「ヤソ(耶蘇)」・・・とは?
Jesusのラテン語読みを中国語(近代中国音訳語)にしたものに日本語を当てはめたもの(音読みにした)。
意味はイエス・キリスト・キリスト教・キリスト教徒。
韓国語のハナニムとは天主である唯一の神を表しています。
クリスチャンはこの神様に命を預けたのです。
命を託したのです。
この日本でもおびただしい数の殉教の血が流されました。
人格を持ったお方がいるからそれができたのです。
人格を持ったお方と交わり一体となっていたから踏み絵は踏めなかったのです。
イエス様のお顔に泥を塗ることは死ぬよりも辛いことなのです。
主とは・・・?
贖い主ということ。
贖うとは身代わりに死んでその人を助けること。
私たちの身代わりにこの世の罪の泥の中に飛び込んでくださったのです。
イエス様が死んで私たちが生きるようになりました。
罪が死ねば人は生きるのです。
罪が生きていれば人は死んでいるのです。
また主には諸々の王を貫くという意味もあります。
イエス様は主の主。
貫いているのです。
さて・・・
仏教は変幻自在の空気のようなものです。
自然界を命・神としています。
自然生命が神になっているのです。
もっと深く言うと自然界に隠れて自分自身が神となっているのです。
しかし、この宗教はモンスーン気候の国だけしか通用しないのです。
ヨーロッパや砂漠地帯では一切通じないのです。
自然が人間の敵になって迫って来るからです。
小乗仏教は自力で救われます。
他力と自力を重ねた日蓮。
浄土真宗。
景教はキリスト教が入り込んでいる。
自然に同化させることによって解放される?
中国から日本に入って来た。
遣唐使が持って来た宗教。
阿弥陀は何を読んで何を食べたのかそして何を語ったのか分からないのです。
他力本願。
いい加減だ。
自然界と同化する。
これもいい加減だ。
相手に人格がないから深いつながりが持てない。
ヨガは動物の形をとることによって自然界と一体となり自我をなくす。
あいまいでいい加減だ。
ある宗教を40年も続けている人と話をした。
自分が何を信じているのかが分からないそうだ。
心の底では疑っていると本人がさみしく語っていたのを思い出す。
要するに人は宗教では救われない。
宗教的な行事でも救われない。
教義でも救われない。
お布施が救うのではない。
献金の多さが救いの中核ではない。
奉仕が救いなのではない。
洗礼が救いでもない。
救いとは教会のメンバーになることや洗礼を受けること以上のことが求められている。
それは命の関係だ。
キリスト教の中心はキリスト。
キリストのご人格を知り正しく交わる。
人格と人格のつながりと交わり。
そこにずっととどまり続けること。
これが命。
命は間にある。
単一ではない。
動物は単一。
しかし、人間は愛し合う存在として創られた。
愛は真ん中にある。
愛の中に命はある。
復活の主にありて
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