5.
・ われわれが思考する際の媒体である動態的な体系全体は、その外部の何ものかとの概念外的なつながりによってその場所を得ているのではない。われわれは自身の描像を、概念領域を囲んで境界が在り、その境界の外部に体系の内部へと衝撃を与える実在が置かれている、という風に描いてはならない。そのような境界を越えるいかなる衝撃も因果的なものにすぎず、合理的なものではありえない。
・ マクダウェルは〈経験において世界はわれわれの思考に合理的な影響を及ぼす〉という考えを保持するために、その境界を描像から消去するよう要請する。動態的な体系を作動し続けるところの感覚への印象は、すでに概念的内容を備えているのである。その印象において明示されている事実は、概念領域を囲む境界を越えた外側に在るものではなく、そして、感受性に対する世界からの衝撃は、そのような境界を横切って内部へと向かうものではない。マクダウェルの論点は、われわれは観念論に陥ることなしに、つまり実在の独立性を軽視することなしに、その境界を消去することが可能である、ということである。
・ われわれはつねにすでにそのような動態的な体系の内部での概念活動において世界へと参与しているものとして自分自身を見出す。この条件についてのいかなる理解も、その体系の内部からのものでなければならない。
・ われわれは、別の思考者が当初、不透明(opaque)であるのを見出しうる。これは、われわれにとって利用可能な世界をもとに、他者が行う参与がもつ概念的内容を構成するという作業を課すかもしれない。その間に当の他者が参与している世界は、確かにすでにわれわれの視野のなかにある。こうした明白な事実はマクダウェルも認める。
・ マクダウェルが排除しようとしているのは次の考え(=境界横断的描像(a sideways-on picture))である。
・ 他者理解の過程で、われわれは〈世界〉と〈その内部で他人が思考するところの概念体系〉との関係を利用する。そのため、その不透明な概念能力の内容を推測する段になると、われわれは境界横断的描像――こちらに概念体系、あちらに世界――を細部に渡って埋めてゆく。その描像には初め輪郭しかないが、当初からそれは利用可能だった。
・ この描像は、われわれが理解するに至ったその他者の概念体系を取り囲む境界の外部へと、世界を位置付ける。それゆえ、その描像は〈概念の集まり〉としても〈経験的素材〉としても何ひとつ真に理解可能なものを描くことができない。なぜなら、それが概念と称するものは、合理的にではなく因果的にのみ、世界からの衝撃と結び付けられうるからである。繰り返し主張してきたように、その描像は〈概念の集まり〉と〈経験的素材〉双方の地位を不可解なものにしてしまうのである。
・ 境界横断的描像の誤りは、次の事実に重きを置かなかったことにある。すなわち、不透明な他者を理解してゆくなかで、その思考がもつ特徴的な性格がわれわれの視野に入ってき始めるとき、われわれはひとつの概念体系の内部でその他者と観点を共有し始めるのである。その観点からわれわれは、概念体系を囲んでいる境界を抜け出す必要なしに、他者と一緒になって世界への共同注意を方向づけうるのである。
6.
・ マクダウェルは第一講義の第7節において、「内的経験」の対象は経験それ自体からの独立性をもたない、と主張した。これは「内的経験」についてのわれわれの理解に試練を課すものである。
・ 「内的経験」に関する所与の神話を否定するならば、われわれは以下の二つのいずれかを行うように迫られる。すなわち、(1)「内的経験」が気づきについての問題であるということをそもそも否定するか(これは「擬似麻痺(feigning anaesthesia)」という哲学的戦略に似ている)、さもなければ、(2)気づきを働かせ続けておいて、「内的経験」の対象は経験から独立ではないという主張を断念するか、いずれかである。(2)においては、「内的経験」は状況についての気づきとなり、その状況は当の気づきとは独立にともかく(anyway)獲得される。「内的経験」が感覚である場合には、適切に関係づけられた身体的状況を対象と解すれば、必要な用件を満たすと思われる。これは「内的経験」を、それが何かについての気づきを構成する限りにおいて、「外的経験」と同化する。両者の差異は、ただ経験の対象の遠近という「程度の差」にのみある。これらの立場はどちらも満足の行くものではない。
・ 「外的経験」の概念が特定の仕方で自発性一般へと統合されているように、われわれは「内的経験」の概念を統合するための異なった特定の仕方を見出しうる。「内的経験」の印象と「外的経験」の印象とはともに、概念能力が作動へと引き入れられているところの受動的な出来事である。そして、「内的経験」において作動に引き込まれている概念能力も自発性一般へと統合されている。しかし、この場合における統合の様態は気づきの対象に独立性を与えるようなものではない。
・ 例えば、或る主体が「内的経験」の判断において痛みの概念を使用する能力をもっているということを認めうるのは、当人がその判断の関わる状況をいかにして世界一般へと適合させるかを理解しているときに限られる。このことが要請するのは、主体は自分が痛みを感じていることを一般的な事象タイプ(つまり誰かが痛みを感じていること)の特殊ケースとして理解していなければならない、ということである。
・ そのために主体が理解していなければならないのは、「内的経験」へと引き込まれている概念能力の役割は「内的経験」およびその判断における役割へと制限されていない、つまり、その第一人称的で現在時制的な役割へと制限されていない、ということである。
・ これによって、「内的経験」を〈気づきと対象〉という構造の限界事例として考察することが可能となる。われわれは、例えば、主体が痛みを覚えているその状況の気づきとして、そのなかに痛みの概念が引き入れられ働いているような、そうした「内官」の印象を理解することができる(ここでの「状況」は、痛みの原因としての身体的外傷のようなものではなく、痛みを感じていることそのもの)。「内的経験」において〈気づきと対象〉という構造が適切に位置付けられるのは、気づきの対象である同じ状況が、「内的経験」を表現する思考以外の仕方で――他の誰かによって、あるいは主体自身によって別の機会に――思考可能であるときに限られる。これは〈気づきとは独立の状況〉という着想を与える。しかし、主体のもつその状況の概念把握は感受性の「内的」作動である気づきを通じてのみ習得されるのではないが、その状況は感受性それ自体の作動以外の何ものでもない。
・ 〔補足〕:確かに、「誰かが痛みを覚えていること」を内官の対象である状況として捉え、主体がその状況タイプのトークンとして個別的状況を理解するならば、そうした理解が必要な背景理解を構成するがゆえに、「内的経験」において作動させられている概念能力が自発性一般に統合されていることを保証できるように思われる。しかし、もし「痛み」が、それを感覚している当人のみがアクセス可能な一人称的特権をもった私秘的エピソードであるならば、主体が感じている痛みの状況を第三者が思考することはいかにして可能なのだろうか。もし、当の「状況」が痛みの原因である身体的外傷であるならば、その外傷を第三者が視覚を通じた「外的経験」において思考しうることは明らかである。だが、マクダウェルは、外傷のような原因論的な状況を内官の対象とすることに、それが内的対格の要請を満足させえないということを論拠として、強い拒絶を示すだろう。逆に、痛みがその本性上「私秘的」なものではなく「表出的」なものであるならば、その表出された状況を第三者が思考することは可能となるだろう。だが、痛みが表出的であるとしても、それを当人の「内的経験」を度外視して行動主義的に解してはならないだろう。「内的経験」がもつ一人称的特権と表出性とはいかにして調停されうるのか。このトピックは、マクダウェル自身の他講義での議論も含め、より詳細な検討を要する。
7.
・ 所与の神話を拒否すると同時に、われわれは「正当化の基礎を遡行してゆくことは、生の現前を指し示すことへと終着する」という考えも拒否した。これは、〈指し示すこと〉へ帰属させうる正当化の役割をわれわれが自ら奪っているのではないかという不安を生じさせかねない。確かに、判断が正当化されていることには、世界の諸特性を指し示すということが含まれていなければならない。そうでなければ、自発性の行使が摩擦なきものに見えるというリスクを背負うことになるだろう。
・ しかし、いまやわれわれは「思考の領域の外部」(第3節)のような言葉に含まれている両義性に対する備えができているため、この不安を扱うのは容易である。〈指し示すこと〉が果たす正当化の役割にはふたつの異なった概念把握がある。①マクダウェルが推奨する概念理解によれば、正当化は〈思考すること〉の領域から世界の諸特性を指し示すことを完全に包含することができる。②この指し示すことが〈思考可能な内容〉の領域を囲む境界を突破しなければならないと想定する場合に限って、われわれは所与の神話へと陥る。