【アウシュパイになった日】



10年近く前、生きづらさもあったが、自己を深く探求してこなかった自身の内面の甘さやツケもあり、精神病院に一年数ヶ月入院した。そのさい無意識に病院に持って行った数冊が南研子さんのアマゾン本だった。


精神病院では、朝の挨拶は決して「おはよう」ではなく、「カーッ』という威圧であったり「昨日キムラさんで一発ヌイたよ」と話しかけてくる半裸の親父だったりデタラメ万歳で心底ホッとした。


それまでのワタシはお金や時間や常識や一日中垂れ流しの電波や、いろんなものにもので窮屈しながらも着膨れしていて、ありのままであっけらかんと生きているココでの人達がキラキラと光ってみえた。娯楽がまるでなく自前で遊びを調達するしかないものだから、歌ったり踊ったり絵を描いたり、ごっこ遊びや芝居したりとオリジナルな遊び方をしていたし、更に対話も通じないものだから、共通の言語はバイブスであったし、植物などといった自然や天皇さんや見えない敵との対話を命がけでしていたし、盗人もいたし、なにもしないならしないで、一年中ぐうたらしてる人もいたし。原始的な生き方をしていた。





入院患者さんの夜中の発狂や洗濯物などの盗み、週に③度の入浴では湯船に普通にウンコが浮いているのだが、それら全ての対処法は『なかったことにする』であった。精神を病んでるお相手に感情を寄せても仕方がないもので、瞑想や念仏を唱えることに目覚め(子供のころしていたので正確にはリターン)スルー力をつけた。というか全ての存在が精霊さんにしか見えなかった。


自称書家の先生もいたけれど、「降りてくるまでは書はかけないの」といって、結局ワタシが入院してる間は一回も「降りてこず」で、本当に書家だったのか分からないことが愛おしい。クリスマスのカラオケ大会では一人が与作を歌うと、次与作、また次与、そのまた与作、与作いっときますか。てなわけで与作大会になる。前の人が与作だから自分は違う歌にしようという外側が作った常識がない(しかし精神病の方のボイスは素敵すぎて笑い死にそう)。


人生デタラメでいい、ありのままのダメな人ほど愛おしいということを突き付けられる。みんな純粋で、社会とコッチとどっちが基地外なんかというと、社会に出てコンクリートのなか人中心にしか生きてない人の方がおかしいんかなーと思ったりもしたけど、どの方もどの人生も、生き様じたいアートなんかなー・・


ココでは『なにもない』という環境だけを提供されたのだが、お金も仕事も人間関係のしがらみも電波も、、なにもないってすごいこと。『コレで助かった...』とホッとしたものだ。

毎日は死にそうな程笑っていて顔が野生味を帯びてきて、「今の服装とか化粧とか実はあっしには似合ってないし、趣味じゃねーなー」と、なんとなくフタをしていた本当の自分自身の基盤エキスがじんわり出て来たような?


次第に、心が裸なのはチョー楽ということを知り、そこから内面世界へ降り立っていくが、奥へ進むとまだまだ憎悪地獄で、見て見ぬフリをしていたあれやこれやの残骸だらけだった。棚卸しはまだ続く。


南研子さんの本は、文章も写真も絵も3Dの飛び出す本みたいに宮殿と化していたが、特になんともユニークなカマラメイナクさんの絵が大好きで、写経のように描き重ねた(最初は絵を紙に書くという概念すらなく、壁に描いて院長に怒られ大泣きした)。





『自分を生きる』『自分のことは自分で決める』ってとても難しい。ほとんどの人は「安い、便利、早い」が良いと思っていて、何も考えずそれらを手にしていて「自分が好きか嫌いか」で選んでいない。

流行りのものブランドものはお洒落だとか、ゴッホの絵は凄い、雨の日は嫌だ、痩せてて目が大きくてオッパイがデカい女の子は可愛い、死ぬことは怖い、SNSの「いいね」等、全て外部が作った基準。また「恥ずかしいことは、恥ずかしくない」し、「ないことは、ないことを持っている」ということだったりする。


自分に嘘をつかずにオリジナルで生きたいもんだす。




ふぎゃーっ!!


全然本の感想になってない🍥💦💦

朝の雑記。




ausyupai(アウシュパイ)とは、ブラジルアマゾンに住むインディオ・メイナク族の言葉で『ありがとう、嬉しい、楽しい、大丈夫、大好き」などプラスな意味を持つ言葉。何故か惹かれるものがあり、10年程前から、ausyupaiと名乗り活動しています。