罪と罪人と一体となられたイエス様 | ♡ 命 キリストのブログ ♡

十字架の上には裁きと繁栄が一緒にあります。


十字架の上には創造主の怒りと救いが同時にあります。


神様は祝福と呪いを置かれるお方。


すべてを創造する能力をお持ちです。


キリスト教の最大の特徴のひとつは神様と人間が一体となっていることですね。


キリスト教は一体化です。


神と人が全く一体となる。


どこまで一体となっているのか?


凄いところまでです。


神は人間と一体となります。


主イエス様は罪人と同じ立場に立って十字架に架かりましたね。


そうしないと罪の代価は払えませんね。


赦すという言葉は必ずその見返りがあるのです。


許すとは同意のことです。


何かがそこに当てはめられて赦されるのです。


恩赦、特赦という言葉が使われます。


天皇陛下の在位30年を記念しまして特赦を行い10年の刑を3年減刑致します。


はい、どうなりますか?


刑が7年に変わるのです。


何かがあって誰かが何かで償うことです。


聖書ではこの赦しが使われています。


許すとは全く違うのです。


許すとは財布から千円盗まれました。


仕様がないな、千円だから同意するのです。


十万円盗まれたらどうしますか?


同意できなくなるのです。


だから許さない。


許せなくなるのです。


このブログに目を通してくださっているクリスチャンの方々は許せるでしょうけれども・・・(笑)


この違いがあるのです。





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イエス様は罪人と一体化しました。


また人間の罪と一体となりました。


イエス様は罪人と罪人の罪と完全に一体とならなければなりませんでした。


主イエス様は十字架の上で呪われたのです。


呪いを背負うには罪人にならなければなりませんでした。


イエス様は本当は罪人ではないのですよ。


罪を犯したことがないお方でした。


聖なる子羊です。


勘違いしないでくださいね。


罪と罪人の身代わりのいけにえとして地上に来られました。


勿論、救い主として来られたのですが、同時に死ぬために遣わされたのです。


神様の怒りを受け止めるのは罪と一体化しなければならなかったのです。


十字架上での7つの祈りで分りますね。


主はとりなしてくださいました。


十字架に架かっていても昼の12時までは罪人ではありませんでした。


しかし、12時以降のイエス様のお姿が違っていましたね。


勿論、十字架に架けられて血が流れている部分は同じです。


痛みや苦しみの部分も同じだったと思います。


しかし、12時前の3つのお言葉は罪人が言ってはならない言葉でした。


罪人には絶対に言えない言葉です。


12時以降にイエス様は罪人になりました。


罪人が行かなければならないところに下って行きました。


12時以降にイエス様は霊的に死んだのです。


死とは天の父との断絶です。


父なる神様と一つ、人々と一つ、これを主イエス様は願っていました。


この一つを切り離すもの。


これこそ罪だったのです。









どうして十字架から降りなかったのかなど、また詳しく書いていきたいと思います。


今、祈りながらブログを書いています。


受難週、受難日、復活祭とすばらしい啓示がありました。


そして今日も喜んで角笛を練習しています。


人の性質、性格、能力、包容力などは創造主によって与えられました。


惑星を軌道に乗せることがおできになる知恵の神様は私たちの人生も義の軌道に乗せて歩ませることがおできです。


人間は霊的な要素を伴って創造されました。


創造主は人を特別に創られました。


美しい夕陽を見て感動することができる存在として愛をもって創ってくださり感謝します。


神様のご愛を感謝します。


みなさま、おひとりお一人が神様の目から見たら高価で美しく尊い人間です。


ハレル~ヤ!



復活の主にありて


人生の羅針盤

みことばセラピスト

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