2月1日は自分にとって少し特別な意味を持つ日。

今年も2月1日がやってくる。

親父が居なくなって17回目の2月1日。


今までもいくつかのメディアで親父の事は触れてきた気がするけど、改めてこの期に親父についてお話をしてみようかと思います。


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父、初代石垣征山(本名:一博)は1951年1月6日生まれ。蜃気楼の見える町、富山県魚津市に故郷をもつ。
魚津高校から金沢大学に進学、その頃に尺八にのめり込み箏尺八部に所属、大学では尺八三昧だったとか。たしか機械工学科。

やがて卒業・就職の頃を迎え、憧れの人、後の人間国宝でもある尺八奏者の山本邦山先生に師事したいと言う一念のもと(!)東京の某企業に就職。先生の家の前まで行くものの、緊張のあまりどうしてもチャイムを押すことができず、悶々と過ごす日々もあったそうな。

ひょんなことから邦山先生より先に、こちらも当時第一線をひた走り、CMなどにも出演していた箏奏者の沢井忠夫先生に出会い、邦山先生への憧れを口にすると、その場で忠夫先生は邦山先生へ電話してくださり、数ヵ月後には邦山先生と共にTVに出演させてもらえるようになっていたそうな。縁とは不思議なもんである。
そしてその沢井邸に出入りしていた玉置清美との出会いもあった。後のお袋である。



お袋と結婚し、二人での演奏活動も広がるなか、一博はとある決断をする。

会社を辞めて、尺八のプロになる』

親戚一同、もちろん大反対である(笑)
当時それなりの企業に就職していたので、『安定の生活があるのに、それを捨てるのか!』『仕事の合間での演奏活動ではいけないのか』等とさんざん説得されたそうな。そらそうだ。
そんななか、唯一賛同したのが一博の父、弥太郎だった。
『一博が決めたことなんだからやらせてやればいいじゃないか』と。素敵なじいちゃんだ。
(余談だけどもこのじいちゃん、俺が3歳の時に亡くなってしまい、ほぼ記憶がない。ただ、顔立ちや骨格が俺によく似てたようだ。頑固なとことか。隔世遺伝ってやつかな。一番似てると言われるのは、足のくるぶしの形(笑))

晴れて一博は尺八のプロとしての道を歩み始めた。


プロになったからといって急に仕事が舞い込んでくるものでもない。もちろん仕事もなけりゃお金もない、苦しい時期もあったろう。

でもこれ、裏を返すと、親父はよく家に居たってことなんだね。確かに子供の頃、お袋に比べて親父は在宅していること多かったし、よーく遊んでくれた。
(これまた余談なんだけども、親父は食べるのも大好き、酒飲むのも大好き。だもんで、割とふっくらとした体型しておられまして。お腹を枕にすると至福の温もりと柔らかさだったのである。よくそうして一緒に寝っ転がりながらTV見たり遊んだりしてたもんだ)

なんかこれだけ書くと食っちゃ寝してるダメ親父みたいに聞こえるけど、もちろんそんなことはなかった。親父はとにかくよく練習してた。子供の頃から当たり前の風景だったからなんとも思ってなかったけども、いま思えば暇さえあれば尺八吹いてたように思う。本当に好きでなければあれだけ練習はできんだろうな。

そして曲もたくさん書いてた。小さい電子ピアノを脇に尺八の独奏曲・多重奏曲から箏17絃三絃尺八の大合奏曲、尺八パートのない三味線の二重奏、もちろんお袋との二重奏を想定した楽曲もたくさんあるし、果ては合唱の入った曲まである。
編曲ものの数曲も合わせて、全77曲。
一曲が短くても8分、長いものだと20分以上になる事を考えると、演奏活動もしながらこれだけの曲数を手掛けたのはとてつもないことだなと。いま自分が少ないながら作曲を手掛けてて余計にそのすごさが分かる。

たゆまぬ鍛練、数多と生み出される楽曲、そしてよく笑い柔和で実直な人柄(レッスンの時は恐ろしいほど厳しかったらしいが)により、父は確実に活躍の場を獲得していた。それはいま自分が日本全国何処に演奏に伺っても、父との思い出話を伝えてくださる各地の皆さんの笑顔、何とも言えない寂しげな顔と触れて、ひしひしと感じている。


父を語る上で欠かせないパーソナリティとして、駄洒落がある。もうとにかく駄洒落を言いまくる。家族が反応しなくも駄洒落を言いまくる。
だもんで、父の事を知る人が俺と会うと『ん?息子の君は言わんの?言わないの?』と思われているようでたまに居心地が悪いときがある(笑)実際そんなことは無いと思うけど!!


石垣家は海外旅行に行くこともなかったし、スキーもしない、レジャーで遠出と言うのもそこまで頻繁ではなかったけども、毎年盆と暮れには父の故郷の富山県魚津市、そして母の故郷・和歌山県和歌山市に車でまわっていた。タイミングが合えば盆暮れ以外の時期にも。
いま考えるとまだ高速道も完備には程遠く、関越道すら完成してない(関越トンネルが対面通行!途中で一般道!!)状況で、恐ろしく時間もかかっていたが、父が一人ですべて運転していた。
母も免許を持っているが、一度少しだけ運転をして男子三人(父、兄、俺)が
『二度と運転しなくてOK!!Σd(^q^)』
と太鼓判を押したので、あの、御察し(笑)

長時間ドライブの時、BGMは圧倒的にビートルズが多かった。これはもちろん親父が好きだったと言うこともあるけども、車酔いしがちな俺がビートルズをかけると機嫌が良くなるという現象から起因している。
お陰でビートルズの楽曲はほぼ聴いたことあるし一緒に歌えるなー、歌詞が分かるとは言ってない。(^q^)

自分は東京生まれ東京育ちだけども、この盆暮れの里帰りのお陰で、富山と和歌山は自分にとっても故郷のような気持ちがある。富山の本気の方言は全く聞き取れないけども!!\(^o^)/

そんな何気ない里帰りの一幕。

2001年春、和歌山の母の実家に訪れた際、父はリビングのテレビの前で横になっていた。家では早起きなもんで昼寝も良くしていた父だけども、母の実家に着くなり横になる事はそれまであまり見たことがなかった。普段から健康には人一倍気を使い、バイタリティに溢れる父だったが、その様子を見た時は『最近忙しいから疲れてるのかな?長時間ドライブの後だしな』位にしか思ってなかった。

その頃から父は微熱がずっと続いていて、かなり体力を奪われていたのだ。

やがて病院にて検査することになり、病状が判明する。癌だった。

そして父は次の春を迎えることなく、2002年の2月1日に51歳の生涯を閉じた。



最期の時は目まぐるしく状況が変化していって、大好きな父が居なくなる、と言う覚悟も出来ぬまま、お別れになってしまった。
だからか分からないけど、いまだにたまに見る夢の中で父は普通に登場するし、すこぶる元気だ。目が覚める少し前になって
『あぁ、そうか、これは夢だった』
と少しだけ寂しい気持ちになる。



そんな父の17回忌が次の2月1日だ。

それに先だってこの前の土曜日、父の弟子だった人々や家の会(音心会)の会員の皆が父の墓に訪れてくれ、そして父の作曲した『群竹』と言う曲を吹いてくれた。
17回忌と言うことに限らず毎年みんな父の墓の前で献奏してくれる。
父自身が積み上げたものであることに間違いはないが、父は幸せな人なんだろう。


大分はしょったけども、これが父についてのお話。

しんみりした気持ちから書いたんではなくて、どこかで聞いた話なんだけども、
『17回忌にもなって人が集まる、と言うことはとても幸せなこと、むしろ良いことである』
らしくて。確かになーと。改めて父の事を皆にも少しお伝えしてみたくなったんです。

お付きあい、ありがとうございました!


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という事で、今年の2月1日当日は

お箏の慎さんと福岡で演奏してきマッスル!
福岡こども短期大学の卒業記念行事での演奏、昨年に引続きです。ありがたや!!



それではまた!!
よい一週間を♪

二代石垣征山