みなさま

 

こんにちははな。

 

✳︎ 星のおと ✳︎ いちこ です。

 

初めての皆様もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

さて、
今回は「因果」についてを
武士道を交えながら書かせていただこうと思います。
 
 

向こうより切り立ちを一目見て 

そのままにそこにて合わんと思えば
向こうの太刀にそのままに心止まりて

手前のはたらき抜け候
むこうの人に切られ候

 

仏法には此の心の止る心を「迷」と申し候、

故に、「無明住地煩悩」と申すことにて候。

 

 

(沢庵和尚 住地煩悩)

 

「敵がいる!」と思った瞬間 

あなたの心が敵に居ついて動けなくってしまう
その隙に太刀も抜けず、動くこともできず
あなたは相手に切られてしまう

 

このように心が止まり動けなくなることを

「迷い」と言い

「無明住地煩悩(むみょうじゅうちぼんのう)」と言います。
 

 

 

沢庵宗彭(たくあん しゅうほう)は

禅で武道の極意を説いた

安土桃山時代から江戸前期に生きた臨済宗の僧です。

 

 

 

 

この方が仰りたいことは

どのような相手、どのような状況が起きても

脳に何の情報も入れず
間髪入れず次の行動を起こすことが大切で

そのためには

「私を守ろうとする概念を捨て」

「私という概念を一旦忘れること」

だ、という事

 

 

これは非常時においても同じことがいえますね

なにか予想外の出来事があった時

頭であれこれと余計なことを考えている内に

事態が悪化し、状況に飲まれてしまう

 

思考は迷いとなって

あなたを飲み込んでしまうのです。

 

 

 「我空。人空。剣空。右三空
 一心観、百戦百勝之功、此に
 在るものなり。」

 (沢庵和尚全集「雑纂」)

 

 

 

平常時においても

 

あなたを不安にさせるもの
あなたの行動を制限するもの
あなたの考えを否定するもの

あなたの心身のパフォーマンスを低下させるものを

仮に「敵」とした場合

 

 

それに対し嫌悪感を抱くことがあるかと思いますが

そう感じた瞬間に

あなたの心は相手(状況)に居ついて動きを封じられてしまいます。

 

また、その相手や状況を「敵」だと感知してしまう

思考に陥ってしまうと

心身の老いや加齢すらも

その原因が外部から到来し

わたしの機能を劣化させているのだ

わたしを苦しめているのだ

という考え方になってしまい

 

その結果

 

「自分で自分を敵にしてしまう」のですね。

 

さらに言えば

その瞬間あなたは「因果」で物事を捉えてしまっています。

 

 

 

この「因果論」をわかりやすく例えますと

私の場合の経験談になりますが、、

 

 

私の住んでいる地域は過疎地域

高齢化、少子化の世界ですので

人との関わりは街中よりも密で年中行事も多く

ご近所さんや学校関係の関わりも以前とは比べものにならないくらい繋がりの深いものになりました。

 

 

 

そのような中、私は

子供達のクラスのお母さん方とのコミュニケーションが上手くとれません。

 

 

ご近所さんとはとても良い関係がすぐに築けたのに

学校が絡むと上手くコミュニケーションが取れなくなってしまうのはなぜだろう?

 

 

そこで、パッと思いついたのが

小学生時代にあった「いじめ」の経験でした。

 

 

私は子供のころ

学校でいじめられた経験があるから

学校関係(他のお母さんたち)とコミュニケーションを取ることに恐れがあるんだ。

 

 

主観を使い思いました。

 

 

そう、、、これこそが正に因果論です。

 

私が悪いんじゃない!恐れの原因を作ったものが悪いのだ

 

「原因は自分の内部ではなく外部ある」

すり替えて

自分の本質と向き合うことなく

現実から逃げてしまっていたのでした。

 

 

沢庵和尚のいう、

「住地煩悩(じゅうちぼんのう)」

物事を因果の関係のみで考え

勝手に敵に居つき身動きが取れなくなっていたのです。

 

 

しかしながら、私はこの過去のいじめの件に関しては

もう10年位前にブロックを外していましたから

どうしてそれがまた関係してくるのか疑問に感じていました。

 

 

そして、自己観照をし、

それは自分の主観からくる「逃げ」であり「言い訳だった」と気がつくのです。

 

このように、

上手くいかない現状を「因果付け」すれば楽なのです。

 

自分と向き合う必要なく

「外部から来た何か」に責任転換できますからね。

 

 

 

あの人さえいなければ上手くいっていたのに、、

 

あの出来事さえなければ我が家は幸せだったのに、、

 

あれさえなければ、、あの人さえいなければ、、云々

 

 

またはスピリチュアル界でありがちな

 

過去世で◯◯な経験をしたから私は◯◯が苦手なのだ

 

私はもともと宇宙存在(スターシード)だがら地球で生きにくいのだ

(↑これは私もよくわかります、、

しかし地球での生きにくさと宇宙存在であった因果は

全くの無関係で幻想だと気付きました)

 

 

なども主観と因果論で語っている分かりやすい例と言えます。

 

 

 

※誤解を招くといけませんが、

全てにおいて因果は関係していないとは思っておりません。

実際にカルマやトラウマなどのブロックがあり

命のサイクルに支障がきたす事案もありますので、

それぞれのケースによって因果論は必要とされる場合もあります。

 

 

 

 

しばしば、スピリチュアルを現実逃避の言い訳に使ってしまっている方が見受けられますが

 

そのような時こそ

 

自己観照

をしていただきたいと思います。

主観を外し 今起きていること、
感情を静かに観察すること
 
心のなかに流れ込んできた不安や恐れを
正当化せず、
ポジティブに変換しようとせず、
ただ、あるがままに気づくことで

 

 

それらの上手くいかない現実も、

自分を構成するものの一つである

と腑に落とすことができれば

「敵は元から存在していない」という事に気がつくのです。

 

 

 

敵を作らない思考とは「無我」のこと

 

「私を守ろうとする概念を捨て」

「私という概念を一旦忘れる」

 

私が私を忘れた時 初めて

無我の探求への第一歩目となります。

 

 

 

 

 

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「自己観照」について
先日から引用や具体例を交えながらいくつか記事を書かせていただいております。
 
 
 

 

 

それでは、本日もご訪問頂きまして

誠にありがとうございました。

 

 

かんながら たまちはえませ
かんながら たまちはえませ

(八百万(やおよろず)の神さまの御心のままに

 お導きくださいお護りください。)