関与が意味をなすかどうか大いに疑問である。もしこれが正しければ、シナリオ内容は自律的ではない。最も基本的なレベルにおいて、概念的内容と非概念的内容は同時的に説明される。その図式それ自体の最も基本的な要素はローカルな全体論を形成する。

・時間経過を通じた場所の同定は、主体に対して、彼の連続する知覚の表象的内容を周囲の――遠・近、過去・現在、双方の――世界の統合的な表象へと統合することができるということを要求する。これを、空間的推論(spatial reasoning)に従事する能力と呼ぶ。空間的推論の一部は概念的であり、一部は原命題的である。しかし、空間的推論がシナリオ内容しか含まない場合には、空間的推論は概念的でも原命題的でもない。

・空間的推論は主体が周囲の世界の整合的な表象を構築することを伴う。シナリオ内容は概念的でも原命題的でもないとすれば、ここで「整合的」は何を意味するのか。位置づけられたシナリオが認知地図と整合するという意味の整合性がある。これが意味するのは、次の二つが例化されるような地図化された空間に書き込む仕方が存在するということである。()認知地図によって要求される空間のなかに諸特徴を位置づける仕方、()位置づけられたシナリオの正しさにとって十分な世界のなかに諸事物を位置づける仕方。

・真の空間的推論は思考者の行為の空間的特性を説明できなくてはならない。人間は行為の空間的特性に関して、体表の色変化や酸性度の変化しかできないプリミティヴな或る種の生物よりも遥かに広範な特性を制御することができる。この制御におけるシナリオ内容の役割について考察する。

・観察によらない知識は感覚から推論されないし、それよって引き起こされもしない。この種の知識において、四肢の位置は自己の身体との関係で自己中心的に与えられている。

・これはオショーネシーの扱いとはいくつかの点で異なる。オショーネシーは自らの四肢の位置に関する知識は非概念的かつ非命題的だと考える。この知識は完全に実践的なものであり、その内容は身体的行為の集合において余すところなく表出される。或る時点において所有されているこの知識の多くは行為に使用されないため、これは誤りである。オショーネシーはむしろ、識別的知識は行為の傾向性から成る、と言うことができた。ここには何か正しいものがあるが、われわれはその内容を知るまで当該の知識の適切な理解を得ることはない。なぜならその内容は正しさの条件をもっているから(観察によらない知識であっても薬や脳損傷の影響で誤ることはある)。行為の成功や失敗はそれを生じさせる意図的あるいは下意図的(その内容が概念化されていない)状態の内容に依存している。この意図的あるいは下意図的状態の内容は、それが成功したことについての知識の内容と同じである。

・主体に身体の座標軸に関連した事物の位置についての情報を提供するなかで、主体が自らの知覚している他の空間的関係へ向けて(から)自身の身体や四肢を動かそうと欲するならば、知覚は即座に利用可能な形で非概念的情報を提供する。これは単に、身体基盤的なシナリオを含んだ内容は、知覚に、身体的位置の識別的知識に、即座に(下)意図的行為の制御下にあるものに、共通だからである。命題的態度がシナリオ内容によって部分的に個別化された概念的成分をもっているとき、それは知覚と行為の間で媒介的な役割を果たす。

・シナリオ内容によって可能となるこの媒介的役割は知覚の非概念的内容と身体的行為との間の結び付きをより完全に説明する。森の中で正面から47度右の木へと懐中電灯を向けろと言われた普通の人は、どこに光線を向けるべきかを知らない。彼はどの知覚的に個別化された方向が正面から47度右なのかを知らない。しかし、当該の木が印づけられれば何の困難もなく精確な方向を向くことができる。

・このケースでは主体の実践的推論の明示的言明を考察することが助けになる。彼は次のような内容の意図を形成する。

(1)私は腕をあの木の方向へ向けるだろう。

彼は知覚経験によって次のことを知っている。

(2)あの木は(シナリオ内容を用いて自己中心的に個別化された)方向dにある。

それゆえ、次のような内容の意図を形成する。

(3)私は腕を方向dへ向けるだろう。

彼はさらなる実践的推論を重ねずにこの意図を実行することができる。ここから、知覚と行為との間の結び付きは二つのリンクに依存している、ということが明らかである。①〈「あの木」という知覚的直示〉と〈直示的思考を含んだ(2)の知覚基盤的知識の利用可能性〉との間のリンク、②〈その方向の自己中心的同定様式〉と〈主体の「基礎」行為〉との間のリンク。これらのどちらが欠けても、知覚と行為の間の結び付きはなくなってしまう。

・実際には、視覚的運動失調に見られるように、この二つのリンクも十分ではない。この症例では、視覚経験のシナリオ内容は運動制御システムからアクセス不能の状態にある。

・他にも様々な通常ではないケースがある。単一の経験のシナリオ内容を与えるためにラベリングされた座標軸の二つの系が用いられるが、それら二つの系の間の空間的関係はその経験の内容によって特定されていないようなケース(fragmentation)

・なぜ特定の身体部分を含んだ或る仕方でラベリングされた座標軸が、下意図的状態の内容を与えるのに使用されるまさにその空間タイプを与えるのに適切なのか。これは空間タイプに対する参照枠(指示の枠組み)についての問題である。

・シナリオの座標軸をラベリングするのに用いられる指示の枠組みは、それに関して所与のタイプの(意図の)指令がつねに同じ効果をもつ枠組みである。

5. Conclusion

・将来のアジェンダへ向けて。略。

3. A Further Level of Content: and an Application

・経験の非概念的表象に関係する正方形、立方体、ひし形、円筒形といった明らかに部分的に知覚的な形態概念の習得はどのようにしてなされるのか。そのタスクは、これらの概念の様々な所有条件がいかにして経験の非概念的内容に言及するのか、を述べることである。

・正方形の概念は、幾何学的定義を意識することなく所有可能な相対的に観察的な形態概念である。この概念は内在的に曖昧な境界を有している。

・正方形の概念の所有にとって何が必要かについての自然で簡単な説明:思考者は自身の経験を額面通りに受けとる、および、思考者の経験の位置づけられたシナリオにおいて、知覚された対象によって占められた空間のその領域は正方形である、と前提する。そうすると、思考者は対象が正方形であるという現在時制の直示的思考をプリミティヴに強制的なものであると見出さねばならない。

・この説明は循環的ではない。シナリオを固定するために正方形の概念は必要だが、その概念を思考者が有しているということは要求されない。この簡単な説明はA(C)(どんな概念か)という形式のより長い記述(longer story)の一部として特徴づけることが可能であるような仕方において書き出される。

・この簡単な例によって与えられた必要条件は実際には必要ではない。このことはマッハの正方形とひし形の例に示されている。正方形の概念を所有している思考者は、ひし形の方向に置かれたタイルが正方形であるということをプリミティヴに強制的であると見出す必要はない。しかし、彼の経験の位置づけられたシナリオにおいて、タイルによって占められた空間のその領域が正方形であるということは可能である。

・マッハの例は、シナリオは正方形の概念と正ひし形の概念との間にある差異に無関係である、ということを示してはいない。それらは単純な仕方では扱えず、さらなる素材の使用による付加を必要とする。このためにはシナリオ内容によって与えられる素材では不十分かもしれない。

・直観的には、正方形の概念とひし形の概念との差異は、対称性の知覚のされ方の差異であると思われるかもしれない(ひし形は角の二等分線、正方形は向かい合う辺の二等分線)。何かを対称的であると知覚することが対称性の概念の習得と使用を必要としないのならば、それはどのようにしてか。

・知覚経験は非概念的内容の二番目の層をもっている。この二番目の層はシナリオ内容とは区別される。この付加的な内容を原命題(protopropositions)と呼ぶ。この原命題は真偽によって評価可能である。原命題は個体や諸個体、およびそれらと結びついた性質や関係を含んでいる。原命題が経験の表象的内容の一部であるとき、経験は原命題のなかの性質や関係を個体や個体群がもつものとして表象する。これを原命題と呼び原思考と呼ばないのは、それが対象、性質、関係を含み、それらの概念を含むのではないからである。また、これを命題と呼ぶのは、それが概念内容によって固定することで経験の内容の一部として規定されているのではないからである。原命題は次のような特性や関係を含む。正方形の曲線状の~と平行な~から等距離の~と同じ形の~について対称的な。これらの特性や関係は位置づけられたシナリオのなかの場所や線、領域がもつものとして表象されうる。原命題は概念ではないため循環はない。

・原命題的内容は位置づけられたシナリオ内容によって規定されはしない。同じ位置づけられたシナリオ内容が異なった原命題的内容をもつことは可能である(同一の形態で傾き方が異なる場合、同じ形態を後に同じ形として見る場合、空間的なグルーピングが異なる場合など)。

・原命題的内容は記憶、再認、認知地図において重要な役割を果たす。

・再び正方形とひし形の差異について。何かを正方形として経験する際に、その対辺の二等分線に関する対照性が知覚されねばならないと言うとき、われわれは原命題的内容のレベルにおいていかなる制限ももってはいない。正方形として何かを知覚するという経験は、それが有する非概念的内容が「その形態は或る線について対称である」という原命題的内容をもち、その線が位置づけられたシナリオのなかにある、そのような経験である。

・原命題的内容が含む性質と関係は概念的なものではないかという批判が生じるかもしれない。

・これに対する応答は二重である。

(1)主体が性質や関係を概念化することなく知覚しているということを示す多くの例が存在する(インクのしみの対称性、音程の複雑な関係、統語論的‐意味論的関係の両義的な発話)。

(2)第二の応答は譲歩的なもの。例えば、知覚されている或る対象は真っ直ぐであるという原命題的内容を伴った経験と密接に関連する判断の概念的構成要素が確かに存在する。しかし、この概念的内容は原命題的内容との間にそれがもつ関係によって部分的に個別化されるのである。

・先天的な盲人は知覚的な正方形の概念をもち、世界についての自身の触覚的経験に基づいてそれを適用することができる。正方形などの知覚的な形態概念は様相特定的ではない=非様相的である。次のような特定の感覚様相が存在しないならば、概念は非様相的である。すなわち、その概念の所有条件が、その特定の感覚様相における経験のための概念を含んだ信念についての思考者の感受性に言及するような、そうした感覚様相である。これを概念の非様相性の基準と呼ぶ。

・この非様相性についての説明は、エヴァンズ的な精神のものである。思考者が何かを正方形であると判断するとき、視覚的経験において行使されるのと触覚的経験において行使されるのとは、同じ「単一の概念能力」である。

・知覚的な形態概念のこうした扱いは、経験が概念的内容をもつことを認めることと整合する。エヴァンズは経験が概念的内容をもつということを認めていない。しかし、エヴァンズの思想のこの部分は強制的なものではない。経験は実際に概念的内容をもっているが、概念の所有条件はせいぜい思考者の経験がもつ非概念的内容(位置づけられたシナリオと原命題的内容)のみに訴えるべきである。

・ここまでの説明は経験から概念所有へという方向へのものであった。反対方向への因果的説明も存在する。思考者が知覚的に個別化された概念を習得しさえすれば、その概念の所有はどんな内容を彼の経験が有するかに対して因果的に影響を与えうる(例えばキリル文字の概念を所有する者としない者がキリル文字を見る場合。シナリオ内容と原命題的内容とは同じ)。

・ここまでの論述は正方形の概念の所有条件を完全に与えてはいない。完全な所有条件は知覚されていない事物が正方形であると判断する主体の能力を解明しなければならない。これに関して様々な興味深い事柄がある。知覚できない微細な対象および巨大な対象が正方形でありうることについての理解、知覚されないが知覚可能な正方形の対象についての判断の理解など。こうした場合もこれまでの論述に基づいて説明可能。

2. Scenarios: Consequences and Comparison

・経験の客観的内容は位置づけられたシナリオによって与えられるというテーゼのいくつかの帰結。

(a)

・概念によって捉えられない詳細な(fine-grained)内容は、シナリオによって捉えられる。そのシナリオを唯一的に捉えるためには、そのシナリオが有しているのと同等の詳細さをもつ概念的資源が必要である。しかし、このことは、そうした概念的資源が知覚者の表象内容の構成要素である、あるいは知覚者がその概念的資源を所有していなければならない、ということを含意しない。シナリオは空間的タイプであり、それを記述する仕方は無数にある。しかし、経験の内容に含まれているのはタイプであり、その記述ではない。

(b)

・知覚経験がもつ内容のタイプは〈アナログ〉であり、かつ〈単位から自由(unit-free)〉である。

・〈アナログ〉:当該の内容のタイプがアナログであるとはどういうことか。空間内の或る地点には多くの次元――色調、形、大きさ、方向――が存在するが、その次元の内容がもつ任意の値が経験の詳細な内容に入る場合、そうした内容のタイプはアナログである。経験がもつ可能な内容の範囲は、知覚者がもつ概念によって選出される範囲に制限されはしない。シナリオ内容はこうしたアナログな性格をもつ。

・〈単位から自由(unit-free)〉:テーブルが特定の幅をもっているのを見るとき、われわれはそのテーブルをインチやセンチメートルにおける特定の幅をもったものとして見てはいない。これは〈シナリオを特徴づける仕方〉と〈シナリオそれ自体〉の区別においても説明される。シナリオそれ自体は単位から自由であり、シナリオを特徴づける仕方は何らかの単位を用いる必要がある。

(c)

・シナリオによる説明は、経験の内容が異なった感覚様相において重複することを許容するという意味において、経験の非様相的内容の可能性を与える。視覚的経験の正しさによって要求される環境への制約は、触覚的経験における対応物と重複するかもしれない。視覚的経験も触覚的経験も、どちらも特定の距離・方向にある表面の存在を表象する。そうであるがゆえに、概念を含んだ高次のレベルにおいて、「その表面は赤くかつ温かい」という判断は当該の表面に関わるいかなる同定信念にも依存してはいない〔さらなる検討が必要〕。

・以下の二つの考察より、表象内容の説明において、シナリオに言及する説明は純粋に命題的な説明(表象内容はラッセル的記述の集合である)によって免ぜられない。

・純粋に命題的な説明の妥当性は、シナリオによる説明に寄生するものとしてでなければ理解できない(例えば、霧の中にいる或る知覚者が知覚経験を「北の方角が霧で覆われている」という命題で記述する場合、その指している領域が自身の北東に当たる別の知覚者も、同じ命題で記述される経験をもっているということがありうる。それゆえ、異なった知覚者がもつ異なった経験の内容が、同じ記述で特定化されることになる。シナリオ内容の擁護者は「知覚された領域がある方向」という言葉が含まれた記述を用いる。この方向(ways)はシナリオによって十分な説明が与えられる)。

反論:問題となっている表象的内容を、単に「Rは霧で覆われている」(Rは当該の領域)ではなく、「Rは霧で覆われている、かつ、RDの方向に位置づけられる」(Dは自己中心的方向)というラッセル的記述の連言によって与えればどうか。

再反論:これは「自己中心的」をどう解するかによって二つの仕方で解釈できるが、どちらも不十分である。

解釈① 何かが自己中心的方向Dにあるのを見るということは、単に対象x(実際には対象xは知覚者自身である)との関係で特定の方向をもつものとしてそれを見るということを含む:これは弱すぎる。なぜなら、対象xが知覚者自身であることに気づかずに、対象xとの関係で特定の方向をもつものとして何かを見るということは可能だから(ピーコックの挙げている例は「鏡の中で見られている人物」という一言だけで詳細が不明なので、独自に例を考えてみる。例えば、電器店の店先でテレビモニターのニュースを見ているとき、ニュースの中ではサーカスの虎が逃げ出したと報道され、中継カメラがその虎の行方を追っている。画面には虎が映し出され、今まさにどこかの店先でテレビを見ている男性に背後から襲いかかろうとしている。この男性は知覚者当人であるが、彼は後ろからビデオカメラで撮られているのに気づかずに、モニターのなかの人物と虎を見て次のような思考を行う。「私はモニターの中の男の左方向にいる画像中の迫り来る虎を見ている」。このように当人の知覚対象を、実際には当人でありながら当人がそれに気づいていない対象との空間的関係によって記述することは可能である)。

解釈② 何かを自己中心的空間的特性をもつものとして見ることは、それを自己自身に対して特定の関係に立つものとして見るということである(これは視覚的経験の内容を与える思考において第一人称を使用することを含む):しかし、これから見てゆくように、純粋な命題的説明は第一人称の十分な説明を与えることができない。

 純粋な命題論者にとって、命題的内容は非概念的内容を尽くしている。しかし、この立場はシナリオ論者が受け入れる二つの原理と矛盾する。

 第一の原理は「エヴァンズのテーゼ」である。このテーゼはこう述べる。主体が自らの知覚に基づいて非推論的に適切な第一人称的空間的判断を生み出す用意があるということが、その主体が第一人称的な思考を行うことを部分的に構成している。これは主体が橋の上に居るという経験をもっているときの「私は橋の上にいる」や、「私はビルの前にいる」「私の右に犬がいる」等々を含む。

 第二の原理は「依存の原理」である。このテーゼはこう述べる。或る概念にとって、その概念を所有するとはどのようなことかについての正しい説明によって決定される以上のものはありえない。依存の原理が正しければ、われわれは次の図式を書き込むことによって概念を個別化することができる。概念Fはそれを所有するために思考者が条件A(C)を満たさなければならないような概念Cである。ここで概念Fは、思考者に帰属される心理的状態の範囲内において、そのようなものとして言及されるべきではない(もしそのように言及されるなら、その概念を所有するとはどのようなことかについての正しい説明によって決定される以上のものが残る)。

・もしわれわれがエヴァンズのテーゼを受け入れるなら、第一人称的な思考は、思考者の知覚経験の内容に対する、第一人称を含んだ現在時制の空間的判断の合理的感受性によって一部が個別化されるだろう。しかし、命題論者によれば、経験それ自体はシナリオによって説明されないような第一人称的内容をすでにもっている。それゆえ、命題論者は依存の原理を遵守するような第一人称についての説明を与ええないだろう。概念の習得についての説明は、もしそれが、当の所有が説明されるべきであるような概念の所有を要求する内容をもった知覚的状態の享受に注意を向けるならば、いまだ循環している。

〔エヴァンズのテーゼ…第一人称的な思考は、知覚に基づいた第一人称的判断をなすための識別的な感受性によって部分的に構成されている。

 依存の原理…或る概念にとって、その概念を所有するとはどのようなことかについての正しい説明(条件)によって決定される以上のものは存在しない。

 エヴァンズのテーゼより、第一人称的思考はその構成要素として知覚に基づいたシナリオ内容によって適切に個別化される。しかし、命題論者によれば、経験はシナリオ内容によって説明されないような第一人称的内容をもっている。しかし、依存の原理によれば、第一人称の概念はシナリオ内容によって説明される以上の内容を有してはいないはずである。したがって、命題論者は説明すべきものを前提してしまっているのである〕

・この問題は、第一人称的な思考の個別化において、経験と思考のどちらも先行しない、と純粋な命題論者が言うだけでは解決しない。第一人称的な概念の習得についての説明の一部に識別的な感受性が含まれているということが同意される限り、同意した者は、第一人称的な概念の習得を前提することなしに、その感受性とは何なのかを説明する義務がある。もし依存の原理を受け入れるなら、第一人称的な概念の把握についての説明は、それを他のすべての概念から識別しなければならない。純粋な命題論者が、第一人称は次のような概念mである、すなわち、Fmかどうかについての判断が、Fmが事実であることを表象する経験の感受性を示すような、そうした概念mである、と言うならば、彼は確かに何か識別するためのものをもっていない。この条件は主体の周囲の場所についての直示的思考を含むような他のものによって満たされる。自然な更なる条件は、経験のシナリオ内容に対する第一位人称的で現在時制の空間的判断に関連する条件である。これは純粋な命題理論ではなく、シナリオ内容(ラベリングされた原点と座標軸を含む)を利用するものである。

・シナリオ論者は次のような仕方で第一人称に適用された依存の原理を尊重することができる。根本的なタイプの表象的内容はシナリオによって与えられる。シナリオはラベリングされた原点と座標軸を含んだ空間タイプである。エヴァンズのテーゼによって採り上げられた合理的感受性は、第一人称的な現在時制の空間的判断の合理的感受性であり、この判断は身体的原点と座標軸を含んだ経験のシナリオにおいて諸々の事物が表象する空間的関係についてのものである。これは循環を免れている。