釈迦の法則は罪からの解放です。
解脱(げだつ)です。
解放され境地に達し悟ること。
これは疲れるね~
自分の力で頑張る。
要するに罪(肉)からの解放だ。
何千年何万年も掛かりそうだ。
永遠だな。
無理だ。
釈迦は分かっていた・・・自分の救いでは人は救われないと。
釈迦が自分で言っているのだから本心だろう。
一般庶民は救われない。
ほんの僅か一握りの人だけ特別なことをすれば達成できるだろうと言った。
あいまいだ・・・
人間の技によって救われる。
私には傲慢に見える。
人間の技によって神の聖に到達できると考えているのか。
これこそ一番の偶像だ。
人間中心主義。
自分中心に生きようとする。
神を自分に入れない生き方だ。
神の中に自分を入らない生き方だ。
孤独だ。
暗闇だ。
諸々の神の原点はこうである。
初めに地球がある→人間・物・宇宙・動物・植物がある→そこから神が発生する→だから自然界が神になる!
バビロニア神話・日本書記・古事記・三五歴紀・エジプト神話・ギリシア神話・進化論・唯物論もみんな同じだ。
何か順番がおかしい。
だから救いはこのようになる。
「非人格になることだ!」・・・?
「無自我になることだ!」・・・?
これは果たして正しいだろうか・・・?
・・・だから救いはないのです。
どうしても自分自身を自分で救わなければならない。
非常に大変だ。
しかしこれは単なる法則でしかない。
人格がない。
自分が中心だ。
無自我になれるのだろうか?
目の前に見えるものを無いと思う。
札束も紙切れと思う。
魅力的な異性も存在していないと思う。
頼りになる同僚も存在していないのだ。
無なのだ。
非人格だ。
だから結論は・・・
こうしたら命を持てますよという説明が無いのです。
曖昧でありいい加減だ。
そもそも命の意味すら分からない。
なので人格者である神様をほめたたえることなど考えられないのです。
ほめたたえる方法も分からない。
この私もかつてはそうでした。
人生がフニャフニャ。
人生が固まらないのだ。
砂の上の人生だった。
人生の意味も分からない。
人の正しい生き方も語れない。
人間中心主義。
恐ろしいことだ。
神の意味も分からない。
未来も読めない。
自分で読もうとするから分からない。
神が教えてくれるということが考えられない。
神という人格者に出会ったことがないから。
虚しく寂しい人生だ。
一体何億人の魂がそのような虚しい状態で死んで行ったのか?
悲しい。
羊は他の羊を救えません。
羊は自分も救えません。
羊を救えるのは羊飼いだ。
この羊飼いにしがみついてついて行くことが羊の知恵だ。
知恵ある羊は救われる。
羊は帰巣本能がない動物。
天国の父の元には帰れないのです。
自分の力では・・・
天から来たお方が天への帰り道を知っている。
天国に入る軌道に乗る方法を知っている。
羊はモザイク眼。
目が悪い。
逃げるのが遅い。
足が短い。
鼻が効かない。
毒物でも平気で食べてしまう。
協調性がなく自己中心な動物。
怖がりで臆病だ。
群れからはぐれるとヤブに絡まり直ぐに脱水症状を起こして死ぬ。
倒れたら自分で起き上がれない。
頭が鈍い。
しかし、知恵がある羊は救われる。
知恵とはキリスト。
キリストについていけば救われる。
羊は私たち人間の姿。
羊飼いはイエス・キリスト。
羊飼いは羊のために自らの命を投げ出すくらいに羊を大切に思っています。
一匹として失われないように命を懸けていくのです。
イエス様、凄~い。
復活の主にありて
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