わたしは   です。 | 不登校・ひきこもり 京都・亀岡 認定フリースクール アウラ学びの森 知誠館

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全国初の認定フリースクール。そこで繰り広げられる様々なエピソードや気づきの数々を、アウラの森の住人である私たちがお伝えします。
みなさんが探しておられる、不登校やひきこもりの解決につながるヒントが見つかるかも…。

ある日の高校生の国語のゼミの時間。
こんなプリントが配られました。






「わたしは_____です。」




_____のところに、自分を説明する言葉を思いつくだけどんどん入れていきます。

例えば、「わたしは人間です」、「わたしは女性です」、「わたしは亀岡出身です」、「わたしは○○マニアです」...

わたくし田中は、こんな感じでした。










...こうして公共の場でお見せするとちょっと恥ずかしい気もしますが、思いつく限りぶわーっと書き出してみました。


ピンクで囲ったものは、書き出した中で大事だと思うもの5つ。


それを、みんな前に書き出してみます。









私は「人間」、「田中愛美」、「日本人」、「本好き」、「日本語ネイティブ」でした。


ほかのみんなは、性別や血液型、出身地なども書いていますね...


みんなが一通り前に書き終えたら、ひとつひとつの言葉と、その言葉の持つ背景を、その言葉が持つ意味を吟味していきます。




「なぜ人間と書いたの?」
「自分って、私って何だろうと考えるのは人間だけだと思うから...」
「じゃあこれからAIが発達して人間と同じことを考えるような未来が来るかな...?」


「在日韓国人朝鮮人の人は通名と本名の二つの名前を持っている。その人たちにとって名前とは何を表すものなのだろう...」


「自分は○○人、と言い切れる人たちは世界にどれだけいるんだろう」
「生まれた国と、住んでいる国と、親が生まれた国と、話す言葉とがすべて一致している人の方が世界では実は少ないのかも...」









そういった問いとそこから生まれる答えから、あることを思い出しました。




ハワイを訪れ、第二次世界大戦を経験された日系2世の方にお話を伺った時のこと。





「僕はアメリカ人ですけれど、日本語を話せたおかげで、生き残った。仕事もできた。それは両親たち1世のおかげです」


そう言ったその方は、日本人のご両親のもとに生まれた、血は言うなれば「純」日本人。


ですが生まれた場所はアメリカで、育った場所もアメリカ、国籍もアメリカ。現在日常的に使う言語は英語。日本語はあくまで「外国語」として学び、それで仕事をしてこられた。そしてご自身を「アメリカ人」だとおっしゃる。そして、アメリカ人として第二次世界大戦に参加された。


その方は「アメリカ人」。





そう考えると、先ほど私が使った「血は『純』日本人」という言葉が、いったい何なんだろうという気になってきました。





例えば、私の好きな『ダーリンは外国人』というコミックエッセイがあるのですが、そこで出てくる「ダーリン」ことトニーさんは、血で言うと「ハンガリーとイタリアのハーフ」らしいのですが、「アメリカ人」だそうで。そして現在トニーさんはベルリンにお住まいのようで。


(昔読んだ本の記憶なので事実誤認があるやもしれませんが)





そうすると「○○人」というのは何をもってして規定できるのか?


自分で規定できるものなのか?でも「私今からアメリカ人!」と言っても誰も相手にしてくれないし...


はたまた他者からの規定を得ないと「○○人」と言えないのか?でも私がアメリカに移住し国籍がアメリカになり日常で使う言語が英語になったとしても「私はアメリカ人!」とはすぐには思えない気がします。





こんなことを考えていると、頭に「???」がたくさん浮かんできます。





そんな「わたしは_____です。」を書き出すところから始まったこの時間、どうやら「アイデンティティ」とかいうものについて考えることに結びつくようです。





goo辞書によると、アイデンティティとは



1 自己が環境や時間の変化にかかわらず、連続する同一のものであること。主体性。自己同一性。「―の喪失」

2 本人にまちがいないこと。また、身分証明。


とのこと。自己同一性ってなんじゃそりゃあ...





ですが何やらこの言葉は文脈によっていろんな意味を持ちそうだぞということがこの時間の終わりに分かってきました。





そして、私たち日本人はあまりこの概念になじみがなく、それについて深く考えることをあまりしたことがない人が多そうだ...ということも。





この続きはまた次回...





...うーん。もっといろんな話が出てきたのですが私が言葉にするとどうにも議論を矮小化してしまっているような。この時間をどう言語化したらいいのか、私も探っていきたいと思います。