【習気? どないマシン言うねん?】


誰からも教わってないのに子供の頃から関心があるもの、得意だったりすることを仏教では『習気(じっけ)』というそうな。どうやら前世とカンケイあるらしい。私の場合それはウンコだった。


子供時代から家族や学校という場で、人さんとのコミュニケーションがあまり得意でなかったのだが。例えるならば、学校で女子グループと会話に至ったとして「明日からダイエットしなきゃ」どうのこうのの話題で、「マジ贅肉ヤバいよね〜」「今日は食っちゃえ食っちゃえ!」などというその場しのぎの消費的な会話にうまくノれず、つい「(一昔前はふくよかな女性が美の対象とされていたのに)現代女性は何故、痩せたいと思うんすかね?」と呟いてしまいチーンと会話が終わってしまうである。女子の会話の殆どが黄色い声、ピーチクパーチクにしか聞こえないのであーる。

そんな日々だが基本的に一人が好きだったため、山にエロ本を拾いに行ったり、お祈りや瞑想をしたり、密教のマントラを唱えたりと比較的エンジョイライフを送っていたような気がする。


なかでも小学高学年から中学生くらいまで何故かマイブームにウンコがやって来て、毎日一日中ウンコのことしか考えてなかった。『今の自分を超えたい。産み出したい。確固たるなにかを掴みたい』っていうその突破口が『とりあえずウンコ喰う』であった。『ウンコは汚い、ゴキブリは汚い、人間はエラい』というような善悪の価値観や既成概念、己の既存OSをぶっ壊したかった。とにかく一日中ウンコのことを考えていた。 

だがしかし。いざブツを食そうと和式トイレにて挑むのだが、出たブツを眺めながら、あるいは割り箸で一口大にカットしては、ブツを指で掴んで口元に添えてみては...『今日は食うぞ、食うぞ、食うぞ〜! うーん...やっぱ食えない...』となるわけである。スカトロ趣味なわけでもないのに汚物を食うという行為は、相撲が好きでもないのに間違って相撲部屋に産まれてしまい仕方なく相撲部屋に入門し横綱を目指すというM的人生と軽く似ているのかもしれない(似ていない)。


『食うか食わないかなら、俺は食う人生を選ぶ』のフレーズで有名なのが『劇場版テレクラキャノンボール2013』。カンパニー松尾やバクシーシ山下、梁井一らAV監督たちが、化け物女たちのウンコを食う食わないで勝負を競っているのだが、もはや『ウンコ食う食わない』。どっちが健全でどっちが不健全なのか議論することすらどうでもいいレベルにぶっ飛んでて面白い。


こちらはドラゴンメディアさんより、山本竜二さんの熱き言葉。1分45秒〜キます。🍥✨


※トランプさんは関係ありまへん。


さておき。

そんな中学時代のある土曜日、私はウンコを食った。正確には母が買ってきた焼き芋にサンドして食べたのだが、『無』の状態というのか「降りて来る」...ってよく使われる言葉だけど、根を詰めているときはまるでダメで、力が抜けた時ピーンと張りつめていたもの全てを手放した時...。ソレを口にしたのであった。結局ウンコはウンコで何の感動もなく、飲み込んだ瞬時に嘔吐したが、結局この世は仮の姿なのかもしれないなぁとか、日常こびりつている己の自我がほんの少しとれた気がした...のは嘘です。ウンコはウンコでした。

言語化するのは難しいにゃあ🍥✨


大人になって聞いた話だが、インドの聖者さんは二元性を超越するため、ガラスの破片や汚物を食べ修行しているらしい。

ウンコに魅入られた。私はもしかしたら、抽選でウンコに選ばれてしまった幸運なテストサンプルなのかもしれない。その後もウンコみたいなライフは続く。

あゝ習気。